34. 待ち伏せ
その日の演技指導が終わった頃には、夜がすっかりふけていた。
鏡の部屋を出たシルビアは、静かに長い廊下を歩く。
屋敷の中はひどく静かだった。
窓の外には淡い月明かり。
足音だけが、やけに大きく響く。
今日は特に、公爵夫人の熱量が凄まじかった。
「今の想いの伝え方は完璧だったわ」
「もっと蕩けるように微笑んでみて」
「次はお礼とともに頬にキスする場面よ」
思い出すだけで胃が重い。
シルビアは小さく息を吐いた。
すると、その時だった。
「……また随分と遅いな」
低い声が、廊下に響く。
シルビアが声の方へ視線を向ける。
腕を組んで壁にもたれて立っていたのは、アシュレイだった。
黒髪の下の灰色の瞳が、静かにこちらを見ている。
「ごきげんよう」
シルビアは即座に、いつもの高慢な微笑を貼りつけた。
「いつからそこで廊下にいましたの?不審ですわね」
だが、アシュレイは鼻で笑うだけだった。
灰色の瞳が細められる。
「最近、いつもあの奇妙な部屋にいるだろ」
シルビアの肩がわずかに強張る。
「それが、何か?」
「あんな気味の悪い部屋に入り浸るなんて、お前も母上も正常とは思えない」
アシュレイはゆっくりと、壁にもたれた身体を起こした。
「……話がある。来い」
短く告げ、そのまま歩き出す。
シルビアは一瞬だけ拒否するか、迷った。
けれど逆らえる空気ではなかった。
静かに後をついていく。
***
通されたのは、アシュレイの私室だった。
入るのは初めてだ。
部屋は驚くほど簡素だった。
余計な装飾はほとんどない。
黒を基調にした家具。
整然と並ぶ本棚。
机の上には剣術書と数冊の資料だけ。
冷たい。
けれど、不思議と落ち着く空間だった。
「座れ」
促され、シルビアはソファへ腰掛ける。
アシュレイは向かいへ座った。
やがて、灰色の瞳が真っ直ぐシルビアを捉えた。
「お前、最近母上と何してる」
単刀直入だった。
シルビアは涼しい顔で首を傾げる。
「お話をしているだけですわ」
「毎日、夜遅くまでか?」
追及するような声音。
シルビアは冷ややかに応える。
「親子の時間など、どこの家にもあるでしょう?」
するとアシュレイが、眉を寄せた。
「……母上は、お前が来てから変わった。……悪い方向に」
シルビアの呼吸が、ほんの少し止まる。
アシュレイは窓の外へ視線を向けたまま、低く続けた。
「それなのに、最近の母上は前より妙になった。何かに夢中になっているみたいに……」
その言葉に、シルビアは何も返せなかった。
否定できない。
実際、公爵夫人は最近どこかおかしい。
以前から異質ではあった。
けれど今は、まるで熱に浮かされているようだった。
「……ただ」
アシュレイが小さく息を吐く。
「前みたいな気味の悪さはない。むしろ楽しそうだ」
シルビアは指先をそっと握った。
公爵夫人は、確かに楽しそうだった。
シルビアに恋する演技をさせる時だけ、異様なほど生き生きとしている。
「それで、お前は何を考えてる」
「……何のことかしら」
「殿下のことだ」
空気が、わずかに張る。
「急に態度を変えた」
灰色の瞳が、鋭く細められる。
「少し前までは、あれだけ拒絶してたくせに、今は完全に恋する女みたいな顔をしてる」
シルビアの心臓が、小さく跳ねた。
「周囲を騙して、何を企んでる」
低く、探るような声音。
シルビアは一瞬だけ言葉に詰まる。
だが、すぐにセリーヌの微笑を作った。
「企む、なんて……」
そして、ゆっくりと目を伏せる。
「殿下にあれほど甘く見つめられたら、誰だって好きになってしまいますわ」
公爵夫人に教え込まれた、恋を自覚した令嬢の顔。
ほんの少し頬を染め、照れたように視線を逸らす。
完璧な演技。
けれど、アシュレイは黙ったままだった。
灰色の瞳がじっとシルビアを見る。
まるで、仮面の奥を探るように。
やがて彼は低く呟いた。
「……やっぱり分からないな。お前が恋をしてるようには見えない」
その一言に、空気が止まった気がした。
灰色の瞳は逸れなかった。




