十二 烏の名簿
出蔵で鏡の名が出たその夕方、北宮には、人を呼ばない名簿が開かれていた。
北宮には、人を呼ばない名簿がある。
南宮の名簿は、人を呼ぶ。
綱を持つ者。
柱の脇に立つ者。
酒を運ぶ者。
来賓を案内する者。
そこに名があれば、声がかかる。役が与えられる。人前に出される。
だが、北の名簿は違う。
名が置かれた者は、表へ呼ばれない。
むしろ、人の輪から少しずつ外される。
会うはずだった者に会えなくなる。
届くはずだった言葉が届かなくなる。
通れるはずだった道が、別の道へ変わる。
本人を直接動かす必要はない。
周りが動けば、人は立つ場所を失う。
その帳面は、杜守文庫の奥にあった。
表の文庫からは見えない。
古い祭礼記録や写本が並ぶ棚の奥に、杉板で塞がれた壁がある。
壁に見えるが、壁ではない。
杜守文庫の女は、灯りを低く持ったまま、板の節に細い金具を差し込んだ。
かちり、と音がした。
杉板が外れる。
奥に、黒い箱があった。
漆ではない。
年月と油を吸った木の黒だった。
女は箱を両手で下ろし、机に置いた。
重い音が、文庫の奥に沈んだ。
南宮の太鼓は、ここまでは届かない。
柱を立てる声も、広間で膳を並べる声も、ここでは聞こえない。
北宮の奥にあるのは、灯りと紙の匂いだけだった。
女は蓋を開けた。
黒い帳面が数冊、布に包まれて収められている。
一冊を取り出す。
表紙の隅には、小さな鳥の印があった。
羽を広げた鳥ではない。
横を向き、嘴だけをこちらへ向けた鳥だった。
帳面を開くと、乾いた紙の音がした。
名が並んでいる。
ただし、普通の名簿ではない。
家ごとでもない。
年齢順でもない。
役職順でもない。
名前の横に、一字だけが添えられていた。
紙。
道。
眼。
口。
水。
巣。
説明はない。
必要もなかった。
紙は、紙を整える。
道は、道を作る。
眼は、見る。
口は、言葉を運ぶ。
水は、流れを変える。
巣は、戻る場所を守る。
それ以上のことは、書かれていない。
書けば、意味が増える。
意味が増えれば、誰かが読む。
読まれれば、外へ出る。
だから北の帳面は、余計なことを書かない。
名と、一字。
それだけでよかった。
女は頁を繰った。
藤原匡親。
横には、紙。
藤原は北宮の者ではない。
杜守文庫に仕える者でもない。
だが、紙の場所に名がある。
それで足りる。
奥木で紙が必要になる時、藤原は紙として動く。
命じられたからではない。
自分の理屈で動く。
だから、紙として使える。
女は、次の頁へ進んだ。
斎部嘉平。
横には、道。
斎部は、どこにも属していない顔をしている。
祭りでは雑用をし、山では案内をし、町では噂を拾う。
北宮では、知らないふりをする。
だが、道を知っている。
通れる道。
通れないことにする道。
見つかる道。
見つからない道。
だから、道だった。
女はそれ以上、今の頁を見なかった。
帳面の中ほどから先へ進む。
紙の色が変わる。
古い。
今の紙より薄く、少しだけ湿りを含んでいるように見えた。
そこには、もう奥木に残っていない家の名がある。
墓だけが残る家。
屋号だけが残る家。
家名は続いているが、役の意味を失った家。
その中に、墨で潰された欄があった。
名は読めない。
横の一字も読めない。
ただ、黒く塗り込められている。
消したのではない。
読まれないようにしたのだ。
女は、その欄に触れなかった。
声にも出さなかった。
墨で潰された一字のそばに、細い余白がある。
空いているのではない。
空けられている。
そこだけ、紙が呼吸を止めているようだった。
女は灯りを近づけた。
余白の上に、薄い傷が残っている。
誰かが、かつて筆を置きかけた跡。
書いていない。
だが、書こうとした。
その跡だけが、紙に残っていた。
女は、小さな紙片を袖から取り出した。
今日、北宮の出蔵に入った者の名が記されている。
黒沢。
水科晴臣。
神職。
斎部嘉平。
杜守文庫立会。
それだけだった。
説明はない。
解釈もない。
見た者の名だけが並んでいる。
女は、水科晴臣の名を見た。
黒沢ではない。
水科晴臣。
函を見て、鏡を思った者。
女は帳面へ視線を戻した。
水科晴臣の名は、まだどこにもない。
紙ではない。
道ではない。
眼ではない。
口ではない。
水でもない。
巣でもない。
名簿の外にいる。
普通なら、それでよい。
名簿の外にいる者は、まだ奥木の人間でいられる。
だが、水科晴臣の名は、ただ外に置いておける名ではなかった。
どこにも置けない。
それが、かえって重い。
女は筆を取った。
硯に筆先を浸す。
墨が穂先に含まれる。
筆を上げると、小さな黒い雫が膨らんだ。
女は、墨で潰された一字のそばの余白へ筆先を近づけた。
水科晴臣。
そう書けば、形になる。
形になれば、役になる。
役になれば、動かせる。
動かせるものは、消せる。
だが、筆先は紙に触れなかった。
「まだ書くな」
背後で声がした。
女は振り返らなかった。
振り返る必要はない。
声は、いつも姿より先に現れる。
「どこへ置きますか」
女は尋ねた。
「置かぬ」
声は低かった。
「紙でもない。道でもない。眼でもない。口でもない。水でもない。巣でもない」
「では」
「まだ、人でよい」
女の手が止まる。
「人、でございますか」
「名を置けば、役が決まる。役が決まれば、土地が応える」
帳面の紙が、灯りの中でわずかに揺れた。
湿気のせいかもしれない。
手の震えのせいかもしれない。
女は、そう思うことにした。
「水科は、見る家ではない」
声は言った。
「見る者を壊さぬための家だ」
女は答えなかった。
「だが、あの子は函を見て、鏡を思った」
それだけだった。
黒沢ではない。
水科の子が。
その事実だけが、文庫の奥に落ちた。
女は筆を戻した。
穂先から、小さな墨の雫が落ちる。
雫は硯の縁に当たり、黒く広がった。
帳面には落ちなかった。
水科晴臣の名は、まだ書かれていない。
書かれなかったことが、書かれたことよりも重く残った。
「閉じよ」
声が言った。
女はすぐには閉じなかった。
紙片を見た。
黒沢。
水科晴臣。
神職。
斎部嘉平。
杜守文庫立会。
この紙片を帳面へ挟めば、記録になる。
箱へ戻せば、保管になる。
捨てれば、なかったことになる。
女は、そのどれもしなかった。
白い封筒を一枚取り出す。
紙片を入れる。
封はしない。
表にも何も書かない。
名簿に名を置かず、名の周囲だけを残す。
置けない名のための仮の紙である。
女は、その封筒を帳面の横へ置いた。
それから、帳面を閉じた。
紙の閉じる音は小さかった。
だが、その音は文庫の奥で長く残った。
女は帳面を黒い箱へ戻した。
蓋を閉じる。
箱を棚へ戻す。
杉板を嵌める。
節の位置を指でなぞり、隙間を消す。
そこは、ただの壁に戻った。
誰が見ても、そうとしか見えない壁だった。
外へ出ると、北宮の森は暗くなり始めていた。
まだ夕方のはずだった。
南宮には、火が残っているはずだった。
だが、北の空には、もう夜の色が混じっている。
鴉が鳴いた。
一羽ではない。
何羽もの声が、杉の上で重なった。
女は空を見なかった。
見れば、意味をつけてしまう。
意味をつければ、それはこちらを見る。
文庫の扉が、背後で閉じた。
南宮の祭りは、まだ続いている。
水科晴臣は、まだ自分の名がどこにも書かれていないことを知らない。
名簿にないことは、自由であることではない。
まだ、どこへでも置けるということだった。
北宮の奥で、黒い箱は沈黙している。
墨で潰された一字のそばに、古い余白がある。
その余白は、まだ空いている。
その夕方、水科晴臣の名は、烏の帳面に書かれなかった。
書かれなかったことによって、彼はまだ人であった。
そして、人であるうちにだけ、奪えるものがあった。
名。
家。
帰る場所。
信じてくれる者。
それらは、役になってしまえば奪えない。
人であるうちにしか奪えない。
女は、文庫の鍵を袖へ戻した。
北宮の森の向こうで、南宮の太鼓が一度だけ強く鳴った。
柱が立つ合図だったのかもしれない。
女は確かめなかった。
確かめる必要はない。
南で柱が立つ時、北では紙が閉じる。
それが、奥木の祭りだった。
黒い帳面に、水科晴臣の名はない。
だが、白い封筒の中に、その名は残された。
まだ置かれない名。
まだ役にならない名。
まだ人である名。
北宮では、それが最も危うい名だった。




