8. 余波
放課後の鐘が鳴る頃には、シルビアはひどく疲弊していた。
授業そのものは問題なかった。
公爵夫人に叩き込まれた知識のおかげで、歴史も礼法も十分についていける。
問題は、授業の合間だった。
休み時間になるたび、周囲から無数の視線が向けられる。
好奇心。
探るような眼差し。
そして、どこか刺々しい敵意。
そのほとんどが、昼前の出来事のせいだった。
――王子が、自ら彼女に声をかけた。
たったそれだけで十分だった。
シルビアが廊下を歩けば、ひそひそと囁きが起こる。
「あの方でしょう?」
「殿下が手を取った……」
「どういう関係なのかしら」
聞こえないふりをして歩く。
セリーヌとして、顎を上げて、視線を揺らさず。
それでも、胸の奥はずっとざわついていた。
授業が終わり、迎えの馬車へ向かう途中だった。
「セリーヌ様」
呼び止められて振り返る。
そこにはミレイユと、二人の令嬢が立っていた。
柔らかな笑みを浮かべている。
けれど、その瞳は笑っていない。
「ごきげんよう」
シルビアもまた、微笑みを返す。
「何かご用かしら」
ミレイユが一歩近づいた。
「少し、気になってしまって。殿下とは以前からお知り合いなのですか?」
やはり、それか。
シルビアは表情を変えない。
「まさか」
軽く肩をすくめる。
「本日初めて、きちんとご挨拶したばかりですわ」
「まあ、そうでしたの」
ミレイユは納得したように頷きながらも、その目は鋭かった。
「では、どうして殿下があれほど親しげに?」
問いかけというより、追及だった。
周囲の令嬢たちも答えを待っている。
シルビアはゆっくりと微笑んだ。
「さあ。殿下のお考えなど、わたくしに分かるはずもありませんわ」
そして、わずかに顎を上げる。
「もし気になるのでしたら、ご本人にお尋ねになれば?」
ぴたり、と空気が止まった。
ミレイユの口元がわずかに引きつる。
王子に直接尋ねられるはずがない。
それを分かったうえで言っている。
そう受け取られただろう。
「……そうですわね。では失礼いたしました」
三人はそのまま去っていった。
その背中を見送りながら、シルビアはそっと指先を握る。
また一つ、距離を作ってしまった。
それでいい。
それで、いいはずなのに。
胸がちくりと痛んだ。
***
帰りの馬車の中は、朝以上に重苦しかった。
向かいに座るアシュレイが、じっとこちらを見ている。
その視線があまりにも露骨で、シルビアは眉をひそめた。
「何か?」
問えば、アシュレイは鼻を鳴らす。
「……お前、何をした」
「何のことですの?」
「とぼけるな。殿下のことだ」
低い声には苛立ちが滲んでいた。
噂は思った以上に広がっていたらしい。
まさか、一学年上のアシュレイの耳にまで届くとは。
「お前を気にするなんて、どう考えても異常だ」
「わたくしにも分かりませんわ」
「本当に、心当たりはないのか?」
灰色の瞳が鋭く細められる。
「疑うのでしたら、お好きになさって」
そう言って窓の外へ視線を向ける。
しばらく沈黙が続いた。
やがて、アシュレイがぽつりと呟く。
「……面倒なことになるな」
シルビアは何も返さなかった。
***
屋敷へ戻ると、すぐに公爵夫人の部屋へ呼ばれた。
薄暗い室内には、甘い花の香りが漂っている。
公爵夫人は窓辺に立ち、夕焼けに染まる庭園を眺めていた。
「お帰りなさい」
振り返ったその顔には、穏やかな笑み。
「初日はどうだった?」
シルビアは完璧な姿勢で答える。
「セリーヌとして、演じきれました」
「そう」
公爵夫人はゆっくり歩み寄る。
青い瞳が、まっすぐシルビアを射抜いた。
「聞きたい事があるの。どうして初日から殿下があなたに興味を示したのかしら」
その白い指が、そっとシルビアの顎を持ち上げる。
心臓が、どくんと大きく鳴った。
「……わかりません」
正直に答えるしかない。
公爵夫人はじっと見つめていた。
そして、ふっと微笑む。
「いいえ。これは、予想以上の出来栄えということね」
その笑みは、ぞっとするほど美しかった。
シルビアは目を見開く。
怒られると思った。
失敗だと責められると思った。
けれど違った。
公爵夫人の瞳には、狂気じみた歓喜が宿っていた。
「素晴らしいわ、セリーヌ」
頬を撫でる指先が冷たい。
「物語が、わたくしの想像を超え始めている」
ぞくり、と背筋が冷えた。
「期待しているわ」
耳元で囁かれる。
シルビアの喉がかすかに震えた。
***
その夜、ベッドに横たわりながら、シルビアはぎゅっと目を閉じた。
王子の探るような蒼い瞳。
引きつったミレイユの顔。
鋭いアシュレイの視線。
公爵夫人の恍惚とした笑み。
すべてが絡み合って、胸が苦しくなった。




