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人形劇 〜悪役令嬢を演じさせられた少女は王子を翻弄する〜  作者: のぎこ


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37. 選ばれなかった恋

 



 数日が過ぎても、レオンハルトは慣れなかった。


 朝、シルビアが柔らかく微笑む。

 それだけで、彼は一瞬言葉を失う。

 昼休みに、彼女が隣へ座る。

 それだけで、指先が落ち着かなくなる。

 廊下ですれ違う時、ほんの少し視線を長く向けられる。

 それだけで、呼吸が乱れる。


 シルビアは、その変化を見て、確認していた。


 効いている。


 公爵夫人に教えられた通り、声も、視線も、間も、以前よりずっと深く届いている。

 けれど、レオンハルトが嬉しそうにするたび、胸の奥が少しだけ冷える。


 彼は作られていることに気づいている。

 それでも、受け取る。

 そのことが、シルビアには分からなかった。


 その日の昼休み、レオンハルトは彼女を温室へ誘った。


「人が少ないから」


 そう言った声は、いつもより少しだけ静かだった。


 温室へ近づくと、空気が変わった。


 外の風はまだ涼しさを残していたが、扉の前に立つだけで、ガラス越しにこもった熱が分かる。

 初夏の陽射しは強く、温室の中は夏のような温度になっていた。


 レオンハルトが扉を開けると、湿った熱気がふわりと流れ出した。


 シルビアは思わず足を止めた。


「……暑いですわね」

「今日は特にね」


 レオンハルトは苦笑した。


「窓は開けてあるはずなんだけど」


 中へ入ると、確かに高い位置の窓はすべて開け放たれていた。

 細い風が通っている。

 それでも、ガラスの天井から降りる陽射しは強く、温室には熱がゆっくり溜まっていた。


「ここでお話をなさるおつもりでしたの?」


 シルビアはそっと襟元の空気を逃がした。

 仕草は控えめに。

 暑さに困っているように。

 けれど、品は崩さないように。


 レオンハルトはその動きを見て、一瞬言葉を失った。


「……別の場所にしようか」

「いいえ」


 シルビアはすぐに首を振った。


「せっかく殿下が選んでくださった場所ですもの」


 少しだけ目を伏せる。


「暑いくらいなら、平気です」

「……君はそういうことを、すぐ言う」

「いけませんでしたか?」

「いけなくはない」


 彼は困ったように笑った。


「ただ、慣れない」


 シルビアは微笑んだ。


「もう何日も経っておりますのに」

「一年経っても慣れる気がしない」


 温室の中は、他に誰もおらず静かだった。

 開け放たれた窓から、外のざわめきが遠く入ってくる。


 花々は初夏の光を受け、明るい色を帯びて咲いている。


 シルビアは白い花の前で足を止めた。


 以前、この温室で見た花とは形も大きさも違っていた。

 ただ、色だけが同じだった。

 孤児院の庭にも、同じ色の花が咲いていた。

 春になると、ミアが摘みたがった。

 小さな手で茎を折り、すぐに萎れてしまって悲しんでいたことがある。


 思い出しかけて、シルビアは目を伏せた。

 今、考えることではない。


「その花、気になる?」


 レオンハルトが尋ねた。

 シルビアは顔を上げる。


「綺麗だと思っただけですわ」

「そう」


 レオンハルトは少しだけ笑った。


「君は、そういう時だけ素直だ」

「わたくしは、いつも素直ですわ」

「そういうことにしておく」


 穏やかな優しい声だった。


 レオンハルトは、シルビアをじっと見ていた。

 その視線に気づいて、シルビアはゆっくり彼へ向き直り、少しだけ近づく。

 近づきすぎず、けれど距離を意識させる位置で止まる。


「殿下」


 柔らかく呼んだ。

 レオンハルトの肩が、ほんの少し揺れる。


「最近、お疲れではありませんか」

「僕が?」

「はい」


 シルビアは視線を伏せた。


「わたくしのせいで、殿下にご迷惑をおかけしているのではないかと」


 レオンハルトの表情が変わった。


「迷惑?」

「周囲が騒がしくなっておりますから」


 声は控えめに。

 不安を滲ませる。


 公爵夫人に教えられた通りだった。


「殿下がわたくしといることで、余計な噂が立つのではないかと……」


 そこで言葉を言い切らずに残す。

 相手に続きを想像させる。


 レオンハルトは黙って彼女を見ていた。


「今のも、練習した?」


 静かな問いだった。

 シルビアの息が止まる。


「……何を」

「そういう顔」


 レオンハルトは一歩近づいた。


「不安そうに見える。健気で、相手を気遣っているように見える」


 シルビアは動けなかった。


「すごく綺麗だ」


 その声には、嘘がなかった。


「でも、少しだけ苦しくなる」

「苦しい?」

「うん」


 レオンハルトは、近くの花へ視線を落とした。


「君が、何を言えば僕が喜ぶかを考えているのが分かるから」


 シルビアは唇を結んだ。

 見抜かれている。


 それでも、彼は喜ぶ。

 それでも、離れない。


「でしたら、喜ばなければよろしいのでは?」


 少し冷たい声で返す。

 レオンハルトは小さく笑った。


「それができたら苦労しない」

「殿下は、不思議な方ですわ」

「君限定だよ」


 シルビアは一瞬、言葉を失った。

 その隙を見て、レオンハルトは静かに言う。


「本気でなくても、嬉しいんだ」


 胸の奥が、かすかに痛んだ。


「君が僕だけにそういう顔を向けてくれるなら、たとえ作られたものでも、僕は嬉しい」

「……それで、よろしいのですか」

「よくはない」


 彼は首を振った。


「でも、今はそれでもいいと思ってしまう」


 シルビアは目を伏せた。

 温室の中は静かだった。

 葉の間を通る風の音と、遠くの校舎から聞こえる声だけがある。

 その静けさに、少しだけ息を奪われそうになった時だった。

 扉が開く音がした。


 強い足音。


 振り返るより早く、鋭い声が響いた。


「殿下」


 エレノアが立っていた。

 深い赤の髪を結い上げ、琥珀色の瞳を真っ直ぐこちらへ向けている。


 彼女はいつも一人で来る。

 誰かの後ろに隠れることも、誰かを従えて威を借りることもない。

 怒りも、嫉妬も、痛みも、自分のものとして抱えて、まっすぐ踏み込んでくる。


 その強さが、シルビアには少し眩しかった。


 レオンハルトの表情が静かになる。


「エレノア嬢」

「探しましたわ」


 エレノアの視線が一度もシルビアから外れない。


「まさか、またこの方とご一緒だとは思いませんでした」


 声は落ち着いている。

 けれど、その奥にあるものは隠せていなかった。


 嫉妬。

 怒り。

 そして、痛み。


 シルビアは一礼した。


「ごきげんよう、ブランシュ様」

「ごきげんよう」


 エレノアは短く返す。


「相変わらず、お上手ですのね。殿下のお傍にいることが」


 シルビアはセリーヌとして微笑む。


「お上手、とは?」

「とぼけないで」


 エレノアの声が硬くなる。


「殿下の視線も、時間も、何もかも奪っておいて」

「奪うなど、人聞きの悪い」

「では、違うと言えますの?」


 シルビアは答えなかった。

 答えられなかった。


 違う。

 そう言うには、あまりにも多くのものを受け取っていた。


 それらは、シルビアが望んだものではない。

 けれど、エレノアから見れば、奪われたものなのだろう。


「エレノア嬢」


 レオンハルトが低く言った。


「彼女を責めるのは違う」


 その一言で、エレノアの顔が変わった。


 庇われた。

 また。


 シルビアは胸の奥が冷えるのを感じた。


 これは、よくない。


 レオンハルトが庇えば庇うほど、エレノアの傷は深くなる。


「違う?」


 エレノアはレオンハルトを見た。

 琥珀色の瞳が揺れている。


「では、誰を責めればよろしいのですか」

「僕だ」


 レオンハルトは静かに答えた。


「僕が、彼女の傍にいたいと思っている」


 温室の空気が止まった。

 エレノアの唇が、かすかに震える。


「……どうして」


 声は小さかった。


「どうして、この方なのですか」


 エレノアは一歩近づく。


「わたくしは、ずっと殿下を見ていました。幼い頃からです。王城の庭園で初めてお会いした時から、ずっと」


 シルビアは息を詰めた。

 初めて聞く声だった。

 怒りではない。

 飾られた社交の声でもない。

 一人の少女が、長く胸に抱えてきたものを、ようやく口にしている声だった。


「殿下が誰にでもお優しいことは知っています。けれど、誰にも特別ではなかった。だから、いつか振り向いていただけるように、努力しました」


 エレノアは笑おうとした。

 けれど、うまくいかなかった。


「礼法も、舞踏も、学問も。王子妃に相応しい令嬢であろうとしました。殿下の隣に立っても恥ずかしくないように」


 レオンハルトは静かに聞いていた。

 けれど、その顔には、苦しさがあった。


 エレノアはそれを見て、さらに声を震わせる。


「わたくしの気持ちは、負けていません」


 強い言葉だった。

 けれど、涙が滲んでいた。


「その方より、ずっと長く殿下をお慕いしてきました。殿下がどんなお立場にあっても、どんな重荷を背負っても、わたくしはお支えする覚悟があります」


 彼女はシルビアを見た。


「この方に、それがありますか?」


 シルビアは動けなかった。


 ない。

 そう思った。


 自分には何もない。

 レオンハルトへの覚悟も、愛も、未来を支える意志も。

 あるのは命じられた演技だけだった。

 エレノアの言葉は、正しかった。


「殿下」


 エレノアはレオンハルトへ向き直る。

 声は震えていたが、視線はまっすぐだった。


「わたくしを選んでください」


 その言葉は、温室の中へ静かに落ちた。


「わたくしは、誰よりも殿下をお慕いしております。幼い頃から、ずっと。今も、これからも変わりません」


 涙が一粒、頬を伝った。

 エレノアは拭わなかった。


「この気持ちだけは、誰にも負けません」


 シルビアは目を伏せた。

 見ていられなかった。

 その想いの前で、自分はあまりにも空だった。


 レオンハルトはしばらく何も言わなかった。


 沈黙が長く続く。


 やがて、彼は静かに口を開いた。


「ありがとう」


 その声は、ひどく優しかった。

 だからこそ、次に来る言葉が分かってしまった。


「君の気持ちは、ありがたいと思っている」


 エレノアの瞳が揺れる。


「でも、応えられない」


 短い言葉だった。


 エレノアの顔から、血の気が引いていく。


「……どうして」


 掠れた声。

 レオンハルトは目を逸らさなかった。


「僕の気持ちは、変わらない」


 その言葉は、穏やかだった。

 それでも、残酷だった。


「僕は、セリーヌ嬢を想っている」


 シルビアの胸が強く鳴った。


 エレノアがゆっくりとシルビアを見る。

 その目には、憎しみだけではなかった。


 痛み。

 屈辱。

 どうしようもない悲しみ。

 それらが混ざっていた。


「……ひどい」


 小さく、彼女は言った。

 誰に向けた言葉か分からなかった。


 レオンハルトへか。

 シルビアへか。

 それとも、自分自身へか。


「どうして、あなたなの」


 シルビアは何も返せなかった。


 エレノアは唇を噛んだ。

 涙がまた落ちる。


「わたくしの方が、ずっと……」


 最後まで言えなかった。

 彼女は背を向ける。

 そして、足早に温室を出ていった。


 扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。

 温室には、二人だけが残される。


 シルビアはしばらく動けなかった。


「……追わなくてよろしいのですか」


 ようやく出た声は、小さかった。

 レオンハルトは彼女を見る。


「追えば、もっと傷つける」

「ですが」

「今の僕ができるのは、これ以上期待させないことだ」


 静かな答えだった。


 正しい。

 おそらく、正しい。


 それでも、シルビアの胸には重いものが残った。

 エレノアは本気だった。

 幼い頃から、ずっと彼を想っていた。

 その気持ちは、シルビアの演技よりずっと確かなものだった。

 それなのに、選ばれたのはこちらだった。

 選ばれる資格があるのかどうかも分からない自分が。


「……わたくしは」


 声がうまく続かなかった。


「セリーヌ嬢、今、君は何を考えている?」


 シルビアは答えられなかった。


「……分かりません」


 気づけば、そう言っていた。


 レオンハルトの目が少しだけ揺れる。

 シルビアは俯いた。


「ブランシュ様は、本当に殿下をお慕いしておられました。それなのに……」


 言葉が止まる。

 言ってはいけない気がした。

 けれど、もう止められなかった。


「わたくしが、殿下のお傍にいてよろしいのでしょうか」


 温室が静まり返る。


 その言葉は、演技ではなかった。


 レオンハルトはしばらく黙っていた。

 それから、ゆっくりと近づく。

 シルビアは逃げなかった。

 彼は手を伸ばしかけて、途中で止めた。

 触れていいか迷ったようだった。

 その迷いが、シルビアの胸に残る。


「僕が傍にいてほしいと思っている。それだけでは、足りない?」


 シルビアは顔を上げた。


 蒼い瞳が、まっすぐこちらを見ている。


「僕は、君を選んだ」


 静かな声だった。


「エレノア嬢の気持ちが本物でも、僕の気持ちが変わるわけではない」

「でも」

「長く想われたから応える、というものではないよ。彼女の気持ちを軽く見ているわけじゃない。傷つけたことも分かっている。それでも、僕は嘘を返せない」


 シルビアは黙って聞いていた。


「僕が今、見ているのは君だ」


 その言葉が、まっすぐ心に届く。

 温室で泣きながら去っていったエレノアの背中より、今の言葉の方が胸に深く残ってしまう自分がいた。


 それが、怖かった。


「……わたくしには、どうすればよいのか分かりません」


 正直な言葉だった。

 レオンハルトは少しだけ息を吐いた。


「今すぐ分からなくていい」


 シルビアは目を伏せる。


「僕は、急がせたいわけじゃない」


 そう言いながら、彼は小さく笑った。


「本当は、急ぎたいけれど」


 その冗談めいた一言に、シルビアはわずかに顔を上げた。

 レオンハルトの表情は穏やかだった。

 けれど、その奥にはまだ苦しさがある。


「でも、君が分からないなら、分かるまで待つ」


 シルビアは何も言えなかった。

 そして、ゆっくりと息を吸った。


「……少し、一人にしてください」


 レオンハルトはすぐには答えなかった。

 やがて、静かに頷く。


「分かった。教室には戻れる?」

「はい」

「無理なら、呼んで」


 シルビアは小さく頷いた。

 レオンハルトは温室を出ていく。

 温室にはシルビア一人になった。


 彼女は白い花を見つめた。


 勝った。

 選ばれた。

 少なくとも、そう思えなかった。

 ただ、自分では扱えないものが、またひとつ増えた。


 温室の外では、昼休みの終わりを告げる鐘が鳴っていた。




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