45. 確かめる距離
アシュレイは自室に戻り、椅子に腰掛ける。
頭には、先ほどの母の言葉が繰り返されていた。
真面目で、努力家。それは理解できた。
孤児院にいた少女が、短期間で令嬢としての所作を身につけ、学園の授業についていく。
それだけでも尋常ではない。
相当な努力をしないと無理だろう。
だが、ウブと素直。その二つは、アシュレイの知る彼女とは結びつかない。
冷たく、高慢で、隙がない。
人を寄せつけず、最近は平然と甘い顔もする。
王子に向ける柔らかい微笑も、出来すぎていて作り物みたいだった。
彼女の実態を公爵家の嫡男として、確かめる必要がある。
夕食からしばらく経って、アシュレイは動いた。
壁に灯された蝋燭が、一定の間隔で廊下を明るくしている。
思えば、セリーヌの部屋を訪れるのは、初めてだった。
アシュレイは、部屋の扉の前で足を止める。
一瞬、自分は何をしているのかと思った。
夜に、義妹の部屋を訪ねることは、褒められた行動ではない。
だが、どうしても気になって、確かめずにはいられなかった。
アシュレイは扉をノックする。
中でかすかな物音がした。
少し間があり、返事が返ってくる。
「どうぞ」
アシュレイは扉を開けた。
ふわり、と甘くていい香りが鼻を通る。
部屋は各所に蝋燭が灯り、柔らかな光に包まれていた。
机の上には栞の挟んだ本があり、窓辺の椅子には薄い上掛けがかかっている。
セリーヌは部屋の中央に立っていた。
彼女は、身を清めた後だったのだろう。
いつもきっちりと結われている髪はほどかれ、湿っている。
金の髪が重く揺れ、灯りを受けてキラキラと輝いていた。
そして、彼女は夜着姿だった。
肩から胸元にかけて大きく開いたホワイトレースのネグリジェ。胸元には小さなリボンが結ばれている。
細い腕には布がなく、浮き出た鎖骨と白い肌が灯りの中に浮かんでいた。
裾は長いが、薄いレースが重なった生地は、淡く透け、体の線が浮き出ている。
昼間のセリーヌとは違う、無防備な姿だった。
セリーヌはアシュレイを見ると、固まった。
次の瞬間には、両手で胸元を交差して、肩をすくめるように身体を隠そうとした。
身体を縮めたことで、胸元にくっきりと艶かしい谷間の線が現れる。
「ど、どうして……」
セリーヌの声が小さく溢れた。
アシュレイはしばらく動けなかった。
綺麗だと思った。
そう思ったことに、遅れて気づいた。
目を逸らすべきだった。
すぐに謝って部屋から出ていくべきだった。
分かっているのに、視線が外せない。
もっと見ていたい。
そんな考えが、自分の中に浮かんだ。
アシュレイは眉をわずかに寄せた。
言えるわけがない。
言っていいはずもない。
アシュレイは喉の奥を押さえるように息をし、ようやく声を出した。
「何か羽織ってこい」
セリーヌは、はっとしたように目を瞬かせ、奥の椅子へ向かう。
彼女が歩くたび、足の動きから腰のラインまでくっきりと動きが分かった。
彼女は置かれていた上掛けを急いで羽織り、前を合わせる。
それでも、十分に扇情的だが、アシュレイはようやく呼吸を戻した。
セリーヌは上掛けの合わせ目を片手で押さえたまま、こちらを見る。
目元にはまだ動揺が残っていた。
「このような時間に、何のご用ですの?」
「母上の言っていたことが気になって、直接、確かめに来た」
「お母様の認識違いですわ。わたくしは、ウブでも、素直でも、真面目でも、努力家でもありません」
「真面目で努力家ではあるだろう。そうでないと、お前はここにいない」
セリーヌは目を伏せる。
「必要だっただけですわ」
「必要なら誰でもできるわけじゃない」
彼女は答えなかった。
アシュレイはセリーヌに近づいていく。
セリーヌの肩が、わずかに強張った。
「母上の言葉が、本当か確かめたい」
「そのような必要はございませんわ」
「この家の嫡男として、知る必要が俺にはある」
アシュレイはさらに近づくと、セリーヌが一歩下がる。
逃げる場所を探すように彼女の視線が動く。
彼女が逃げるより早く、手を伸ばして手首を掴んだ。
想像するよりも、細くて驚く。
アシュレイは手の力を少し緩めた。
セリーヌは手の拘束を外そうと暴れるが、びくともしない。
本気で抵抗しているのが分かる。
アシュレイは余りの非力さに再び驚いた。
ーーよく今まで無事だったものだ。
諦めたのか、彼女が動きを止め、下からアシュレイを睨む。
「離してください。どうして、このようなことをなさいますの」
アシュレイは彼女を見下ろした。
近い距離で見ると、セリーヌの顔がいつもと違った。
青い目は瞳孔が開き、浅い呼吸を繰り返している。
彼女の胸が忙しなく上下して見えた。
ーー怯えている。そう分かった。
「お前が、どんな反応をするのか確かめたい」
アシュレイは少し身を屈め、顔を近づける。
セリーヌの青い目が大きく開いた。
彼女の身体がびくりと跳ねる。
掴んだ手首に、反抗的な力が入った。
ーー逃げようとしている。
無意識に、手の力を強めた。
どくどくと大きく脈打つ鼓動が、手から伝わってくる。
アシュレイは、さらに顔を寄せる。
あと少しで唇が触れる距離だった。
彼女は震えていた。
目をギュッと閉じ、少しでも離れようと、顔をのけ反らせている。
それがあまりにも不恰好だった。
彼女は、男に近づかれることに慣れていない。
そのことが、あまりにも明らかだった。
アシュレイは手を離す。
セリーヌはすぐに手首を胸元へ引き寄せる。
アシュレイが掴んだ手首をもう片方の手で覆い、数歩下がると、背中が棚にぶつかり、そこで止まる。
彼女はまだ息を整えられずにいた。
アシュレイは様子を見て、ふと笑った。
最初は短く息が漏れただけだった。だが、次の瞬間には、喉の奥で低く笑いが漏れた。
セリーヌが困惑したように彼を見る。
「……何がおかしいのですか」
アシュレイは片手で口元を押さえた。
笑いながら、少しだけ目を伏せる。
ーー母の言葉の意味が、ようやく分かった。
「なるほど。ウブか。……確かにそうだな。そんな反応で、数々の男を誘惑できるとは思えない」
セリーヌは掴まれた手首を押さえたまま、唇を固く結んでいる。
アシュレイはそれ以上彼女に近づかなかった。
確かめたいことは、少なくとも一つは確かめた。
噂は嘘だ。そう判断するには、十分だった。
「邪魔したな」
そう言って、扉へ向かう。
セリーヌは何も言わなかった。
アシュレイは扉の前で一度だけ振り返る。
彼女は部屋の隅で上掛けの前を押さえたまま立っていた。
青い目には警戒が残っている。
ウブで、素直で、真面目で、努力家。
少なくとも三つは本当だった。
アシュレイは何も言わず、部屋を出た。
扉が静かに閉まる。
アシュレイは自分の手を見た。
滑らかな細い手首の感触が、まだ指に残っていた。
彼はしばらくそれを見つめた。
それから、ゆっくり手を下ろし、自室へ戻っていった。




