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人形劇 〜悪役令嬢を演じさせられた少女は王子を翻弄する〜  作者: のぎこ


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42. セリーヌの噂

 


 翌朝、レオンハルトはいつもと変わらない態度に戻っていた。

 朝、教室で目が合うと、穏やかに微笑む。


「おはよう、セリーヌ嬢」


 声も、表情も、昨日の朝と違わない。

 シルビアは少しだけ迷い、それから微笑んだ。


「おはようございます、殿下」


 声はなるべく柔らかくした。

 それから少し会話を重ねる。


 昨日のような、近づくことすら躊躇ってしまうほどの暗い沈黙がないことに安心する。

 だからシルビアは、昨日のことを深く考えないようにした。

 殿下が元に戻ったのなら、それでいい。

 自分は役を続ければいい。



 ***



 数週間が過ぎた。

 シルビアはその役を続けた。


 朝、目が合えば嬉しそうにする。

 廊下で会った時には、声を弾ませて名を呼ぶ。

 レオンハルトが話しかけてくれば、他の者に向けるよりも甘く微笑む。


 レオンハルトは、相変わらず慣れなかった。

 それでも以前よりは、表情を保つようになっていた。

 困ったように笑い、時折目を伏せ、それからまたシルビアを見る。

 その目には、以前より深いものがあった。


 以前は、戸惑いと喜びが多かった。

 今は、それだけではない。


 時折、シルビアが誰かに声をかけられると、彼の視線が静かに止まる。

 笑っている。

 けれど、蒼い目の奥だけが笑っていない。


 それが何を意味するのか、シルビアには分からなかった。


 ユリウスと昼食を取った日から、レオンハルトは少し変わった。


 大きく態度を変えたわけではない。

 むしろ、以前より優しかった。


 ただ、気づけばそこにいるのだ。


 レオンハルトは、必ずこちらを見ていた。

 それは守られているようでもあり、見張られているようでもあった。


 公爵夫人に報告すれば、彼女は満足そうに笑った。


「いいわ。そのまま続けなさい。殿下はもう、あなたから目を離せないはずよ」


 その言葉は、おそらく正しかった。

 そして、正しいからこそ、シルビアの胸が罪悪感で満たされた。


 学園の空気は少しずつ変わっていた。

 最初は、気のせいだと思った。

 廊下を歩くと、令嬢たちの声がふと止まる。

 視線を向けると、彼女たちはすぐに目を逸らす。

 以前から好意的ではなかった。

 だから、最初は大きな変化だとは思わなかった。

 けれど、違っていた。


 前の視線は、嫉妬や反感だった。

 王子に近い令嬢への、分かりやすい敵意。

 今の視線には、別のものが混じっていた。


 嫌悪。

 もっと言えば、汚れたものを見るような目だった。


 令息たちの態度も変わった。

 廊下で道を譲るふりをして、すれ違い様に身体の一部が接触する。

 何も言わずにじっと見られて、後ろからシルビアのあとをつけてくる。

 殿下が生徒会に行くと、さまざまな令息が行く先々で話しかけてくる。

 そして、距離が近い。

 妙に浮き立ち、落ち着かないようだった。


 シルビアは冷たく高慢に返した。


「失礼いたします」

「急いでおりますので」

「お話しすることはございません」


 それで下がる者もいた。

 だが、下がらない者も増えていた。


 理由は分からなかった。


 レオンハルトがいる前でも、話しかけてくることがある。

 彼はその度、静かに様子を見ていた。


 怒っているようには見えない。

 だが、令息が下がったあと、彼は必ずシルビアを見る。


「大丈夫?」


 声は優しい。

 けれど、その問いは、少し怖かった。


 大丈夫でなければ、何をするつもりなのだろうか。

 そう思うほどに、瞳が冷めていた。


 時折、彼はカイルと廊下の端で話していた。

 二人の会話は聞こえない。


 だが、カイルの顔からいつもの軽さが消えていることがあった。

 レオンハルトは無表情で、何かを聞き、頷き、短く言葉を返している。


 何を話しているのかは分からない。

 けれど、自分が知る必要のないことだと思った。


 その日、シルビアは教室でレオンハルトと話していた。

 次の授業まで、まだ少し時間があった。

 レオンハルトは窓際に立ち、シルビアの席の横で穏やかに話している。

 内容は、次の生徒会主催の小規模な交流会についてだった。


「大きなものではないよ。学年ごとに少しずつ代表が出て、簡単な茶会をする程度だ」

「殿下は、またお忙しくなりますのね。どうか、ご無理はなさらないでくださいませ」


 レオンハルトが小さく息を吐く。


「それを言われると、無理ができなくなるね」

「では、言った甲斐がありました」


 少し揶揄うように微笑む。

 レオンハルトは困ったように笑った。

 その瞳が、わずかに柔らかくなる。


 その時だった。


「セリーヌ様」


 声がした。


 シルビアはその声へ視線を向ける。


 近づいてきたのは、ミレイユ・フォルタンだった。

 赤みがかった栗色の髪を丁寧に結い、緑の目を静かにこちらへ向けている。

 侯爵令嬢らしい整った礼を忘れない少女だった。


 以前にも、彼女はシルビアに声をかけたことがある。

 あの時も、言葉は丁寧だった。

 王子がシルビアを気にかけていることを探るような、慎重な目をしていた。

 今も礼儀は崩れていない。

 けれど、その目は違っていた。


 ――軽蔑。


 隠そうとしても、隠しきれていなかった。

 シルビアは背筋を伸ばす。


「何でしょう、フォルタン様」


 ミレイユは一度、レオンハルトを見た。

 それから、シルビアへ視線を戻す。


「少し、お尋ねしてもよろしいでしょうか」


 丁寧な言葉だった。

 けれど、声には棘があった。

 レオンハルトの表情から笑みが消え、唇がわずかに開く。

 彼はすぐに何かを言おうとしたようだった。


 だが、言葉は聞こえてこない。


 シルビアは、彼が一体何の言葉を飲み込んだのか、分からなかった。


 レオンハルトの蒼い目が、ミレイユからシルビアへ移る。

 ほんの短い間だった。

 だが、その視線には、何かを測るような静けさがあった。


「今でなければならない話かな」


 レオンハルトは静かに尋ねた。


 ミレイユは一瞬、息を止めた。

 肩がほんの少し揺れる。

 だが、引かなかった。


「殿下にも関わることかと存じます」


 教室の空気が変わった。

 話していた生徒たちが、少しずつ口を閉ざす。

 誰もこちらを見ていないふりをしている。

 だが、全員が聞いていた。


 シルビアは胸の奥に、小さな違和感を覚えた。


「わたくしに関することでしたら、わたくしにお尋ねくださいませ」


 ミレイユはわずかに目を伏せた。

 まるで、そう言われるのを待っていたようだった。


「では伺います。最近、ずいぶんとお忙しいようですわね」

「忙しい?」

「殿下以外の方々とも、親しくなさっているとか」

「何のことでしょう」

「お分かりになりませんの?」


 ミレイユの声が少し硬くなる。


「クレイン様だけではないと、伺っております」


 ユリウスの名が出た瞬間、教室の奥で誰かが息を呑んだ。

 シルビアは冷静に答える。


「クレイン様とは、一度昼食をご一緒しただけですわ」

「一度だけで済んだのなら、よろしかったですわね」

「どういう意味ですの」


 ミレイユは、まっすぐシルビアを見た。


「あなたが、何人もの男子生徒と二人きりで個室に入り、長い時間出てこなかったという話がございます」


 一瞬、意味が分からなかった。

 シルビアは反応が遅れた。


「……何を」

「街で、男性にしなだれかかるように歩いていた姿を見た者もいるそうです」


 教室が静まり返る。


 街で、男性に、しなだれかかるように――。


 言葉は聞こえているのに、意味がうまく結びつかなかった。


 シルビアは、自分の記憶を辿ろうとした。

 だが、辿るまでもない。


 そんなことはしていない。

 絶対に。

 そもそも、孤児院を出てから、街を一歩も歩いたことがない。


 レオンハルトの気配が、横で静かに冷えていくのが分かった。

 彼はまだ黙っている。

 だが、空気が変わっていた。


 ミレイユではなく、シルビアを見ている。


 見られている。

 確かめられている。


 シルビアは、なぜかそう感じた。


「中庭で、どなたかと口づけを交わしていたという話も――」

「ミレイユ嬢」


 レオンハルトの声が低く響いた。


 ミレイユは肩を震わせた。

 青ざめた顔で彼を見る。

 だが、止まらなかった。


「わたくしだって、このようなことは申し上げたくありません。けれど、噂はすでに広まっています。殿下のお立場にも関わることです」


 シルビアは動かなかった。


 口づけ。

 街の男。

 何人もの男子生徒。


 どれも知らない。

 どれも覚えがない。

 そもそも、そんな場所に行っていない。


「……そのようなことは」


 否定しようとして、声がうまく出なかった。

 喉の奥が詰まる。


 おかしい。

 もっと冷たく返せるはずだった。

 くだらない噂だと、笑い飛ばせるはずだった。


 けれど、知らない話があまりにも多すぎた。


 誰と個室に入ったのか。

 どこの街で見られたのか。

 誰と口づけをしたのか。


 自分のことなのに。

 何も知らない。


 レオンハルトが、小さく息を吐いた。


 その音は、ほんのわずかだった。

 けれど、シルビアには聞こえた。


 彼は何を安心したのだろうか。

 そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ冷えた。


 殿下は、何を見ていたのだろう。

 何を、確かめていたのだろう。


 ミレイユの目には、確信に近いものがあった。

 噂を信じきっている目だった。

 いや、信じたいのかもしれない。


「それだけではありませんわ。セリーヌ様と特別な関係になった、と仰っている方もいらっしゃいましたの」


 ――特別な関係。


 その意味を理解するまで、少し時間がかかった。

 理解した瞬間、血の気が引いていく。

 教室の隅で、誰かが小さく笑った。


「やはり、出自が……」

「アルヴェール家に迎えられたのも、急でしたものね」

「本当に養女なのかしら」


 囁きはすぐに消えた。

 だが、シルビアには聞こえていた。


 アルヴェール公爵とも。

 アシュレイ様とも。


 そう言いかけた声もあった。

 胸の奥が、冷たくなっていく。


 噂の中のセリーヌは、シルビアではなかった。

 公爵夫人が強要した理想のセリーヌでもない。

 シルビアが演じてきた冷たいセリーヌでもない。


 もっと別のものだった。


 男たちの間を渡り歩き、殿下の好意を受けながら、その裏で別の男たちに身を寄せる娼婦のような女。

 誰かの口の中で汚され、形を変えられた、知らない女だった。

 その女に、セリーヌという名がつけられている。


 シルビアは、自分の膝の上に置いた手を見た。

 指先が震えていた。


 止めようとする。

 だが、止まらない。


 その瞬間、隣の空気が変わった。


「ミレイユ嬢」


 レオンハルトの声がした。


 一見、静かだった。

 だが、そこには確かな怒りがあった。


「それ以上は慎んだ方がいい」


 ミレイユの顔が青ざめる。


「ですが、殿下」

「根拠のない噂を、人前で口にすることの意味は分かっている?」


 教室が凍った。


 レオンハルトの声は荒くない。

 責め立てるようでもない。

 けれど、蒼い目は冷えていた。


 レオンハルトの横顔は、怖いほど静かな顔だった。


「君は今、彼女に確認しているつもりかもしれない。けれど、この場でその言葉を口にした時点で、君も噂を広げた者の一人になる」


 ミレイユの唇が震える。


「わたくしは、ただ……」

「ただ?」


 レオンハルトが聞き返す。

 その声に、優しさはなかった。


「僕の立場を思って、とでも言うつもり?」


 ミレイユは言葉を失った。

 レオンハルトの視線は、逃げ場を与えなかった。


「僕の立場を理由に、彼女を人前で侮辱するのはやめてほしい」


 ミレイユの顔色が、さらに悪くなる。


「わ、わたくしは、そのようなつもりでは」

「つもりの話ではないよ」


 レオンハルトは静かに言った。


「君が今したことは、そういうことだ」


 シルビアは、そのやり取りを遠くに聞いていた。


 レオンハルトは怒っている。

 だが、その怒りは、ただミレイユに向いているだけではない気がした。

 もっと奥に、別のものがある。

 そう感じた。


 とにかく、今は否定しなければならない。

 言うべき言葉はいくつもあった。

 けれど、どこから否定すればいいのか分からなかった。


 自分の名のはずなのに、噂の中のセリーヌについて、シルビアは何ひとつ知らなかった。


 誰と個室に入ったのか。

 どこの街で歩いたのか。

 誰と口づけをしたのか。

 誰が特別な関係を語っているのか。


 何も知らない。

 知らないことを、どう否定すればいいのか。


 シルビアは冷たい顔を保った。


 セリーヌなら、こういう時ほど崩れない。

 背筋を伸ばし、相手を見下ろし、くだらない噂だと鼻で笑えばいい。

 そう分かっていた。

 分かっているのに、指先だけが震えていた。


 ふと、レオンハルトの視線が落ちる。


 ほんの一瞬だけ、シルビアの手を見た。

 その瞳が揺れた。


 怒りの奥に、別の色が混じる。


 後悔のような。

 あるいは、痛みのような。


 シルビアは指を握ろうとした。

 けれど、間に合わなかった。


 沈黙が長くなる。

 誰も動かない。


 シルビアは、ようやく唇を開いた。


「……存じません」


 声は小さかった。

 自分でも驚くほど、頼りない声だった。


 ミレイユがはっと息を呑む。

 シルビアはゆっくり顔を上げる。


「その噂のどれも、わたくしは存じません」


 教室の空気が、さらに静まった。

 シルビアは冷たい顔をしていた。

 けれど、指先はまだ震えていた。


 自分のことなのに、何も知らない。

 その事実だけが、胸の奥に重く沈んでいく。


 その時、レオンハルトが、シルビアを教室の視線から隠すように動いた。

 視界には彼の大きな背中が広がっている。


「分かっている」


 彼は静かに言った。

 誰に向けた言葉か、一瞬分からなかった。


「僕は、分かっているよ」


 もう一度、彼は言った。


 その声はひどく穏やかだった。

 けれど、底に沈んだものは暗かった。


「これ以上、彼女の名前を汚すな」


 シルビアは、レオンハルトを見上げた。


 守られている、そう思った。


 レオンハルトの視線は、まっすぐミレイユに向けられている。

 シルビアは何も言えなかった。


 ただ、震える指先を、膝の上で強く握った。




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