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人形劇 〜悪役令嬢を演じさせられた少女は王子を翻弄する〜  作者: のぎこ


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36. 空になった皿

 



 料理長は、皿を見るのが嫌いだった。

 正確には、食堂から戻ってくる皿を見るのが嫌いだった。


 厨房には、毎日決まった時間に食器が下げられてくる。

 皿は順に作業台へ並べられる。残った肉。

 崩された野菜。

 ひと口だけつけられたソース。

 形を保ったまま冷えたパイ。


 それを見るたび、料理長は胸の奥を少しだけ沈ませた。


 もちろん、貴族の食卓とはそういうものだと知っている。


 彼らは量よりも見た目を重んじる。

 食べることより、食卓にふさわしくあることを大事にする。

 夫人も公爵も、食事を残すからといって料理を軽んじているわけではない。


 そう自分に言い聞かせてきた。


 けれど、自慢の肉料理が半分以上残された皿を見るたびに、やはり少しだけ悲しかった。


 その日も、夕食の皿が戻ってきた。


 料理長は一枚ずつ確認する。


 公爵の皿には、肉が少し残っていた。

 公爵夫人の皿には、野菜がほとんど手つかずで残っている。

 アシュレイの皿は、付け合わせの野菜が残っている。


 いつものことだった。

 料理長は何も言わず、次の皿を見た。


 空の皿だった。


 アルヴェール公爵家に迎えられた養女のもの。

 名前はセリーヌと聞いている。

 料理長は、その少女を一度だけ遠目に見たことがあった。


 金の髪。

 青い目。

 冷ややかな顔。

 歩き方にも、視線にも、貴族らしい傲慢さがあった。

 養女だと聞いていたが、あの態度だけを見れば、長く高位貴族として育った令嬢のようだった。


 きっと残すだろう。


 料理長はそう思っていた。

 むしろ、ほとんど手をつけないかもしれない。


 だけど、何も残っていなかった。


 肉も、野菜も、付け合わせの豆もない。

 ソースも、パンでぬぐったのか、皿の上には薄い跡しか残っていなかった。


 料理長はしばらく黙った。


「……これは、セリーヌ様の皿か」


 近くにいた下働きの少年が頷く。


「はい。そうです」


 料理長はもう一度、皿を見た。

 綺麗だった。

 料理人にとって、空になった皿ほど雄弁なものはない。


 その日は、偶然かもしれないと思った。


 腹が空いていただけかもしれない。

 珍しかっただけかもしれない。

 あるいは、作法を知らずに食べ尽くしてしまったのかもしれない。


 だが、翌日も同じだった。

 その次の日も。

 さらに、その次の日も。

 シルビアの皿は、いつも綺麗に空になって戻ってきた。


 スープの器には、具ひとつ残っていない。魚料理の皿には、骨だけがきちんと寄せられている。デザートの皿には、果実の汁の跡さえほとんどない。


 料理長は、いつの間にか彼女の皿を待つようになっていた。


 食器が戻ってくる時間になると、作業の手を少しだけ早める。

 皿の山の中から、シルビアのものを探す。

 そして空になった皿を見つけるたび、胸の奥が静かに温かくなった。


 大げさなことではない。

 ただ、食べてくれる。

 それだけだった。

 けれど、それが嬉しかった。


 ある日の昼食に、料理長は仔牛の肉料理を出した。


 香草と赤葡萄酒のソースで煮込んだもので、火加減には特に気を遣った。

 肉は柔らかく、けれど崩れすぎない。付け合わせの根菜も、甘みが出るまで丁寧に火を通した。


 自信があった。

 だが、自信がある料理ほど、戻ってくる皿を見るのが怖い。

 食後、皿が下げられてきた。


 公爵夫人の皿には、やはり半分ほど残っていた。

 公爵の皿も、肉は少し残っている。アシュレイの皿は付け合わせの根菜がほとんど残っていた。


 そして、シルビアの皿。

 綺麗だった。

 肉も、付け合わせもない。

 ソースまで、ほとんど残っていなかった。


 料理長はその皿を見て、しばらく動かなかった。

 胸の奥で、何かがこみ上げる。


 聞いてみたい。

 ふと、そう思った。


 どのような味だったのか。何が良かったのか。

 何か足りなかったのか。


 普段なら、貴族に料理の感想など聞かない。

 料理人は厨房にいて、食べる者は食堂にいる。

 その距離は、決して近くない。


 けれど、その日は足が動いた。

 食後の廊下で、料理長はシルビアを見つけた。


 彼女は一人で歩いていた。


 背筋はまっすぐで、表情には隙がない。

 近づくほど、遠目に見た時と同じ冷たさがはっきりと感じられた。


 料理長は足を止め、頭を下げる。


「セリーヌ様」


 彼女が振り向いた。

 青い目が、静かに料理長を捉える。


「何かしら」


 声は冷たかった。

 それだけで、料理長は少し怯んだ。


 やはり、話しかけるべきではなかったかもしれない。

 けれど、ここまで来てしまった。


「本日の昼食について、少しお伺いしてもよろしいでしょうか」


 セリーヌは眉ひとつ動かさなかった。


「昼食?」

「はい。仔牛の煮込みでございます」


 彼女は少しだけ考えるように視線を落とした。

 それから、淡々と言った。


「肉の火入れが良かったわ」


 料理長は視線を上げた。


「柔らかいのに、形が崩れていませんでした。ソースも重すぎず、香草の香りが先に来て、そのあとに葡萄酒の甘みが残りました」


 言葉は滑らかだった。

 冷たい声のままなのに、内容は驚くほど細かい。


「付け合わせの根菜も、甘みが出ていました。ただ、ひとつだけ」


 料理長は思わず背筋を伸ばした。


「はい」

「豆は、もう少し塩を控えてもよろしいかと。塩味が強く感じました」


 料理長は黙った。

 胸の奥が、大きく跳ねた。

 彼女は、食べている。

 ただ皿を空にしているだけではなかった。

 味わっている。

 肉も、ソースも、付け合わせも、それぞれをきちんと見ている。


「それから」


 セリーヌは続けた。


「朝のスープは、昨日のものより今日の方が良かったわ。香草が控えめで、野菜の甘みがよく分かりました。パンは少し焼きが強かったけれど、わたくしは嫌いではありません」


 料理長は返事を忘れた。


 彼女はさらに、前日の魚料理についても触れた。

 皮の焼き目。

 レモンの量。

 添えられた葉野菜の苦み。


 どれも的確だった。


 貴族の令嬢が、料理人に社交辞令として告げる言葉ではなかった。

 味わって食べた者の感想だった。


「余計なことを申し上げたかしら」

「とんでもございません」


 料理長は慌てて頭を下げた。

 声が少し大きくなった。


「大変、参考になります」


 セリーヌは少しだけ目を細めた。


「そう。……では、失礼」


 セリーヌはそのまま歩き出す。


 彼女の背が廊下の角を曲がって見えなくなるまで、料理長はそこに立っていた。

 厨房へ戻ると、下働きの少年が不思議そうに見上げた。


「料理長?」


 料理長は答えなかった。

 ただ、両手を強く握った。

 胸の奥が、落ち着かないほど熱い。

 飛び上がりそうだった。


 あの方は、食べてくださる。

 味わってくださる。

 覚えていてくださる。


 その日から、料理長の仕事は変わった。


 もちろん、今までも手を抜いたことはない。

 アルヴェール公爵家の食卓に出す料理である。

 どの皿にも、誇りを持っていた。

 だが、張り合いが違った。


 今日はセリーヌ様がどう感じるだろう。

 この香草は強すぎないか。

 このソースなら、パンで最後まで食べていただけるだろうか。

 魚は、もう少し皮を香ばしくしてもいいかもしれない。


 考えることが増えた。

 不思議なことに、それは苦ではなかった。

 むしろ、楽しかった。


 料理長は何度も試作を重ねた。

 下働きたちは、最近の料理長は目の色が違うと噂した。

 実際、腕は上がった。

 以前よりも味の輪郭がはっきりした。

 塩の置き方も、ソースの重さも、皿全体のバランスも変わった。


 数日後、夕食にパイ包みのスープを出した。


 香味野菜と鶏の出汁を丁寧に取り、きのこと細かく刻んだ肉を加えた。

 器の上に薄いパイ生地をかぶせ、焼き上げる。

 食べる者が匙で割ると、香りがふわりと立ち上がるように仕立てた。


 自信作だった。


 食後、皿が戻ってきた。

 セリーヌの器は、やはり綺麗に空だった。

 パイの欠片まで残っていない。


 料理長はそれだけで十分だった。

 そう思っていた。


 しかし翌朝、廊下で公爵に呼び止められた。


「料理長」


 料理長はすぐに頭を下げる。


「はい、旦那様」


 公爵は表情の乏しい人だった。

 褒めることも、叱ることもほとんどない。

 食事に対して細かな注文を出すことも少なかった。


 その公爵が、静かに言った。


「昨夜のパイ包みのスープは良かった」


 料理長は一瞬、言葉を失った。


「……ありがとうございます」

「香りがよく、重すぎなかった」


 それだけ言うと、公爵は歩き去った。

 短い言葉だった。

 けれど料理長は、その場でしばらく動けなかった。


 厨房に戻ると、胸の奥で何かが静かに満ちていくのを感じた。

 彼女が来てから、いいことが続く。

 そんなことを、ふと思った。


 屋敷の使用人たちの多くは、シルビアを警戒していた。


 冷たい令嬢。

 高慢な養女。

 公爵夫人のお気に入り。

 何を考えているか分からない少女。


 そんな声を、料理長も聞いたことがある。


 否定はしなかった。

 たしかに、彼女の言葉は冷たい。

 表情も近づきがたい。

 廊下ですれ違っても、柔らかく笑いかけてくることはない。

 けれど、料理長は知っている。


 彼女は皿を残さない。

 食べ物を粗末にしない。

 そして、出された料理をきちんと覚えている。


 それだけで、料理長には十分だった。


 その日も、厨房では湯気が上がっていた。


 鍋の中でソースが静かに煮詰まり、焼き台では肉が香ばしい音を立てている。

 料理長は味を見て、少しだけ塩を足す。


 それから、手を止めた。


 今日の一皿は、セリーヌ様にどう届くだろう。

 そう考えると、自然に背筋が伸びた。


 素晴らしい一品を、彼女へ。


 料理長は静かに息を吸い、再び鍋へ向かった。




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