40. 笑顔の行方
昼休みのあとの授業が終わっても、レオンハルトは席を立たなかった。
教師が教室を出ていく。
生徒たちがざわめきながら動き出す。
椅子を引く音、教科書を閉じる音、次の授業の話をする声。
そのすべてが、遠かった。
レオンハルトは机の上に開いたままの教科書を見ていた。
文字は目に入っている。
けれど、意味にはならない。
昼の食堂の光景が、まだ目に焼きついていた。
ユリウスが何かを話している。
彼女がそれを聞いている。
困ったように、礼儀正しく、距離を保って。
そこまでは、まだ堪えられた。
よくはない。
けれど、冷静さを失うほどではなかった。
問題は、そのあとだった。
セリーヌが笑った。
ほんの一瞬だった。
それは、よく知る作られた微笑ではなかった。
公爵家の令嬢として整えられた顔でもない。
恋する女として練習された甘い表情でもない。
もっと小さく、もっと無防備なものだった。
不意にこぼれた笑み。
その瞬間、彼女は何も演じていなかった。
ただ、笑っていた。
それが、ひどく可愛らしかった。
胸を掴まれたようだった。
そして、次の瞬間、そこに黒いものが滲んだ。
これまで、彼女は自分に甘く笑った。
柔らかくレオンハルトを呼び、袖に触れ、心配だと言った。
特別だと告げた。
どれも美しく愛らしく、息を奪うほどだった。
けれど、あれらは作られていた。
作られていると分かっていても嬉しかった。
そういう自分を、どうしようもないと思いながらも受け入れていた。
だが、あの令息の話を聞いて、彼女は本当に笑った。
それが、嫌だった。
喉の奥に、冷たいものが引っかかる。
彼女を自分だけのものにしたい。
その言葉が、ひどく自然に浮かんだ。
自分だけを見てほしい。
自分の言葉だけに揺れてほしい。
作った顔でもいいから、自分にだけ向けてほしい。
できることなら、作っていない笑顔も……すべて。
レオンハルトは目を伏せた。
醜い。
そう思った。
けれど、思ったところで消えるものではなかった。
最後の授業が終わり、教室にざわめきが戻る。
レオンハルトは昼食からセリーヌに近づかなかった。
嫌な言葉が頭をぐるぐると巡る。
ユリウスとの昼食は楽しかったのか。
彼の話は、そんなに面白かったのか。
なぜ笑ったのか。
僕の前では、なぜあんなふうに笑わないのか。
どれも、口にしてはいけない。
口にすれば、彼女を責めることになる。
それでも、言いたかった。
だから、近づかなかった。
周囲が帰り支度で忙しなく動く頃、廊下側に座っている令息が、セリーヌの席の前に立つ。
「セリーヌ嬢」
セリーヌが顔を上げる。
彼は少し緊張した様子で告げる。
「今日の昼食は、クレイン殿とご一緒だったとか」
「それが何か?」
「いえ。ただ、もし明日以降お時間があるようでしたら、私とも一度」
「ございませんわ」
即答だった。
令息は一瞬たじろぐ。
だが、そこで終わらなかった。
それを見ていた別の令息が、少し軽い調子で加わる。
「そうおっしゃらずに。セリーヌ嬢と話したい者は多いのですよ」
「それは、わたくしには関係のないことですわ」
「昼食でなくても構いません。放課後に少しだけ」
「お断りいたします」
冷たい声だった。
以前なら、それだけで彼らは下がっただろう。
けれど、今日は違った。
彼らは、どこか浮き立っていた。
ユリウスが約束を取りつけた。
ならば、自分たちにも可能性がある。
そんな浅い期待が、彼らの背を押している。
「一度だけでも」
「お話だけでも」
「殿下がご一緒でない時に」
最後の言葉が、やけにはっきりと聞こえた。
目の前では、数人の令息がシルビアの席を囲むように立っている。
シルビアは座ったまま、背筋を伸ばしていた。
表情は見えないが、声には隙がない。
「皆様。わたくしは、今そのようなお話を受けるつもりはございません」
「ですが、クレイン殿とは」
「成り行きですわ」
「では、我々にも成り行きがあれば?」
「作るものではありません」
ぴしゃりと返す。
数人が黙るが、完全には引かない。
その様子を、レオンハルトはじっと見ていた。
胸の奥に、黒いものがさらに広がっていく。
その時、セリーヌがわずかに振り向き、こちらを見た。
助けを求めたのか、ただ視線に気づいただけなのか、分からない。
セリーヌはすぐに前へ視線を戻した。
「失礼いたしますわ」
彼女が優雅に立ち上がる。
そして、鞄を手に持ち、彼らの間を抜けて、教室を去っていった。
その跡を誰も追えなかった。
レオンハルトは、空になった彼女の席を見た。
彼女は何も悪くない。
ユリウスと食事を共にしたこと、彼に笑いかけたこと、先ほど令息たちに囲まれたこと。
どれも、彼女の罪ではない。
なのに、腹の底に怒りが溜まっていく。
ユリウスに。
令息たちに。
彼女に。
そして、一番は自分に。
自分以外の者が彼女を見ることに耐えられない。
自分以外の者が彼女を笑わせることに耐えられない。
そんな狭さを、今さら知った。
生徒たちは一人、また一人と教室を出ていく。
今日は彼女に声をかけなくてよかったと思う。
今の自分では、きっと優しくできなかった。
「セリーヌ嬢」
そう呼べば、彼女は練習された柔らかさで、レオンハルトを甘く見つめるだろう。
でも、今日はそれでは足りない。
本当の顔を見たい。
あの笑顔を、自分にも向けてほしい。
その欲が強くなりすぎていた。
レオンハルトは机の上を片付けて、ようやく立ち上がる。
自然と鞄を持つ手に力がこもる。
もう、作られた甘い顔だけを喜んでいた自分には戻れない。
レオンハルトは教室を出た。
胸の奥に沈んだ黒いものは、消えなかった。
ただ静かに、深くなっていた。




