39. ユリウスとの昼食
その日の最後の授業が終わっても、教室の空気は落ち着かなかった。
教師が出ていくと、すぐに囁きが戻る。
シルビアは教科書を閉じた。
明日、ユリウスと昼食を取る。
そう考えるたびに、胸の奥が落ち着かない。
断ればいい。
そう分かっている。
けれど、相手はすでに教室内で約束だと言った。
今さら強く否定すれば、また別の噂になる。
何より、今更どう断ればいいのか分からなかった。
「セリーヌ嬢」
声がした。
顔を上げると、レオンハルトが席の前に立っていた。
教室に残っていた生徒たちが、明らかに耳をそばだてる。
レオンハルトはそれを一度だけ見回し、穏やかに言った。
「少し、話せる?」
シルビアは静かに立ち上がった。
「ええ」
二人は教室を出た。
レオンハルトは少し歩き、人目の少ないフロアで足を止めた。
「明日の昼食のことだけど、本当に約束したの?」
シルビアは答えるまでに少し間が空いた。
「そのつもりはありませんでしたわ。ただ、授業に遅れそうで、後日にしてほしいと申し上げたら……明日でもよいのかと聞かれて」
「それで、頷いた?」
「頷いたわけではございませんわ」
シルビアは小さく首を振る。
「けれど、そう受け取られてしまいましたの」
レオンハルトは黙った。
責めるでも、笑うでもない。
ただ、考えるように視線を落としている。
「体調が悪いと言って断るのはどう?急用ができたことにするとか。僕との先約があったことにするとか」
「それは……」
明らかな嘘に少し言い淀む。
「なら、僕が断る。クレイン伯爵子息に話しておくよ」
その提案は、確かに楽だった。
自分で何も言わなくて済む。
ユリウスに説明しなくて済む。
けれど、シルビアはすぐに首を振った。
「ご遠慮致しますわ」
「どうして?」
「人を使って断るのは、好きではありませんの」
レオンハルトはしばらく彼女を見ていた。
「そう」
短い返事だった。
「では、自分で断る?」
「……ええ」
「断れなかったら?」
「その時は、自分で対処いたしますわ」
レオンハルトは少しだけ息を吐いた。
「分かった」
声は穏やかだった。
けれど、どこか押し殺したものがあった。
「君がそうしたいなら、僕は止めない」
「ありがとうございます」
「でも、困ったことがあったら教えて」
蒼い瞳が、まっすぐ彼女を捉えている。
シルビアは、少しだけ息を詰めた。
「殿下は、随分とご心配なさるのですね」
「するよ。君が他の男と昼食を取ると聞いて、平気でいられるほどできた人間じゃない」
その言葉に、シルビアの指先が止まった。
レオンハルトは淡く笑う。
「でも、止める権利がないことも分かっている」
穏やかな笑みだった。
けれど、目は笑っていなかった。
「だから、君が困った時だけでいい」
彼は少しだけ身を屈めた。
声が、耳に届くほど低くなる。
「僕を呼んで」
触れられてはいない。
けれど、その言葉だけで、首筋に熱が触れたような気がした。
シルビアは一歩下がりそうになるのを堪えた。
ここで動けば、動揺を見せることになる。
「……そろそろお暇いたしますわ」
声は、わずかに遅れた。
「失礼致します」
シルビアはカーテシーをして、その場を離れた。
レオンハルトは、振り返らない彼女の後ろ姿をじっと見ていた。
***
その夜、シルビアは公爵夫人の私室へ呼ばれた。
公爵夫人は長椅子に腰かけ、上機嫌に紅茶を飲んでいた。
「今日はどうだった?」
声が弾んでいる。
シルビアは少し迷った。
エレノアの告白も、ユリウスとの約束も、どちらも話さなければならない。
隠せるものではない。
まず、温室でのことを伝えた。
エレノアが来たこと。
レオンハルトへ想いを告げたこと。
そして、拒まれたこと。
公爵夫人は目を輝かせた。
「まあ」
扇を広げ、口元を隠す。
「なんて美しい場面なの」
シルビアは黙った。
美しい。
そう言われることに、胸の奥が冷えていく。
エレノアは泣いていた。
本気だった。
それでも公爵夫人にとっては、物語の一場面でしかない。
「それで、殿下はあなたを選んだのね」
「……はい」
「素晴らしいわ」
公爵夫人はうっとりと目を細めた。
「恋敵の本気の告白。それを退けて、あなたを選ぶ王子。まさに恋愛小説の山場だわ」
シルビアは視線を落とした。
「ただ、その後、別の方から声をかけられました」
公爵夫人の目が、すっと動いた。
「別の方?」
「隣のクラスのユリウス・クレイン様という男子生徒です。明日の昼食を、その方と取ることになってしまいました」
言い終えると、部屋が静まり返った。
シルビアは叱責を覚悟した。
迂闊だと責められると思った。
だが、公爵夫人は、ゆっくりと笑った。
「まあ!嫉妬の演出ね」
「……嫉妬?」
「ええ。最高だわ」
公爵夫人は立ち上がった。
「殿下は今、あなたに強く惹かれている。そこへ別の男が現れる。あなたは断りきれず、昼食を共にする。殿下はそれを見る」
青い瞳が熱を帯びる。
「完璧な嫉妬の場面よ」
「ですが、わたしは」
「行きなさい」
即座に言われた。
「明日の昼食は、クレイン伯爵令息と過ごしなさい」
シルビアは言葉を失った。
「……よろしいのですか」
「もちろん」
「ただし、楽しそうにしてはいけないわ。困っている。けれど、無下にもできない。そんな顔をなさい」
扇が閉じられる。
「そして、殿下には気づかせるの」
「何を、でしょうか」
「あなたが困っていることよ」
公爵夫人は当然のように言った。
「殿下は嫉妬する。けれど同時に、あなたを助けたいと思う。そこに揺れが生まれる」
シルビアは胸の前で指を握った。
「昼食の間、セリーヌとして冷ややかに振る舞わなくてよろしいのですか」
公爵夫人は目を細めた。
「これからは違うわ。冷たいセリーヌではなく、殿下を想うあまり戸惑うセリーヌよ。ほかの男に言い寄られ、困っている。けれど礼を失うことはできない。そんなあなたを見て、殿下は焦るの。相手を突き放しすぎてはだめ。逃げ道がなくなるほど近づけてもだめ。ちょうどよく困りなさい」
「……ちょうどよく」
「そう。殿下が見て、助けたいと思う程度に」
公爵夫人の声は楽しげだった。
「いいこと、セリーヌ。殿下の心を乱しなさい。あなたを失うかもしれないと思わせるの。そうすれば、彼はもっとあなたに執着する」
「……はい」
シルビアは小さく頷いた。
その夜、シルビアは鏡の前に立たされた。
公爵夫人は椅子に腰掛け、指示を出す。
「まず、相手の話を聞く時の顔」
シルビアは視線を冷たく整えた。
近づきすぎる相手を遠ざける顔。
以前なら、それで正しかったはずだった。
「違うわ」
公爵夫人が言った。
「冷たすぎる。それでは相手が引いてしまうでしょう」
シルビアは鏡の中の自分を見た。
「ですが、セリーヌならこれが自然ではありませんか?」
「今の脚本では違うの」
公爵夫人は当然のように答える。
「あなたはもう、ただ嫌われる悪役令嬢ではないわ。殿下に愛され、嫉妬され、やがて捨てられる令嬢なの」
言葉が静かに沈みこんでくる。
「だから、必要な顔も変わるのよ」
シルビアは小さく息を吸った。
また変わる。
役は、公爵夫人の手の中で何度も形を変える。
そのたびに、自分は別の顔を覚えなければならない。
シルビアはもう一度確認する。
認識にズレがあったら、取り返しのつかないことになってしまうから。
「明日の昼食では、セリーヌらしい冷ややかな態度を控え、困惑している令嬢として振る舞えばよろしいのですね」
「ええ」
公爵夫人は満足げに頷いた。
「ただし、品は崩してはだめ。相手に期待を与えすぎてもいけない。困っているけれど、礼を尽くしている。そこが重要よ」
「承知しました」
「では、もう一度」
シルビアは鏡を見る。
眉を寄せすぎない。
唇は固くしすぎない。
目は相手に向けるが、長くは見ない。
相手の話を聞いている。
だが、受け入れてはいない。
困っている。
けれど、拒みきれない。
「そう。今の方がいいわ」
公爵夫人は満足げに頷く。
「次に、殿下に見られていると気づいた時」
シルビアの手が止まった。
「……殿下に」
「ええ」
公爵夫人の声が熱を帯びる。
「あなたは気づくの。殿下がこちらを見ていると。そこで少しだけ動揺なさい。けれど、すぐに隠すの」
シルビアは鏡の中の自分を見る。
顔を上げる。
遠くにレオンハルトがいると想定する。
目が合う。
一瞬、息を止める。
すぐに微笑みを戻す。
「違う」
公爵夫人が言った。
「今のは綺麗すぎるわ。もっと痛みを残して」
痛み。
それは、作らなくても既に少しだけあった。
シルビアはもう一度、鏡を見る。
今度は、自然に目が揺れた。
すぐに伏せる。
微笑む。
だが、ほんの少しだけ遅れる。
公爵夫人が息を呑んだ。
「……それよ。今の顔を覚えておきなさい」
シルビアは鏡を見つめた。
そこに映っているのは、困惑した令嬢だった。
恋する相手に見られながら、別の男の前にいる。
申し訳なさと、迷いと、隠しきれない不安。
そう見える顔。
けれど、シルビアには分かっていた。
今のは、完全な演技ではない。
ただ、元からあった痛みを利用しただけ。
そのことが、少し苦い。
***
翌日の昼休み。
食堂は、すでに多くの生徒で賑わっていた。
学園の食堂では、並べられた料理から好きなものを選び、盆に載せて席へ運ぶ。
温かな煮込み料理。
焼きたてのパン。
冷たい果実水。
肉料理や魚料理も、いくつか用意されていた。
シルビアは入口の近くで、ユリウスを見つけた。
彼は先に来ていたらしい。
シルビアの姿を見つけると、すぐに明るい顔になり、頭を下げる。
「セリーヌ嬢、来てくださってありがとうございます」
シルビアは微笑んだ。
公爵夫人に教えられた通り、冷たすぎず、甘すぎず。
「約束を違えるのは、好みませんので」
「それだけでも光栄です」
ユリウスは本気で嬉しそうだった。
その顔を見て、シルビアは少しだけ困る。
彼は悪い人間ではない。
ただ、こちらの拒絶を拒絶として受け取ってくれないだけだ。
「何を召し上がりますか」
ユリウスが尋ねる。
「決めておりませんわ」
「では、私はこの鶏肉の焼き物にします。昨日、友人が美味しかったと言っていたので」
「そうですか」
シルビアは並んだ料理へ視線を向けた。
肉料理。魚料理。野菜のスープ。焼き菓子。
どれも丁寧に作られている。
「わたくしは、白身魚と野菜のスープにします」
「軽めですね」
「午後の授業がありますもの」
「確かに」
ユリウスは嬉しそうに頷いた。
二人は盆を受け取り、料理を載せていく。
周囲の視線が集まっているのが分かった。
セリーヌが、レオンハルト以外の男子生徒と食堂にいる。
それだけで十分だった。
食事が始まってからも、ユリウスはよく話した。
親睦会でどれほど感動したか。
普段、隣のクラスから見えるシルビアがどれほど目立つか。
そして、自分が話しかけるまでに何度失敗したか。
「実は、一昨日も声をかけようとして、廊下の柱に肘をぶつけました」
シルビアは匙を止めた。
「……柱に?」
「はい。セリーヌ嬢がこちらへ歩いていらしたので、あまりに緊張してしまって。優雅に一礼しようとしたんです。ですが、横にあった柱との距離を誤りまして」
ユリウスは真面目な顔で続ける。
「かなりいい音がしました」
シルビアは思わず、目を瞬いた。
「それで、結局声はかけなかったのですね」
「ええ。痛みでそれどころではありませんでした」
「……そうですか」
「その前の日は、声をかける練習をしていたら、友人に聞かれました。しかも、セリーヌ嬢役を自ら立候補してくれました」
「わたくし役?」
「友人がセリーヌ嬢のつもりで、非常に冷たく『どなたかしら』と野太い声で言うんです。似てなさすぎて、あまり練習にはなりませんでした」
シルビアは口元を押さえた。
笑ってはいけない。
今は、困惑する令嬢を演じている最中だ。
だが、ユリウスの話し方は妙に真剣で、それがかえっておかしかった。
「ただ、そのおかげで、今日こうしてお話しできています」
「では、その方に感謝しなければなりませんね」
「はい。ですが、あまり感謝すると調子に乗るので、黙っておきます」
その言い方が、あまりに真面目だった。
シルビアは堪えきれなかった。
小さく、笑ってしまった。
ほんの短い笑いだった。
けれど、それは作られたものではなかった。
気づいた瞬間、背筋が冷えた。
しまった。
シルビアはすぐに表情を戻そうとした。
だが、ユリウスはその顔を見て、完全に言葉を失っていた。
「……セリーヌ嬢」
「何ですの」
「今、笑いましたね」
「笑っておりません」
「笑いました」
「気のせいですわ」
「いいえ。今のは、確かに」
ユリウスは頬を赤くして、少し身を乗り出した。
「とても、可愛らしかったです」
シルビアは動きを止めた。
周囲のざわめきが、一瞬遠くなる。
「……お世辞がお上手ですこと」
「お世辞ではありません」
真っ直ぐに返される。
その目にある熱に、シルビアは困った。
その時だった。
食堂の空気が変わっているのに気付く。
シルビアは視線を横にずらす。
レオンハルトとカイルがいた。
二人は食事を乗せた盆を持って、席を探しているところだった。
二人はいつもなら、一階のサロンで食事をとっている。
食堂へ来ることは、ほとんどない。
彼らを見ていると、不意に蒼い瞳と目が合った。
その瞬間、公爵夫人に教えられた通りにしなければならないと思う。
動揺する。
けれど隠す。
困惑している。
けれど礼を保つ。
シルビアはその通りに視線を揺らし、すぐに伏せた。
だが、胸の奥には別の焦りがあった。
先ほど、自分は演技を忘れて笑った。
それを見られたのかもしれない。
レオンハルトが何を考えているのか、分からなかった。
怒っているのか。
傷ついているのか。
それとも、何も感じていないのか。
彼はしばらくこちらを見ていた。
やがて、カイルに促されるように別の席へ向かう。
近づいては来ない。
シルビアは匙を持つ手に力を込めた。
「殿下も、食堂にいらっしゃることがあるのですね」
ユリウスが何も知らない声で言った。
「……ええ」
シルビアは短く返した。
その後も、ユリウスは話を続けた。
ダンスの授業で逆方向に回って、悪目立ちしたこと。
剣術の授業で木剣を構えて踏み込んだら、足元の紐がほどけていて転びかけたこと。
普通は知られたくない恥の場面も、おもしろおかしく笑い話へ変える。
話し方が明るい。
聞いていて、おもしろいと思ってしまう。
シルビアは時折、短く返事をした。
そのたびに、ユリウスは嬉しそうに笑った。
シルビアは食事をすべて終え、盆の上の皿を整えた。
ユリウスは名残惜しそうにこちらを見る。
「今日は、本当にありがとうございました」
「一度だけですわ」
シルビアは静かに言った。
「今日の昼食だけ。これで終わりです」
ユリウスは一瞬、目を瞬いた。
それから、なぜか柔らかく笑った。
「はい、今日は。でも、また誘います」
ユリウスは真面目な顔で続ける。
「何度でも。ご迷惑でない範囲で」
「すでに迷惑だと言ったら?」
「更にペースを落として、誘います」
「……あなたは」
シルビアは小さく息を吐いた。
「本当に、妙な方ですわ」
ユリウスは嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます」
「褒めておりません」
「はい!」
分かっているのか、いないのか。
シルビアには判別できなかった。
予鈴が鳴る。
昼休みが終わる。
シルビアは立ち上がり、盆を持った。
その時、遠くの席にいるレオンハルトと目が合った。
彼は、静かにこちらを見ていた。
やはり、何を考えているのか分からなかった。
シルビアは、ただ視線を伏せた。
そのまま食器を返却口へ運ぶ。




