表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
人形劇 〜悪役令嬢を演じさせられた少女は王子を翻弄する〜  作者: のぎこ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

44/49

44. 汚された作品

 



 馬車の中で、シルビアは一人座っていた。


 窓は閉じられていたが、笑い声や馬蹄の音が、薄く聞こえる。


 シルビアは膝の上で手を重ねていた。

 指先はもう震えていない。

 けれど、冷たさは残っていた。


 馬車の扉が開き、アシュレイが乗り込んでくる。


 彼はいつものように、表情をほとんど動かさなかった。

 乗り込む時に一度だけ外へ視線を向け、それから向かいの席に腰を下ろす。

 背筋はまっすぐで、片手を膝に置く仕草にも乱れがない。


 短く御者へ合図をすると、扉が閉まった。

 馬車がゆっくり動き出す。

 車輪が石畳を踏む音だけが続いた。


 シルビアは視線を落としていた。

 アシュレイは何も言わない。


 学園で起きたことを知らないはずがない。

 あれほど広まった噂なら、数日前から耳に入っていてもおかしくはなかった。


 けれど、彼は何も言わなかった。

 まるで、自分には関係がないというように。


 シルビアは窓の外へ目を向けた。


 青く茂る街路樹が、窓から流れていく。

 ふと、アシュレイがこちらを見ていることに、ガラスの反射で気付く。

 表情までは鮮明に見えないが、何かを観察しているみたいだ。

 シルビアは振り向かなかった。

 しばらくして、アシュレイの視線は外れた。


 沈黙は、そのまま屋敷に着くまで続いた。


 馬車がアルヴェール公爵家の玄関前に止まる。


 扉が開くと、外の空気が一気に入り込んだ。

 アシュレイが馬車を降りたのに続く。

 玄関ホールへ入り、近くの使用人に話しかける。


「お母様は?」

「私室にいらっしゃいます」


 シルビアは公爵夫人の私室へ向かった。

 部屋には、いつもの花の香りが満ちていた。

 甘く、濃い香りだった。

 今日はそれが少し息苦しい。


 公爵夫人は長椅子に座っていた。

 分厚い本を手に、機嫌よさげにページをめくっている。

 シルビアを見ると、口元に柔らかな笑みを浮かべた。

 その目は、続きを待つ観客のように明るかった。


「お帰りなさい、セリーヌ。今日はどうだった?」

「……報告があります」


 公爵夫人の目が、さらに楽しげに細められる。


「まあ。何かあったのね」


 その反応に、シルビアは一瞬、息を止めた。


 言うのが怖い。

 でも、言わなければならない。

 これは隠せない。


「学園で、噂が広まっています」

「噂?」


 公爵夫人は首を傾げた。

 指先で本の頁を押さえたまま、続きを促すようにシルビアを見る。


「どんな噂かしら」


 シルビアは少し黙った。

 言葉にすること自体が、嫌だった。

 それでも、口を開く。


「わたしが、複数の男子生徒と親しくしていると」


 公爵夫人の指先が止まった。

 笑みはまだ残っている。

 だが、目の奥の光だけが変わった。


「……親しく?」


 声の明るさが、わずかに落ちた。


「はい」


 シルビアは視線を落とす。


「何人もの男子生徒と二人きりで個室に入った。街で男性に寄りそうように歩いていた。中庭で口づけをしていた。ある令息と、特別な関係になった」


 公爵夫人は何も言わなかった。

 シルビアは続ける。


「さらに、アルヴェール公爵家に迎えられた理由についても、噂が……」


 そこで、公爵夫人が勢いよく本を閉じた。

 乾いた音が響く。


「誰が言ったの?」


 公爵夫人の声は、先ほどとはまるで違っていた。

 低く、冷え切った声。

 笑みは消えている。

 青ざめてはいないが、頬から血の気が引いたように見えた。


 公爵夫人はまっすぐこちらを見ていた。


 怒っている。

 しかも、その怒りの矛先はシルビアではなかった。


「学園で、フォルタン侯爵令嬢から伺いました。ですが、噂はすでに広まっているようです」

「誰が、そんな下劣な噂を流したの?」

「分かりません。本当に、何も」


 公爵夫人は立ち上がった。

 手にしていた本が、床に落ちる。

 だが、彼女は見向きもしなかった。


「ふざけた真似を」


 公爵夫人の長い衣裾が絨毯の上を滑る。

 一歩ごとに、押し殺した怒りが裾の動きに現れていた。


「わたくしのセリーヌを、誰が汚していいと言ったの」


 シルビアは息を止めた。

 公爵夫人は振り返る。


「違うわ。違う。そんな役ではないの」


 公爵夫人は落ち着かない様子で、同じところを行き来する。


「下卑た噂で貶められる女ではないわ」


 言葉が少しずつ早くなる。


「誰がそんな醜い筋書きを用意したの。誰が、セリーヌをそんなふうに扱ったの。誰が、わたくしの作品に泥を塗ったの」


 シルビアは動けなかった。


 作品。

 その言葉は冷たく刺さる。


 けれど、公爵夫人は本気で怒っていた。


 それは、自慢の作品を傷つけられた怒りだった。

 自分の手で磨いたものを、他人の汚れた指で汚されたことが我慢ならない。

 自分自身を貶められたのと同じように、彼女は顔を冷たくしていた。


「アシュレイは」


 不意に、公爵夫人が言った。


「アシュレイは何をしていたの」


 シルビアは瞬きをする。


「……アシュレイ様、ですか」


「同じ学園にいるのでしょう。公爵家の名に関わる噂が流れていて、あの子は何も知らなかったの?」


 シルビアは言葉に詰まった。

 アシュレイから何か聞かれたことも、言われたこともない。

 ただ、知らないとは思えなかった。


「馬車の中で、何か話した?」

「……いえ」

「噂については?」

「何も」


 公爵夫人の目が細くなる。

 次の瞬間、彼女は使用人を呼んだ。


「アシュレイを呼びなさい。今すぐ」


 声は荒くなかったが、部屋の空気が凍るほどに冷たい。

 使用人は顔色を変え、深く頭を下げる。


「かしこまりました」


 そして、部屋を出ていった。


 しばらくして、扉が叩かれる。


「入って」


 公爵夫人が言う。

 扉が開き、アシュレイが入ってきた。


 彼は母の顔を見るなり、わずかに眉を動かした。

 驚いたというほどではない。

 ただ、珍しいものを見た時のように、彼の目が一瞬だけ少し大きく開かれた。


「母上。何か」

「あなた、学園の噂を知っていたの?」


 公爵夫人は前置きなく尋ねた。

 アシュレイの視線が、ほんの一瞬だけシルビアへ向いた。

 それから、公爵夫人へ戻る。


「何の噂でしょう」

「とぼけないで」


 公爵夫人は少しずつ、アシュレイへ近づいた。


 歩くたびに衣裾が小さく揺れる。

 彼女の声は抑えられていたが、その抑制がかえって怒りを深く見せた。


「セリーヌが、複数の令息と関係を持っているという噂よ」


 アシュレイはまたそれか、と言わんばかりに面倒そうにため息をついた。

 公爵夫人の目が、はっきりと冷える。

 アシュレイも、怒りが自分へ向けられていることに気づいたのだろう。

 姿勢を少し正し、顎を引いた。


「知っていました」

「いつから」

「数日前から」


 シルビアは息を呑んだ。


 数日前。

 そんなに前から。


「誰から聞いたの」

「同級生に直接聞かれました。セリーヌは本当にそういう人間なのか、と」


 部屋の中が静まり返った。


 公爵夫人は、すぐには言葉を返さなかった。

 その代わり、彼女の目だけがさらに鋭くなる。

 怒りが表情から消え、もっと冷たいものへ変わっていくのが分かった。


「それで、あなたは何をしたの」

「何も」


 短い答えだった。

 公爵夫人の唇が、わずかに開く。


「何も?」

「はい」


 アシュレイの声は淡々としていた。

 疚しさなどないと言うように、視線も逸らさない。


「くだらない噂だと思いました。ただ、あそこまで広まっているなら、何か元になった話はあるのかもしれない、と」


 アシュレイは一拍おいて続ける。


「火のないところに煙は立たない、と言いますから」


 その言葉が聞こえた瞬間、部屋の空気が変わった。

 公爵夫人の顔から、表情が消えた。

 そして次の瞬間、目だけが強く光った。


「あなた、セリーヌに限って、そんな馬鹿な話があると思ったの?」


 声は低かった。

 低い、というだけでは足りなかった。

 喉の奥で抑えた声が、薄い刃のようにまっすぐ伸びていた。


「母上は、彼女を随分と信用しているのですね」

「信用?」


 公爵夫人は笑わなかった。


「当然でしょう。この子がそんなことをするはずがないわ」

「なぜ、言い切れるのです」

「なぜ?」


 公爵夫人の声が鋭くなる。


「あなた、本当に何も見ていないのね」


 シルビアの胸が嫌な音を立てた。

 公爵夫人は怒りのまま続ける。


「あんなウブで、素直で、真面目で、努力家で、わたくしのときめきを一身に受けてくれるあの子が、そんな下品な真似をするわけがないでしょう!」


 部屋が静まり返った。


 アシュレイが、初めてはっきりと動きを止めた。

 シルビアは青ざめる。


 血の気が引いていくのが分かった。

 指先が冷え、喉が詰まる。


「お母様」


 慌てて声を出した。


「お母様、それは……」


 公爵夫人は、そこでようやく口を滑らせたことに気がつく。

 彼女は唇を引き結び、少しだけ顔を逸らす。

 だが、口から出た言葉は戻せない。


 アシュレイはゆっくりとシルビアを見る。

 その目には、先ほどまでとは違う色があった。


 単なる疑いではない。

 長く感じていた違和感の答えを見つけかけた者の目だった。


「ウブで、素直で、真面目で、努力家」


 彼は静かに言う。

 声に感情はほとんどない。

 けれど、一語ずつ置くように発音している。

 確かめるための声だった。


 シルビアは指先を握った。


「そして、母上のときめきを一身に受ける」


 アシュレイの視線が、公爵夫人へ移る。


「それは、俺の知る彼女とは違いますね」


 公爵夫人の表情が強張る。

 シルビアは息を呑み、一歩前に出た。


「今のは、お母様がご立腹のあまり、言葉を選び違えただけですわ」

「そうか」


 アシュレイは淡々と返す。


「母上が言葉を選び違えるとは珍しいな」


 シルビアは何も言えなかった。

 公爵夫人も黙っている。


 アシュレイは、二人を見比べた。

 彼の目は静かだった。

 けれど、もう何も見逃す気がない目をしていた。


「噂のことは、軽率でした。公爵家の名に関わる以上、早く報告すべきでした。その点は謝罪します」


 アシュレイは続ける。


「ですが、今の話は別です」


 シルビアの喉が詰まる。


「母上は、彼女をどう見ているのですか?」


 公爵夫人は、ようやく口を開いた。


「あなたに関係のないことよ」

「公爵家の養女でしょう。関係はあります」

「出て行きなさい」


 短い命令だった。


 アシュレイはすぐには動かなかった。

 けれど、これ以上ここで踏み込む場ではないと判断したのだろう。


 小さく頭を下げる。


「失礼します」


 扉へ向かう途中、アシュレイは一度だけ立ち止まりかけた。

 何かを言おうとしたようにも見えた。

 けれど、結局何も言わずに出ていった。


 扉が閉まる。


 部屋には、シルビアと公爵夫人だけが残された。

 沈黙が落ちた。

 公爵夫人はしばらく動かなかった。


 やがて、床に落ちた本を見下ろし、苛立ったように息を吐く。


「余計なことを言ったわ」


 シルビアは目を伏せた。


「申し訳ございません」

「あなたが謝ることではないわ」


 シルビアは顔を上げる。

 公爵夫人はまだ怒っていた。

 だが、その怒りの向きは変わっていない。


「噂を流した者も、それを信じた者も、許さない。……もちろん、アシュレイもよ」


 シルビアは何も言えなかった。


「しばらく、余計な相手とは話さないこと。殿下の前では、怯えすぎてはだめ。けれど、平気なふりをしすぎてもいけない」


 声は、もう指導者の声に戻っていた。


「傷ついたことは隠しきれない。けれど、品位は失わない。殿下が守りたいと思う余地を残しなさい」

「……はい」

「どんなことがあっても、泣いてはだめよ。少なくとも、人前では」

「分かりました」


 公爵夫人は、ゆっくり振り返る。


「あなたを傷つけた者を、殿下が許すと思う?」


 シルビアは答えられなかった。


 公爵夫人の目は、先ほどより静かになっていた。

 だが、静かになったぶん、怒りは深く沈んで見えた。


「許さないわ。そして、わたくしも許さない」


 彼女は断言した。


 部屋の空気が静まり返る。


 公爵夫人が怒っている。

 殿下も怒っていた。


 自分のためなのか。

 セリーヌのためなのか。

 アルヴェール家の名のためなのか。


 分からなかった。


 それでも、胸の奥に沈んでいた冷たさが、少しだけ形を変える。


 明日学園に行くのが怖い。

 けれど、少しだけ。

 ほんの少しだけ、息がしやすかった。


「今日はもう下がりなさい」

「はい」


 シルビアが扉へ向かう途中、公爵夫人の声が背中に届いた。


「セリーヌ」


 シルビアは足を止め、振り向く。


「あなたは、そんな噂で汚されるために作ったのではないわ。何も非はないのだから、堂々としていなさい。噂を信じる愚か者など無視してやればいいのよ」

「はい……」


 静かに答え、部屋を出る。

 廊下は薄暗くなり始めていた。

 窓の向こうで、夕方の光が沈んでいく。


 シルビアは歩きながら、自分の手を見た。

 指先には温かさが戻っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ