5. 最終調整
屋敷の庭にあった雪がゆっくりと溶け、冷たい風の中にかすかな春の匂いが混じり始めた頃、シルビアは公爵夫人に呼び出された。
公爵夫人は一通の封筒を手にしていた。
深紅の蝋で封じられた、重厚な手紙。
「届いたわ」
うっとりとした声音。
公爵夫人は丁寧に封を切り、中の書状を広げた。
目を走らせて、満足げに微笑む。
「今年から、あなたも学園へ通うの」
シルビアは目を瞬かせた。
" 学園 "
その言葉が胸に落ちる。
屋敷の外の知らない世界へ行ける。
ほんのわずかに、胸が揺れた。
公爵夫人は机から一冊の本を手に取った。
それは、『薔薇と黎明の王冠』。
何度も何度も読み聞かされた物語。
その表紙を愛おしげに撫でながら、夫人は微笑む。
「いよいよ舞台が整ったわ」
青い瞳に熱が宿る。
狂気じみた、恍惚の光。
「王子も、物語を彩る方々も、あなたと同じ学年」
ぞくり、と背筋が冷えた。
「配役はほぼ揃った」
くすり、と喉を鳴らして笑う。
「あと足りないのは、運命の恋に落ちる少女だけ。あなたは王子を誘惑するの」
その言葉に、呼吸が止まる。
「……えっと、誘惑ですか?」
「ええ」
公爵夫人は頬を染めた。
まるで恋に夢見る少女みたいに。
「第一王子、レオンハルト殿下をセリーヌが誘惑するのよ」
国民である以上、聞いたことのある名前だった。
街の人々が讃える、この国の誇り。
聡明で、美しく、民に慕われる王子。
どうしてそんな人を自分が……?
「悪役令嬢が王子を惑わせ、冷たくあしらわれる様をわたくしは見たいの」
その声は歓喜に震えていた。
「恋の障害となり、運命の乙女を苦しめ、そして最後には破滅する」
青い瞳がシルビアを射抜く。
「現実で」
ぞくり、と全身が粟立つ。
この人は本気だ。
本当に現実を、物語に変えようとしている。
「でも、わたし……」
掠れた声が漏れる。
恋なんて知らない。
誰かを誘惑なんてしたことない。
王子にどう接すればいいのかもわからない。
そんなシルビアを見て、公爵夫人は優雅に微笑んだ。
「大丈夫」
ひやりと冷たい白い指が頬を撫でる。
「あなたはセリーヌを演じればいいだけ」
逃げ道はなかった。
***
次の日の朝は、いつもより早かった。
まだ外は薄暗い。
シルビアが目を覚ます前に、扉が開いた。
「お支度を」
侍女の声は淡々としていて、支度の流れは速かった。
いつもより無駄がない。
ドレスが選ばれ、髪が整えられる。
そして、いつの間にか背後に、公爵夫人が立っていることに気づく。
鏡越しに目が合った。
一気に顔が引き締まる。
さっきまでの顔が、"シルビア"になっていないかが気になって仕方がなかった。
今の自分は“セリーヌ”だった。
「……」
公爵夫人はしばらく黙ってシルビアを見ていた。
その沈黙が長いほど、空気が重くなる気がする。
やがて、夫人が小さく息を吐く。
「セリーヌ以外は下がりなさい」
その言葉に、侍女が部屋を出ていく。
完全に二人だけになる。
夫人は失望したようにシルビアを見た。
「まだ足りないわね」
その一言だけで、背筋が冷える。
「何が……でしょうか」
シルビアは静かに問う。
公爵夫人は鏡越しに目を細めた。
「見られている自覚よ」
「……」
「あなたはまだ、ただそこにいるだけ」
冷たい指先が、シルビアの顎に触れる。
それは、優しい触れ方ではなく、角度を測るような動きだった。
「人はね、美しいものを見るとき、理由を探すの」
シルビアの呼吸がわずかに浅くなる。
「笑顔が美しいと思った時、どうしてあの人は笑ったのかと、意味を考え始める」
指先が離れる。
「それが惹きつけるということ。今のあなたは美しいのではなく、ただ整っているだけ。それでは足りないの」
公爵夫人の声は、淡々としていた。
シルビアは何も返せなかった。
そもそも、美しいという曖昧な表現の仕方が分からない。
「それでは、始めましょうか」
その後の時間は、離れに戻ったかのような指導だった。
美しさを基準に、立ち方、視線、呼吸の間、微笑みの角度。
何度も、何度もやり直しを命じられる。
少しでも動作が早ければ「見苦しい」
少しでも動作が遅ければ「くどい」
感情を出しすぎると「違う」
感情を消せば「空っぽ」
終わりがない。
完成の基準だけが、少しずつ上がっていく。
喉が乾いていくが、表情は決して崩せない。
崩した瞬間に、何かが終わる気がした。
***
「いいわ」
ようやく、その言葉が聞けたのは夕方だった。
公爵夫人は小さく手を叩く。
「今日はここまで」
その瞬間、張り詰めていた空気が少しだけ緩む。
だが、解放ではない。
ただの中断だ。
公爵夫人が部屋を出ようとした直前、彼女は足を止めて振り向いた。
「悪くはなかったわ。ただし、まだ完成ではない」
***
翌日、公爵夫人が部屋に来た。
「あなたに見せたいものがあるの」
その言葉に、わずかな違和感を感じる。
「見せたいものってなんですか?」
だが、答えはすぐに与えられなかった。
公爵夫人はそれ以上説明せず、ただ歩き出す。
「ついてきなさい」
廊下を進む。
普段は通らない場所だった。
すれ違う使用人の数が少ない。
やがて、ある部屋の前で止まり、その扉を公爵夫人が開ける。
「見なさい」
中には、姿見が部屋の中心を囲むように並んでいた。
姿見の数が異様なほど多い。
不思議な部屋だった。
「ここはね、あなたを見るための部屋よ」
シルビアの呼吸が止まる。
「……わたしを」
「そう、中心に立ちなさい」
恐る恐る中心に立つ。
立つと、自分の像が鏡に無数に映った。
鏡の一つに、公爵夫人が指を向ける。
そこに映る自分を横目で見る。
少しだけ、いつも見る角度と違った。
「どの瞬間も、完璧である必要がある。一瞬の油断も許されない」
視線が重なる。
鏡越しに。
「あなたは、そういう存在になるの」
それは命令だった。
***
シルビアは鏡の中の自分を見つめる。
たくさんの自分がいる。
どれも同じ顔をしているはずなのに、少しずつ違う気がした。
(……わたしは、何なのだろう)
その問いだけが、喉の奥で形にならないまま残る。
公爵夫人は満足そうに微笑んだ。
「いいわ。その顔を忘れないで。日が落ちるまで続けるのよ」
そして、公爵夫人は部屋を出ていった。
静かに扉が閉まる。
シルビアはひとり、鏡の部屋に残される。
無数の視線の中で。
ずっと、無数の自分を見ていると、おかしくなりそうだった。
それからは、鏡の部屋で指導を受ける事が多くなった。
学園での礼儀作法、貴族たちとの会話、舞踏会での立ち居振る舞い。
そして、王子を誘惑するための演出。
「視線は長すぎても短すぎてもだめ。相手に好意があると思わせる絶妙な間を作るの」
「微笑む時は少しだけ秘密を含ませて」
「触れる時は偶然を装って恥じらう仕草を」
もう、やめたい。
でも、逆らえない。
出来るまで、何度も繰り返す。
出来ても、もっと完璧になるまで終わらない。
シルビアは次第に、考えることをやめていった。
怖い、辛い、苦しい。
そう思えば壊れてしまう。
だから、ただ演じる。
ただ従う。
それだけだ。
***
学園への入学を目前に控えたある日、本邸の廊下で、シルビアは偶然、アシュレイと鉢合わせた。
野生的な灰色の瞳がこちらを捉える。
「学園へ行くらしいな」
低く、冷たい声。
シルビアは顎を上げて、セリーヌとして返事をする。
「ええ」
「……迷惑な話だ」
胸がちくりと痛む。
嫌われるように振る舞ってきたのだから、当然だ。
それでも、真正面からそう言われると苦しかった。
でも、そんな反応はセリーヌに相応しくない。
だから、鼻で笑って見せた。
「学園では一学年上ですわね。同学年じゃなくて残念ですわ」
「絶対にお断りだ」
「わたくし学園に行くための準備で忙しいんですの。用事がおありでないなら、失礼いたしますわ」
「家紋を傷つけるようなことはするな、それだけだ」
吐き捨てるように言って、アシュレイは去っていった。
その背中を見送りながら、胸の奥に残る痛みに、そっと目を伏せた。
(どうして寂しいの……?)
***
入学式の前夜、公爵夫人が自室に訪れた。
その腕には、学園の制服があった。
袖を通すと、濃紺を基調とした気品ある仕立てのドレスだった。
公爵夫人はその姿を眺め、満足そうに息をつく。
「素晴らしいわ。あなたはわたくしの最高傑作よ」
その言葉に、胸の奥が冷える。
人ではなく、作品。
そう思われているのだと、改めて思い知らされる。
「明日からが本当の始まり」
公爵夫人の青い瞳が妖しく光る。
「忘れないで。あなたは王子を誘惑して、焦がれ、決して報われない」
その声は甘い。
けれど、刃のように鋭い。
「そして」
恍惚と微笑む。
「わたくしの理想の恋愛劇を完成させるの」
シルビアは小さく頷いた。
逆らえない。
逆らえば、孤児院のみんなが危ない。
そう信じてきた。
それだけが、自分を支えてきた。
なのに、なぜだろう。
胸の奥に、言いようのない不安が広がっていた。
その夜、シルビアはなかなか眠れなかった。
明日、新しい舞台の幕が上がる。




