33. 恋する役の練習
放課後。
シルビアは、公爵夫人に呼ばれて、鏡の部屋を訪れていた。
重たい扉を開けた瞬間、甘い花の香りがふわりと鼻をくすぐる。
部屋に置かれた無数の姿見。
燭台の柔らかな灯り。
そして中央には、長椅子へ腰掛けた公爵夫人の姿があった。
シルビアは小さく目を瞬かせる。
どこかとは分からないが、いつもと何かが違う気がした。
「来たのね、セリーヌ」
公爵夫人がゆっくり顔を上げる。
その青い瞳は、妙に艶めいていた。
「今日は、より実践的な指導をするわ」
「……実践的?」
嫌な予感がした。
公爵夫人は立ち上がると、優雅に歩み寄る。
「恋をしている女は、ただ甘い顔をするだけでは足りないの。視線、距離、触れ方、間、全部が重要よ」
やけに熱がこもっている。
以前までは、嫌われるための演技だった。
指導も冷静で、どこか分析的だった。
けれど今は違う。
公爵夫人は完全に熱中していた。
「さあ、こちらへ」
公爵夫人がシルビアへ片手を差し出す。
「わたくしが殿下役をするわ。さあ、始めるわよ」
有無を言わせない笑顔だった。
***
「まずは、大好きな殿下へ自然に触れるところからよ。殿下がお疲れの場面を想像なさい。そこであなたは、恋人として寄り添うの」
シルビアは静かに息を整えると、公爵夫人の隣へ腰掛けた。
「……殿下」
心配そうに眉を下げて、公爵夫人を見つめる。
「お疲れなのではありませんか?」
公爵夫人の肩がぴくりと震えた。
「……続けて」
「少し、お休みになってくださいませ」
シルビアはそっと気遣うように、公爵夫人の袖へ触れる。
すると、公爵夫人は素早く扇広げて、口元を隠した。
「あの?」
「……今の、とても良かったわ」
声が少し掠れている。
「もっと見つめて。愛する相手を見るみたいに」
シルビアは戸惑いながらも、公爵夫人を愛おしく見つめる。
そして、恥ずかしそうにはにかみ、柔らかく微笑む。
「……殿下」
次の瞬間、公爵夫人が深く息を飲んだ。
「っ……」
明らかに様子がおかしい。
シルビアは不安になった。
「お、お母様?」
「……素晴らしいわ」
うっとりした声だった。
「今の表情、とても良い……」
「そ、そうですか」
公爵夫人は頬へ手を添えながら、熱っぽく呟く。
「ヒーロー視点だと、こんなにも破壊力があるのね……」
***
それから指導は、さらに悪化した。
「今度は、見つめられて照れる場面」
「はい」
「次は、抑えきれない嫉妬を隠して微笑む場面」
「嫉妬……」
「もっと切なそうに」
「……」
「良いわ……!」
公爵夫人の熱量が高すぎる。
それから、言われるがまま演技して、夜がふけていった。
「今の目を伏せる速度、とても良かった」
「はい」
「もう一回、みたいわ」
「……はい」
「身体に落とし込むために、あと五回は繰り返しましょうか」
増えた。
シルビアは内心で遠い目になる。
だが、公爵夫人は止まらない。
「次は、好きと言われて想いを返す場面よ」
「もう遅い時間ですけど、まだ続けるんでしょうか?」
「当然でしょう」
きっぱり返された。
公爵夫人は完全に乗り気だった。
「ほら、セリーヌ。殿下役のわたくしを見て」
「……はい」
シルビアは静かに顔を上げる。
すると公爵夫人が、妙に真剣な顔で低く囁いた。
「君が好きだ」
シルビアは反射的に、教え込まれた反応を返した。
目を見開く。
呼吸を止める。
それから、感激のあまり目を潤ませ、頬を染める。
「……そんなこと、わたくし……」
一度目を伏せて、再び公爵夫人を潤んだ瞳で見つめる。
「……わたくしもお慕い申し上げますわ」
沈黙。
そして――。
「…………っ」
公爵夫人が、その場で崩れ落ちた。
「お母様!?」
「無理よ……!」
顔を覆いながら震えている。
「こんなの、ヒーロー側が耐えられるわけないじゃない……!」
シルビアは完全についていけなかった。
なぜか、公爵夫人が一人でダメージを受けている。
「お、お母様……?」
「セリーヌ、なんて素晴らしい……」
うっとりとした目で見上げられる。
「もっと見たいわ……。もっと恋する顔を見せて」
青い瞳が熱っぽく細められる。
その視線に、シルビアは困惑した。
ここ最近、公爵夫人は明らかにおかしい。
けれど、逆らう選択肢などない。
だからシルビアは、静かに息を整えると、再び恋するセリーヌを演じ始めた。




