7. 波紋
入学式は、滞りなく終わった。
学園長の長い祝辞。
在校生代表の挨拶。
けれどシルビアにとって、そのどれもほとんど耳に入ってこなかった。
ただひたすらに、姿勢を崩さないこと。
視線を泳がせないこと。
セリーヌとして、完璧にそこに在ること。
それだけに意識を注ぎ続けていた。
式典を終え、新入生たちはそれぞれの教室へと向かう。
王立ルミナス学園では、身分に応じた大まかな区分こそあるものの、男女の区別はない。
公爵家の子女も侯爵家の令息も、同じ教室で学ぶ。
この国の未来を担う者として、等しく研鑽を積ませるためだと聞いていた。
シルビアが教室へ足を踏み入れた瞬間、ざわめきが走った。
視線が集まる。
突然現れた公爵家の養女。
それだけで十分に注目の的だった。
シルビアは一瞬たりとも動揺を見せず、静かに教室を見渡した。
広く明るい室内。
大きな窓。
磨き上げられた床。
規則正しく並ぶ机。
そして、窓際の席に座るレオンハルトの姿があった。
数人の生徒たちに囲まれながら、自然に場の中心になっている。
穏やかな笑み。
よく通る声。
洗練された所作。
その存在は、やはり特別だった。
胸の奥がひやりとする。
見てはいけない。
そう思うほど、意識してしまう。
シルビアは何事もないように視線を逸らし、自分の席へ向かった。
最前列から三列目の窓側に腰を下ろす。
その瞬間、近くの席から声がした。
「ごきげんよう」
振り向けば、赤みがかった栗色の髪を上品に結い上げた少女が、柔らかな笑みを浮かべていた。
「わたくし、ミレイユ・フォルタンと申します」
侯爵家の令嬢だったはずだ。
事前に叩き込まれた貴族名鑑の記憶がよみがえる。
シルビアは優雅に微笑み返した。
「セリーヌ・アルヴェールですわ」
「ええ、存じています」
ミレイユは興味深そうに目を細める。
「噂になっておりましたもの。アルヴェール公爵家の養女は、どんな方なのかと」
その言葉の裏にあるものは明白だった。
値踏み。
「まあ。そんなに気にかけていただけて光栄ですわ」
笑顔を崩さず、少しだけ顎を上げる。
見下ろすような角度。
公爵夫人に教え込まれた通りの、完璧な傲慢さだった。
ミレイユの笑みが、ほんのわずかに引きつる。
「……ええ」
そこで会話は途切れた。
周囲の空気がわずかに張り詰める。
折角話しかけてくれたのに、無碍にするのは心が痛んだ。
けれど、セリーヌで居続けるためには仲良くする訳にはいかない。
だから、そのまま嫌われて、近づかないで欲しい。
優しさを拒むのは、苦しかった。
その時。
「セリーヌ嬢」
不意に、教室の空気が変わった。
誰もが息を呑む。
その声の主が誰なのか、振り返るまでもなかった。
レオンハルトだった。
シルビアの背筋が凍る。
どうして。
どうして、ここで。
ゆっくりと立ち上がった彼が、こちらへ歩いてくる。
整った顔立ちに穏やかな笑みを浮かべながら。
それだけで、周囲の視線がさらに集まった。
逃げたい。
けれど逃げられない。
シルビアは完璧な笑みを貼りつけた。
「なんでしょう、殿下」
レオンハルトはシルビアの机の前で足を止めた。
「先ほどは、きちんと挨拶できなかったから」
そう言って、自然な仕草で右手を差し出す。
「改めて。入学おめでとう」
ざわめきが広がった。
王子が、自ら。
しかもアルヴェール家の養女に。
周囲の視線が一気に熱を帯びる。
シルビアの指先が、わずかに震えた。
公爵夫人の教えが脳裏によみがえる。
――触れる時は偶然を装って。
違う。
これは違う。
まだ、その時ではない。
けれど無視などできるはずもない。
シルビアはそっと手を重ねた。
震えが伝わらないよう、慎重に。
「ありがとうございます、殿下」
レオンハルトの手は大きくて温かかった。
そのぬくもりに、一瞬だけ思考が止まる。
人と手を繋ぐなんて、孤児院時代以来なかった。
あの頃に触れたのは、掌にすっぽり収まる小さな手ばかりだった。
けれど、この手は違う。
大きく、確かな熱を持っている。
それがひどく異質で、恐ろしかった。
レオンハルトは手を離さず、じっとシルビアを見つめる。
蒼い瞳が、わずかに細められた。
まるで何かを探るように。
「……?」
シルビアは微笑みを崩さない。
けれど内心では、心臓が激しく鳴っていた。
何か、失敗したのだろうか。
何か見抜かれたのだろうか。
やがてレオンハルトはふっと笑った。
「これからよろしく」
それだけ言って、自席へ戻っていく。
途端に、教室中の空気がざわめき出した。
「どういうこと?」
「なんで殿下自ら……?」
ひそひそと交わされる囁き。
ミレイユも驚いた顔をしている。
シルビアは机の下で、そっと拳を握った。
こんなはずじゃなかった。
公爵夫人のシナリオと違う。
王子に気に留められるのは、もっと先でいいはずだったのに。
胸の奥に冷たい不安が広がった。
静かに。
けれど確実に。
物語の筋書きが、ずれ始めていた。




