43. 震える指先
「あ……わたくし…………申し訳ございません」
レオンハルトの背中の向こう側から、ミレイユの声が聞こえる。
「……噂を信じて酷いことを申しました。わたくし、本当のことか確かめたくて」
「確かめる?」
レオンハルトの声が途中で冷たく割り込む。
ミレイユの息を呑む音が聞こえた。
「君は確かめたつもりだったのかもしれない。けれど、場所を選ぶことも、言葉を選ぶこともできたはずなのに、それをしなかった。噂を信じたことよりも、僕はそちらの方が看過できない」
教室は静まり返っていた。
椅子の軋む音もしない。
誰も、動かない。
ミレイユの声だけが、かすかに震えて聞こえる。
「申し訳ございませんでした、セリーヌ様。わたくしは間違っておりました……。殿下の仰るとおり、礼儀に欠けておりました」
「そうだね」
「っ、……申し訳ございません……」
泣きそうなミレイユの声に、シルビアは目を伏せた。
もういい。
そう思った。
これ以上、ミレイユが責められているのを聞いているのが苦しかった。
彼女の言葉や態度に傷ついたのは確かだ。
けれど、今のレオンハルトは怖かった。
怒りが深すぎる。
その怒りが自分のために向けられているのだとしても、胸が締めつけられた。
シルビアはゆっくり手を伸ばした。
レオンハルトの背中に、そっと触れる。
制服越しに、彼の体温が伝わる。
触れた瞬間、彼の肩がわずかに動いた。
「もういいです」
声は小さかった。
レオンハルトが振り向く。
ミレイユの姿は、まだ見えなかった。
レオンハルトがこちらへ顔を向けても、彼の身体が前にあるままだったからだ。
蒼い瞳が、シルビアを見る。
先ほどまでミレイユへ向けられていた冷たさは、そこにはなかった。
けれど、怒りが消えたわけではない。
奥に沈んだまま、静かに形を変えている。
「もう、いいんです」
もう一度言う。
レオンハルトはしばらく彼女を見ていた。
シルビアの顔を。
膝の上に置かれた震える手を。
それから、教室の方へ一度だけ視線を向けた。
その目を受けた生徒たちは、どんな顔をしたのだろうか。
「場所を変えよう」
「ですが、もうすぐ授業が始まりますわ」
「教師には後で僕から伝える。ここにいる必要はない」
そう言って、彼は手を差し出した。
レオンハルトの指先が、シルビアの前にある。
今のセリーヌなら、その手を取ることも演技の一部だった。
ためらい、目を伏せ、そっと指を重ねる。
そうすれば、彼に恋する令嬢に見えた。
シルビアは手を伸ばしかけた。
そこで、自分の指がまだ震えていることに気づいた。
見られる。
そう思った。
咄嗟に指を引こうとする。
けれど、その前にレオンハルトの手が動いた。
彼は、シルビアの指先を包むように握った。
強くはない。
けれど、逃げられないほどの力だった。
「行こう」
軽く引かれて、椅子から立ち上がった。
足元が一瞬、頼りなくなる。
だが、レオンハルトの手が支えていた。
教室中の視線が、二人に集まる。
シルビアは背筋を伸ばそうとした。
冷たい顔を作ろうとした。
けれど、手の震えだけは隠せない。
レオンハルトはその手を離さなかった。
むしろ、見えないように自分の手の中へ収める。
そのまま、シルビアは教室を出た。
廊下に出ても、彼は手を離さなかった。
授業前の廊下には生徒がまだ残っていた。
けれど、レオンハルトが歩くと自然に道が空く。
誰も声をかけなかった。
指先を握られている感触が、妙に落ち着かない。
校舎を出ると、レオンハルトは木陰のベンチへ向かった。
当然、周囲には誰もいない。
校舎の窓からは少し離れているが、完全に隠れているわけではない。
休み時間とは違い、静かで落ち着いた場所だった。
「座って」
そう言われ、シルビアはベンチに腰を下ろした。
レオンハルトも隣に座る。
手は繋がれたままだった。
そのせいで、距離が近い。
お互いの肩が触れ合うほどだった。
シルビアは指先に力を入れた。
まだ震えが収まらない。
レオンハルトはその手を見ていた。
何も言わず、彼は親指でシルビアの指の背をそっと撫でる。
ゆっくりと、労わるように、ひどく親密な動きで。
シルビアの体が、ぞわりと震えた。
その震えは、先ほどの恐怖とは少し違った。
不快ではないけれど、どこか落ち着かない。
シルビアは息を詰める。
レオンハルトの視線が正面を向いても、まるで、手の滑らかさを確かめるような動きで、手を撫でられ続ける。
「……殿下」
ようやく声を出すと、彼は手を止めた。
けれど、手は繋がれたままだった。
「ごめん。君をあの場に置いておきたくなかった」
シルビアは目を伏せた。
「……ありがとうございます」
レオンハルトは少しだけ躊躇うように口を開く。
「噂のことは、知っていた」
「……ご存じだったのですね」
「カイルと一緒に、出所を探っている」
「どうして、言ってくださらなかったのですか」
声は思ったより小さくなった。
責めるつもりではなく、ただ、聞きたかった。
自分の名前が汚されているのに、自分だけが知らなかった。
そのことが、胸の奥にまだ重く残っている。
「君の耳を、汚したくなかった。本当は、君が気づく前に終わらせたかった。全部、なかったことにしたかった。君が知らないまま、噂を潰して、誰が何を言ったのかも、君には聞かせないで済ませたかった」
シルビアは息を呑んで、レオンハルトを見上げた。
「噂の出所は三年生からだと思う。そこから下の学年にも広がっている」
シルビアは、ここ数週間の視線を思い出して、胸の奥がひやりとした。
レオンハルトの声が、ほんの少し低くなる。
「それから、君との関係を吹聴した生徒がいる。近いうちに話を聞く予定だ」
レオンハルトの蒼い目が陰る。
彼が、先ほどミレイユに向けた声が蘇る。
声を荒げたりは一切ないのに、逃げ場がなくなるまで追い詰め、怒鳴るよりもずっと怖かった。
あれを、その生徒にも向けるのだろうか。
そう思った瞬間、背筋が冷えた。
「殿下、酷いことは、しないでください」
レオンハルトは、ふと笑った。
笑ったはずなのに、目の奥にあるものは少しも緩んでいない。
「君は優しいね」
「優しさではありません。ただ……」
ただ、レオンハルトが怖いのだ。
彼はシルビアの手をもう一度撫でた。
親指が指の付け根をなぞり、手の甲へ移る。
大切なものを確かめるように。
「……僕は、許せそうにない」
言葉とは裏腹に、声はあまりにも穏やかだった。
「君の名前を使って、知らない君を作った。君を見て、軽く近づいていい女だと思わせた」
彼の手に、わずかに力が入る。
「そんなものを、僕は許せない」
シルビアは何も言えなかった。
レオンハルトはゆっくり顔を向ける。
蒼い瞳が、近い距離でシルビアを捉えた。
「君が何も知らないままでいてくれたらよかった」
その言葉が、静かに落ちる。
「汚い言葉も、下卑た噂も、誰かの薄汚い視線も。全部、君のところへ届く前に消してしまいたかった」
風が吹いた。
木の葉が揺れ、髪が揺れる。
「怖がらせた?」
返答に迷った。
怖いと言えば、彼は傷つくだろうか。
それとも、また穏やかな顔で笑うのだろうか。
シルビアは目を伏せた。
「……分かりません」
レオンハルトはしばらく黙っていた。
そして、静かに口を開く。
「分からないままでいい。ただ、僕に任せて」
その声は優しかった。
シルビアは小さく息を吸う。
「……はい」
そう答えるしかなかった。
レオンハルトはようやく手の力を少し緩めた。
だが、離しはしない。
シルビアも、離してほしいとは言えなかった。
木陰の下、二人はしばらく並んで座っていた。
授業中の屋外は静かだった。
風が葉を揺らし、木漏れ日がさす。
レオンハルトと絡む指先はもう震えてはいない。
けれど、温かさが戻ったわけではなかった。
彼の手は優しかった。




