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人形劇 〜悪役令嬢を演じさせられた少女は王子を翻弄する〜  作者: のぎこ


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38. 約束の誤算

 


 予鈴が鳴っていた。


 温室の外から聞こえたその音に、シルビアはようやく顔を上げた。

 昼休みが終わる。

 教室へ戻らなければならない。


 シルビアは息を吸った。

 胸の奥は重かった。

 けれど、授業は始まる。

 何もなかったように教室へ戻り、席に座り、教師の話を聞かなければならない。

 それが、学園での一日だった。


 シルビアは温室を出た。

 外の空気は、温室よりずっと軽かった。

 初夏の風が頬に触れる。

 けれど、体にこもった熱はすぐには抜けなかった。


 校舎へ向かう道を急ぐ。

 走るわけにはいかない。

 けれど、歩幅は自然と大きくなった。

 予鈴のあと、次の鐘が鳴るまでの時間はあまりない。

 すでに中庭に残る生徒の数も少なくなっていた。

 皆、教室へ戻っている。


 その時だった。


「セリーヌ嬢」


 横から声をかけられた。

 シルビアは足を止めかけた。

 けれど、今は急がなければならない。

 聞こえないふりをして進もうとしたが、相手はすぐに前へ回り込んできた。


 見知らぬ男子生徒だった。


 制服の襟章から、同学年だと分かる。

 ただし、シルビアのクラスではない。


 淡い茶色の髪をきちんと整え、どこか緊張した面持ちで立っている。

 顔立ちは悪くない。

 だが、その目は妙に熱っぽかった。


「少し、お時間をいただけませんか」


 シルビアは眉を動かしそうになり、すぐに抑えた。


「申し訳ありません。次の授業が始まりますので」


 声は冷たく整えた。

 それだけで、普通なら下がるはずだった。

 だが、彼は引かなかった。


「すぐに済みます」

「では、要件を手短に」


 シルビアは時計塔の方へ視線を向けた。

 次の鐘まで、あまりない。

 男子生徒は背筋を伸ばした。


「隣のクラスの、ユリウス・クレインと申します」


 聞いたことのない家名だった。

 少なくとも、公爵夫人から覚えさせられた主要貴族の中にはいない。


「それで?」


 冷たく促す。

 ユリウスは一瞬怯んだが、すぐに真剣な顔へ戻った。


「以前から、セリーヌ嬢とお話ししたいと思っておりました」


 シルビアは黙った。

 今、そんなことを言われても困る。


「わたくしは、あなたとお話しする理由がありませんわ」

「分かっています」

「分かっているなら、道をお譲りいただけるかしら」

「ですが」


 ユリウスは食い下がった。


「春季親睦会でのダンスを拝見してから、どうしても一度、直接お話ししたいと」


 また、親睦会。

 シルビアは内心で息を吐いた。

 あの夜から、いくつものことが変わってしまった。


 令息たちの視線も。

 令嬢たちの敵意も。

 レオンハルトとの距離も。


「ご感想なら、ありがたく頂戴いたしました」


 シルビアは短く言った。


「では、失礼いたします」


 横を抜けようとする。

 だが、ユリウスはさらに一歩動いた。


「待ってください。ほんの少しでいいんです」


 その必死さに、シルビアの焦りが増した。

 本鈴まで時間がない。

 そう思うと、頭の中が少し乱れた。


「後日にしてくださいませ」

「では、明日でも?」

「ええ、明日でも何でも」


 口から出た瞬間、しまったと思った。

 ユリウスの顔が明るくなる。


「本当ですか!」


 今のは、返事を保留するための言葉だった。

 けれど、彼にはそう聞こえなかったらしい。


「では、明日の昼休みに、食堂で少しお話しできれば」


 遠くで鐘が鳴り始めた。

 本鈴だった。

 血の気が引く。


「授業に遅れますので」

「では、明日の昼食を楽しみにしております。お時間を取らせて失礼を致しました」


 ユリウスは嬉しそうに一礼した。

 シルビアは一瞬、何も言えなかった。


 明日の昼食。

 いつの間に、そうなったのか。

 否定しなければならない。

 けれど、もう鐘は鳴っている。


 教室へ入らなければ。


 シルビアは何とか言葉を出した。


「……後ほど、改めて」


 それだけを残して、校舎へ急いだ。

 廊下には、もう人がいなかった。

 靴音がやけに大きく響く。

 シルビアは早足で教室へ向かい、扉を開けた。

 ほとんど同時に、教師が教室の反対側の扉から入ってきた。


 間に合った。

 ぎりぎりだった。


 シルビアは静かに席へ向かう。

 だが、教室の空気が違っていた。

 何人かがこちらを見る。

 レオンハルトも心配そうに見ていた。


 シルビアは目を合わせないようにした。


 席に着き、教科書を開く。

 指先がわずかに冷えている。


 どうしよう。

 その言葉だけが、頭の中を回った。


 ユリウス・クレイン。

 名前も顔も、ほとんど知らない相手。

 そんな相手と昼食を取るなど、どう考えてもおかしい。


 公爵夫人はどう思うだろう。

 レオンハルトは。

 エレノアは。


 授業中、教師の声はほとんど入ってこなかった。

 板書を写す手だけが動く。

 隣の席の生徒が一度こちらを見たが、すぐに前を向いた。

 シルビアは、ただ時間が過ぎるのを待った。


 授業が終わる。

 教師が教室を出ると、室内にざわめきが戻った。

 いつもなら、すぐにレオンハルトがこちらへ来る。

 あるいは、シルビアが視線を向ければ、彼は自然に近づいてくる。

 それが、最近の常だった。


 だが、その日は違った。

 レオンハルトは席を立たなかった。

 シルビアも、動かなかった。

 教室の空気が、目に見えないほどわずかに変わる。


 王子とシルビアが、互いに近づかない。

 それだけで、充分に奇妙だった。


「……喧嘩?」


 誰かの小さな声が聞こえた。


「昼休みも別々に戻ってきたわよね」

「温室にいたのではなかったの?」

「何かあったのかしら」


 囁きは、すぐに広がる。

 シルビアは顔を上げなかった。

 レオンハルトも、何も言わない。

 けれど、彼がこちらを見ていることは分かった。


 視線を感じる。

 心配と、迷いと、少しだけ距離を測るような静けさ。

 やがて、レオンハルトが立ち上がった。

 それだけで、囁きが止まる。


 彼はシルビアの席へ近づいた。


「セリーヌ嬢」


 声はいつも通り穏やかだった。


「何かあった?」


 教室中が聞き耳を立てている。

 シルビアは顔を上げ、微笑んだ。


「何もございませんわ」

「本当に?」

「ええ」


 短く答える。

 だが、いつものように甘くはできなかった。


 エレノアの涙。

 殿下の言葉。

 ユリウスとの約束。


 それらが絡まり、どの顔をすればいいのか分からなくなっていた。

 レオンハルトはそれを見ていた。


「……そう」


 彼はそれ以上、踏み込まなかった。

 そのことが、ありがたかった。

 二人のぎこちない距離を見て、近くの令嬢が呟く。


「やっぱり喧嘩かしら」


 その声を打ち消すように、レオンハルトが周囲を見た。


「喧嘩ではないよ」


 穏やかな一言だった。

 だが、教室は静まった。

 シルビアも続けるしかなかった。


「ええ。皆様がご心配なさるようなことは何もありませんわ」


 そう言って冷たく微笑む。

 ただ、その微笑も少し硬かった。

 レオンハルトは違和感に気づいている。

 それでも、追及しなかった。


 その時だった。


「セリーヌ嬢」


 明るい声が教室の入口から聞こえた。

 シルビアは嫌な予感とともに顔を向けた。

 そこには、ユリウス・クレインが立っていた。


 彼は隣の教室から来たのだろう。

 少し息を弾ませながら、まっすぐこちらへ歩いてくる。

 教室の視線が、一斉に彼へ集まった。

 レオンハルトの表情が、静かに変わる。


 シルビアは血の気が引くのを感じた。

 なぜ今来るのか。


「先ほどは、慌ただしくしてしまって失礼しました」


 ユリウスはシルビアの席の前で足を止め、丁寧に腰を折る。


「改めてご挨拶を。ユリウス・クレインです」


 シルビアは微笑むしかなかった。


「……ご丁寧にどうも」


 声は冷たく出した。

 これで引いてほしい。

 だが、彼は引かなかった。


「春季親睦会でのワルツ、本当に素晴らしかったです。セリーヌ嬢の足運びも、表情も、会場中が見惚れていました」

「過分なお言葉ですわ」

「いいえ、本心です。あれ以来、ずっとお話ししてみたいと思っていて」


 教室がざわつく。

 レオンハルトは黙っていた。

 ただ、ユリウスを見ている。

 その静けさが怖かった。


 ユリウスは気づいていない。

 むしろ、緊張のせいで周囲が見えていないようだった。


「普段は殿下とご一緒なので、なかなかお声がけできず」


 その一言で、空気がさらに変わった。

 シルビアは机の下で指を握る。


「でしたら、今後も遠慮なさってくださればよろしかったのに」


 冷たく返す。

 ユリウスは一瞬だけ固まった。

 だが、すぐに少し照れたように笑う。


「そういうところも、噂通りですね」

「噂?」

「冷たい方だと。けれど、私はむしろ率直で素敵だと思います」


 どうしてそうなるのか。

 シルビアには分からなかった。


 レオンハルトが、わずかに目を細める。

 教室の令嬢たちも、明らかに興味を持って見ている。


 これはよくない。


「クレイン様」


 シルビアは声を少し低くした。


「次の授業が始まります。お戻りになった方がよろしいのでは」

「はい。ですが、もう少しだけ」


 ユリウスは熱心に続けた。


「明日の昼食を楽しみにしております。これを機に、セリーヌ嬢と少しでもお近づきになれましたら、光栄です」


 教室が凍った。

 シルビアの顔から血の気が引いた。


 言った。

 言ってしまった。

 しかも、皆の前で。


 シルビアは言葉を探す。


「……その件は」


 否定しなければならない。

 今すぐ。

 けれど、ユリウスは嬉しそうに続けた。


「お約束いただけて、本当に光栄です」


 爆弾だけを残し、彼は一礼した。


「では、また明日」


 そして、次の授業の鐘が鳴る前に、軽やかに教室を出ていった。

 残された教室は、しばらく静まり返っていた。

 その後、ざわめきが一気に広がる。


「明日の昼食?」

「セリーヌ嬢が、他の令息と?」

「殿下はご存じだったの?」

「やっぱり喧嘩なのでは」


 シルビアは何も言えなかった。

 顔が青ざめているのが、自分でも分かる。


 レオンハルトが静かに口を開いた。


「セリーヌ嬢」


 優しい声だった。

 けれど、逃げ場がなかった。


「明日、昼食の約束があるんだね」


 シルビアは目を伏せた。

 否定したい。

 誤解だと言いたい。

 けれど、確かに自分は、明日でも何でも、と言ってしまった。


「……そのように、受け取られてしまったようです」


 ようやく出た声は、小さかった。


 レオンハルトは黙っていた。


 その沈黙に、胸が詰まる。

 シルビアは顔を上げられなかった。


 やがて、彼は静かに言った。


「そっか」


 それだけだった。

 怒らない。

 責めない。

 けれど、その短い言葉が、妙に重かった。


 次の授業の教師が入ってくる。

 生徒たちは慌てて席へ戻った。

 シルビアも教科書を開く。


 どうすればよいのか、また分からなくなっていた。



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