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人形劇 〜悪役令嬢を演じさせられた少女は王子を翻弄する〜  作者: のぎこ


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35. 朝焼けの温度差

 


 朝の学園は、まだ人の気配が薄かった。


 校門の前に馬車が止まる。

 石畳には夜の湿り気が残り、植え込みの葉先に小さな露が光っていた。

 空は淡く明け始めている。

 校舎の窓には、低い朝日が斜めに差していた。


 先に降りたアシュレイは、扉の前で一度だけ振り返った。


「俺は職員室に寄る」


 それだけを告げる。


 担任教師に頼まれた資料の準備があるらしい。

 普段より早い登校になったのは、そのためだった。


 シルビアは馬車から降り、乱れた髪を指先で軽く整えた。


「いってらっしゃいませ」


 短く返す。


 それ以上、言葉は続かなかった。

 アシュレイはすぐに視線を逸らした。

 昨夜の会話が、まだ互いの間に残っている。


 ――お前が恋をしているようには見えない。


 その一言は、思いのほか深く引っかかっていた。

 シルビアは顔を上げる。

 表情を整えるのは、もう癖になっていた。


 その時、校舎へ続く道の先に二人の後ろ姿が見えた。


 レオンハルトとカイルだった。


 二人は並んで歩きながら、何かを話している。

 まだ登校する生徒が少ないせいで、その姿はすぐに分かった。


 シルビアは小さく息を吸った。

 避けるのは不自然だった。

 今のセリーヌなら、自分から近づく。


 公爵夫人の声が、頭の奥で蘇る。


 想い人を見つけた時、まず足が止まるの。

 それから、嬉しさに負けたように近づきなさい。

 声は甘く。

 けれど、慎みは捨ててはいけないわ。

 触れるなら、偶然のように。

 でも、相手には絶対に偶然ではないと分からせるの。


 シルビアは歩き出した。

 ほんの少しだけ歩幅を速める。

 アシュレイが、後ろでわずかに足を止めた気配がした。


 気づいている。

 だが、今は振り返らない。


 シルビアは二人の背中へ近づいた。

 朝の光の中で、レオンハルトの金髪が淡く光っている。

 その横で、カイルが何かを言って笑った。


「……殿下」


 柔らかく呼んだ。

 レオンハルトが振り返る。

 その瞬間、彼の蒼い瞳がはっきり揺れた。


 シルビアは、そこで足を止めた。

 すぐに近づききらない。


 少し離れた場所で、想い人と目が合ったことに戸惑うように、長い睫毛を伏せる。

 それから、顔を上げた。


「おはようございます」


 声は、昨夜何度も練習した通りに出た。

 けれど、昨日までより少し深い。

 ただ甘いだけではない。

 見つけられて嬉しい。

 でも、その嬉しさを隠しきれないことが恥ずかしい。

 そう見えるように。


 レオンハルトは一拍遅れて口を開いた。


「……おはよう、セリーヌ嬢」


 声が少し低い。

 カイルが横で目を細めた。


「朝からすごいものを見ましたね」


 シルビアはカイルへ視線を向けた。

 その瞬間、柔らかさをすっと消す。


「ヴァレンティン様も、おはようございます」

「はい、おはようございます」


 カイルは軽く笑う。


「今の一瞬で、殿下との扱いの差がよく分かりました」


 シルビアは淡く微笑んだ。


「差をつけたつもりはありませんわ」

「では、無意識ですか」

「どう受け取るかは、ご自由に」


 短く返す。

 カイルは楽しそうに肩をすくめた。


 シルビアは、再びレオンハルトへ向き直った。


「こんなにお早い時間にお会いできるとは思いませんでした」


 一度、そこで言葉を切る。

 視線を伏せる。

 そして、少しだけ近づいた。


「……少し、嬉しいです」


 レオンハルトが硬直する。

 そして、カイルの表情が明らかに面白がるものへ変わる。


「殿下?」


 カイルが声をかける。

 レオンハルトはようやく瞬きをした。


「……大丈夫だ」

「何も聞いていませんよ」

「うるさい」


 そのやり取りを聞きながら、シルビアはさらに一歩近づいた。

 今度は、レオンハルトのすぐ前で止まる。


 近すぎない。

 けれど、袖に指先を伸ばせば触れられる距離。


 公爵夫人の指導を思い出す。


 触れる時は、ためらいなさい。

 ためらった末に、少しだけ触れるの。

 それが一番効くわ。


 シルビアは指先をほんの少し動かした。

 それから、ためらうように引く。

 そして、そっとレオンハルトの袖口を摘まんだ。


「殿下は、生徒会のご用事ですか?」


 レオンハルトの視線が、自分の袖へ落ちる。

 そして、そこに添えられたシルビアの指先を見たまま、数秒動かなかった。


「……うん」


 返事が遅れた。


「会計の帳簿を、少し確認しに行くところだよ。大した量じゃない」


 カイルが続ける。


「私は庶務の方で、先生から預かった連絡文書を整理する予定です。生徒会役員同士の部屋が近いので、途中まで一緒だったんですよ」

「そうでしたの」


 シルビアはカイルへは短く返し、すぐにレオンハルトへ視線を戻した。


「朝からお忙しいのですね」

「忙しいというほどではないよ」


 レオンハルトはようやく袖から視線を戻した。


「少し早く来れば済む程度だから」

「それでも」


 シルビアは袖を摘まむ指に、ほんの少しだけ力を込めた。


「ご無理はなさらないでくださいませ」


 レオンハルトの喉が、小さく動いた。

 シルビアはすぐに指を離した。

 今さら自分の行動に気づいたように、手を引く。


「……申し訳ありません」


 目を伏せる。


「朝から、出過ぎたことを申しました」


 沈黙が落ちた。

 長くはない。

 けれど、朝の冷えた空気の中で妙にはっきりと残る沈黙だった。

 レオンハルトは片手を口元へ当て、わずかに顔を逸らした。

 耳が赤い。


「いや」


 声が掠れている。


「心配してくれて、ありがとう」


 カイルが片手で口元を押さえた。


「殿下、今のはかなり効きましたね」

「黙ってくれ」

「事実を申し上げただけです」

「なお悪い」


 シルビアはカイルの方へ視線を向けた。


「ヴァレンティン様は、朝からよくお話しになりますのね」

「それだけが取り柄です」


 シルビアは薄く笑った。


「あら。……まるで鶏ね」


 カイルは一瞬黙り、それから小さく吹き出した。


「ご希望であれば、鶏の真似でもいたしましょうか?そこそこ上手いんですよ」

「結構ですわ」


 冷えた目線を送り、微笑みを消す。

 カイルは笑顔でレオンハルトに視線を向ける。


「殿下、彼女は本当にあなたにだけに甘いですね」


 レオンハルトは返事をしなかった。

 ただ、シルビアを見ている。

 その表情は、嬉しさを隠しきれていない。

 けれど、そこに少しだけ別の色が混じっていた。


 作られていると、おそらく彼は分かっている。

 それでも、受け取っている。


 そのことが、シルビアには分からなかった。


 シルビアは胸の前で指先を重ねた。


「そういえば」


 少し声を落とす。


「親睦会のこと、きちんとお礼を申し上げられていませんでした」


 レオンハルトの表情が静かになる。


「礼?」

「はい」


 シルビアは一度、目を伏せる。

 それから、ゆっくりレオンハルトを見る。


「最初の一曲に選んでいただいたこと、とても光栄でした」


 言葉は丁寧に。

 だが、ただの礼にならないように。

 少し息を含ませる。


「それに……」


 言葉を止める。

 言うべきか迷っているように。

 けれど、言わずにはいられなかったように。


「殿下が、わたくしを支えてくださったことも」


 レオンハルトの瞳が揺れる。


 あのダンスの最後。

 わざと崩した重心を、彼は支えた。

 そのことを、二人とも覚えている。


 シルビアは目を伏せた。


「……とても、嬉しかったのです」


 シルビアはさらに声を落とした。


「わたくし、あの時から少しだけ……」


 そこで、言葉を止める。

 言い過ぎてはいけない。

 けれど、意味は残さなければならない。


「殿下のことを、特別に思っております」


 レオンハルトが息を呑んだ。

 数秒後、彼は片手で顔を覆った。


「……朝から、それは、心臓に悪い」


 カイルが小さく頷いた。


「同感です。横で聞いているだけでも威力があります」


 シルビアは小さく首を傾げた。


「わたくし、何かおかしなことを申し上げましたか?」

「おかしくはない」


 レオンハルトは顔を覆ったまま答える。


「だから困る」

「困らせるつもりはありませんでした」


 これは本当だった。

 少なくとも、困らせることが目的ではない。


 動揺させること。

 惹きつけること。

 愛しているように見せること。


 そう命じられているだけだ。


 シルビアは少しだけ不安そうに視線を揺らした。


「ご迷惑でしたか?」


 レオンハルトがすぐに手を下ろす。


「まさか」


 返答は早かった。

 その早さに、シルビアは胸の奥が静かに冷えるのを感じた。


「迷惑なわけがない」


 レオンハルトは真っ直ぐに言った。


「ただ、君が急にこんなふうに近づいてくるから、追いつかないだけだ」


 シルビアは一瞬だけ黙った。

 それから、薄く頬を染めるように息を落とす。


「……良かったです。わたくしの気持ち、忘れないでくださいませ」


 レオンハルトが固まった。

 今度こそ、完全に。

 カイルが肩を震わせた。


「生きてます?」

「……っ、うるさい」


 そして、レオンハルトは深く息を吐いた。


「君は本当に、どうしてそういうことを……」

「殿下?」

「いや」


 彼は少し困ったように笑った。


「何でもない」


 その時、少し離れた場所から低い声がした。


「……随分と変わったな」


 アシュレイだった。

 シルビアはゆっくり振り返る。


 彼は表情をほとんど動かさないまま、こちらを見ている。

 灰色の瞳は冷えていた。


「何がでしょう」

「少し前まで、殿下を避けていただろう」


 言葉は短い。

 責めるというより、事実を置いただけの声だった。


 シルビアは微笑んだ。

 レオンハルトへ向けていたものとは違う、隙のない笑み。


「人の心は変わるものですわ」

「そうか」


 アシュレイはそれだけ言った。

 信じていない顔だった。

 カイルがその空気を察したのか、軽く咳払いをする。


「そろそろ行きましょうか。殿下も、私も、それぞれ用事がありますし」

「そうだね」


 レオンハルトはようやく視線を外した。

 そして、もう一度シルビアを見る。


「教室でまた」


 シルビアは静かに礼をした。


「ええ。また後ほど」


 レオンハルトはまだ名残惜しそうにこちらを見ていた。

 けれど、カイルに促されるように歩き出す。

 二人の後ろ姿が校舎の奥へ消えていくまで、シルビアは動かなかった。


 背中に、アシュレイの視線を感じる。

 冷えた視線だった。


「……行くぞ」


 彼が言った。


「ええ」


 シルビアは歩き出す。

 アシュレイは隣に並ばず、少し後ろを歩く。


 それが、この二人の距離だった。


 会話はなかった。


 シルビアは、先ほどレオンハルトの袖に触れた指先をそっと握った。

 今の振る舞いは、間違っていなかったはずだ。

 声も、視線も、触れる間も。

 昨夜、何度も直された通りにできた。


 レオンハルトは動揺していた。

 ならば、成功だ。

 そう考える。

 考えなければならなかった。


 後ろで、アシュレイが足を止めた。

 シルビアは気づかずに歩いていく。


 彼はその背を見ていた。


 甘い声。

 伏せる視線。

 ためらう指先。

 不安そうな目。

 そして、決定的な言葉を置く間。


 どれも自然だった。


 少なくとも、周囲の者にはそう見えるだろう。

 けれど、アシュレイには引っかかった。

 自然に見えるほど整っている。


 迷いも、照れも、衝動も、すべてが決められた位置に置かれている。


 恋をしているからそうなるのではない。

 恋をしている者ならこうする、と知っているからそうしている。


 そんなふうに見えた。


 アシュレイは目を細める。

 朝の光は柔らかかった。

 だが、胸に残ったものは晴れなかった。


 シルビアは振り返らない。

 その背筋は、いつものようにまっすぐだった。




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