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人形劇 〜悪役令嬢を演じさせられた少女は王子を翻弄する〜  作者: のぎこ


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41. 矜持の裂け目

 



 エレノア・ブランシュは、温室でレオンハルトに拒まれた時、恋が終わったことを知った。


 彼は優しかった。

 だからこそ、残酷だった。

 曖昧に濁すことも、期待を残すこともなく、静かに告げた。


 ――応えられない、と。


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが砕けた。


 泣いた。

 悔しかった。

 惨めだった。

 けれど、不思議なほど分かってもいた。


 終わったのだ。

 幼い頃から抱えてきた恋は、ここで終わった。

 そう思った。

 だから、諦めようとした。

 すぐには無理でも、時間をかければいい。

 直視できるようになるまで、少し距離を置けばいい。

 殿下が選んだのなら、それを受け入れるべきだ。


 あの女は気に入らない。

 セリーヌ・アルヴェール。

 冷たく、美しく、高慢で何を考えているのか分からない令嬢。

 けれど、殿下があの女を想っているのなら、その気持ちを一番にすべきだと思った。


 いつか落ち着いたら、素直に祝福できるかもしれない。

 応援できるかもしれない。

 少なくとも、殿下の選択を汚すような真似だけはしたくなかった。

 それが、エレノアの矜持だった。

 だが、その決意は翌日には揺らいだ。


 昼休みが終わったあと、三年の教室に噂が届いた。


「セリーヌ様が、隣のクラスの令息と二人きりで昼食を取ったそうよ」


 最初に聞こえた時、意味が分からなかった。

 誰の話をしているのかと思った。

 だが、名前は間違いなくセリーヌだった。


「殿下ではなく?」

「ええ。クレイン伯爵家のご子息ですって。二人でずいぶん長く話していたそうよ。しかも、殿下も食堂にいらして、その様子を見ていらしたそうだわ」


 耳を疑った。

 昨日、あれほどの言葉を聞いたばかりではなかったのか。

 殿下は、あの女を想っていると言った。

 自分は振られた。

 その場で泣いて、逃げるように温室を出た。

 それなのに、翌日には別の令息と二人きりで昼食を取る。

 殿下が見ている前で……。


 胸の奥に、黒いものが戻ってくるのが分かった。

 一度は沈めたはずの感情だった。

 諦めると決めたはずだった。

 けれど、噂は容赦なく耳に入り込む。


「その後、殿下はセリーヌ様に近づかなかったらしいわ」


 その言葉で、胸の奥が軋んでいく。

 エレノアは強く唇を噛んだ。

 やはり、あの女は殿下にふさわしくない。

 そう思った。


 殿下がどれほどあの女を想っていても、あの女がそれに値するとは限らない。

 むしろ、自分の方がよほど相応しい。

 幼い頃から殿下だけを見て、努力してきた。

 殿下の隣に立つために、誇りを磨いてきた。

 愛する気持ちも、支える覚悟も、負けるはずがない。

 たとえ、殿下があの女を好きでも。


 そこまで考えて、喉の奥に苦いものが広がった。


 放課後、エレノアは一人で教室を出た。

 廊下は生徒たちの声でざわめいている。

 階段を降りようとした時、前方から一人の令息が上がってきた。


 珍しい顔が三年のフロアに来たものだと、エレノアは警戒を強めた。


 マティアス・ヴェルナー。

 ヴェルナー公爵家の嫡男で、二学年の生徒だった。

 ヴェルナー公爵家は、貴族の中でも大きな影響力があり、政務にも社交にも強い。

 何より、駆け引きに長けた家として知られている。


 エレノアは、彼のことが好きではなかった。

 目的のためには手段を選ばず、薄暗い噂もある男。

 それに、彼は妹のリディアを駒として見ている節があった。

 リディアを王子妃に押し上げ、ヴェルナー家の地位をさらに上げる。

 その思惑は、隠しきれていない。


 妹のリディア・ヴェルナーも好きではない。

 ヴェルナー公爵家らしい計算高い令嬢。

 セリーヌが現れるまで、エレノアが最も警戒していた恋敵である。

 レオンハルトを巡って、何度も争ったことがある。

 彼女は来年度に入学してくる。

 学園で顔を合わせずに済むことに、エレノアは少し安心していた。


 家としても、個人としても、敵対する関係だった。

 だから、このまま通り過ぎると思っていた。

 けれど、予想に反して、彼はエレノアを呼んだ。


「ブランシュ侯爵令嬢」


 マティアスは丁寧に腰を折った。

 顔には柔らかな笑みを貼りつけている。

 だが、その目は少しも笑っていなかった。


「少し、お話しする時間をいただけますか」

「何の御用でしょうか」

「ここでは少し。けれど、あなたにも悪い話ではありません」


 怪しすぎて、断ろうとも思った。

 だが、その言い方が気になった。

 黒い噂のある彼が一体何を考えているのか、確かめておくべきだと思った。


 二人は少人数用の談話室へ入った。

 すると、マティアスは後ろ手に扉を閉め、そのまま鍵をかけた。


「何をなさいますの」


 エレノアの声が鋭くなる。


「誰にも聞かれたくありませんので。それに、誤解は受けたくありませんでしょう」

「余計に誤解を招きますわ」

「では、手早く済ませましょう」


 そう言うと、マティアスは椅子へ向かい、先に腰を下ろした。

 エレノアはしばらく彼を見ていた。


 やはり、自分勝手な男だ。

 何の伺いも入れずに鍵を閉める。

 女性を立たせたまま、自分だけ座る。

 どれも紳士とは言い難い。


「座らないのですか?」


 その言い方にも苛立った。

 エレノアは無言で椅子を引いた。


 殿下なら、こんなことはなさらない。

 そう考えて、胸が沈む。


 マティアスは、そんな彼女を眺めてから口を開いた。


「セリーヌ・アルヴェールを、殿下の傍から遠ざけることに協力しませんか?」


 エレノアの目が細くなる。


「我が家にとって、あの令嬢は邪魔です」


 彼は少しも濁さずに話した。


「来年、妹がこの学園に入ります。妹は殿下の妃候補として、十分な立場と資質があります。ですが現在、殿下の関心はセリーヌ嬢に向いている」

「妹君のためですか」

「もちろん、公爵家のためです」


 即答だった。


「殿下がセリーヌ嬢に心を傾けていることは、学園中が知っています。あなたにも、思うところはあるでしょう?」


 エレノアは答えなかった。

 だが、表情がわずかに動く。


 マティアスはそれを見逃さなかった。


「それほどまでに殿下から大切にされていながら、彼女は別の男と二人きりで昼食を取った。しかも、殿下が見ていたというではないですか」


 彼の言葉が、毒のように入り込んでくる。


「彼女は殿下にふさわしくない。そうは思いませんか?」


 エレノアは唇を結んだ。


「仮にそうだとしても、卑怯な手を使うつもりはありません」


 冷たく返す。

 マティアスは少し笑った。


「あなたが正しくあろうとすることは、ご立派です。ですが、正しさだけで殿下を守れますか?」


 エレノアは眉を動かした。


「あなたは努力した。礼法も、舞踏も、学問も。殿下に相応しい令嬢であろうとした。けれど、殿下が心を向けたのは彼女です」

「……お黙りなさい」

「しかも、彼女は殿下を大切にしていない」


 エレノアは息を止めた。

 マティアスは、さらに言葉を重ねる。


「殿下にあれほど想われながら、別の男の誘いを受ける。あなたなら、そんなことをしましたか」


 しない。

 絶対にしない。

 殿下に想われたなら、他の男など目に入らない。

 そう思った。


 マティアスの笑みが、わずかに深くなる。


「あなたの方が、よほど殿下を想っている」


 その言葉が甘く、静かに入り込んでくる。


「あなたの方が、殿下を大切にできる」

「わたくしは……」


 声が掠れた。

 エレノアは膝の上で指を握る。


「卑怯なことはしません」


 それだけは、言わなければならなかった。


 矜持だった。

 誇りだった。

 幼い頃から積み上げてきた、自分の形だった。


 マティアスは少し首を傾げた。


「では、何もしないのですか」

「ええ」

「殿下が傷ついても?」


 エレノアは顔を上げた。


「何ですって?」

「殿下は、すでに傷ついているのではありませんか。彼女が他の男と昼食を取っているところを、殿下は見ていたのでしょう。あなたはそれを聞いて、何も思わなかったのですか」


 胸が締めつけられる。


「殿下は優しい方です。自分の苦しみを表には出さない。ですが、彼女がそばにいる限り、殿下は振り回され続ける」


 マティアスはさらに声を落とした。


「あなたが守りたいのは、自分の誇りですか。それとも殿下ですか」


 足元が、わずかに揺らいだ気がした。

 卑怯な問いだった。

 殿下を守る。

 その言葉を出されると、心が揺れる。


 自分の失恋だけなら耐えられる。

 けれど、殿下が傷ついていると言われれば。

 あの女が殿下を苦しめていると言われれば。


「わたくし、は……」


 エレノアは言いかけて、止まった。


 マティアスは、あと一歩だと見たのだろう。

 声をさらに柔らかくした。


「ならば、あなたは何もしない。そして殿下はこれからも、彼女に振り回される。それで本当に、よろしいのですか」


 沈黙が落ちた。


 エレノアは自分の手を見る。

 指先が震えていた。


 正々堂々、卑怯なことはしない。

 殿下に恥じない令嬢でいる。

 それが、エレノアの矜持だった。

 だが、その矜持は今、ゆっくりひび割れていた。


 あの女を遠ざけることが、本当に殿下のためになるのだろうか。


 エレノアは黙っていた。


 断るべきだ。

 今なら、まだ間に合う。

 けれど、胸の奥で何かが冷えていく。

 何度考え直しても、あの女は、殿下にふさわしくないと、やはり、そう思った。


 殿下が今はあの女を想っているとしても、それは正しい恋ではない。

 あの女が自分の美しさを武器に殿下を惑わせているだけだ。

 殿下は優しい。

 だから、彼女のすべて受け止めてしまう。

 ならば、誰かが目を醒まさせなければならない。

 たとえ、それが卑怯なやり方でも。

 たとえ、自分が殿下に軽蔑されることになっても。


 エレノアはゆっくり目を開けた。


「……一つだけ」

「何でしょう」


 マティアスが静かに問う。

 エレノアは彼を見据えた。


「これは、すべて殿下のためです。あの女から、殿下の目を醒まさせるためです」


 マティアスはわずかに笑った。


「もちろんです」

「ですが、覚えておきなさい。わたくしは、あなたの駒になるつもりはありません。あの女を貶めるためではなく、殿下のために動きます」

「ええ。そのお気持ちで十分です」


 エレノアはもう止まらなかった。


「……で、何をするつもりですの」


 その声は、自分でも驚くほど冷たかった。

 マティアスは、待っていたと言わんばかりに目を細めた。




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