31. 特別扱い
昼休み前の鐘が鳴った瞬間、教室の空気が、ふいに緩む。
教師が出ていくより早く、椅子を引く音が重なった。
教科書を閉じる音。
小さな話し声。
その中で、数人の令息がほとんど同じタイミングでシルビアの席へ近づいてきた。
「セリーヌ嬢、少しお時間をいただけませんか」
「放課後、ご一緒できませんか」
「次のダンスの授業、ぜひ組んでいただきたい!」
声が次々に重なる。
彼らは以前のように遠巻きではなかった。
机の前に立ち、控えめな笑みを浮かべながらも、距離を詰めてくる。
令息たちの目は、春季親睦会の後から明らかに変わっていた。
王子のファーストダンスの相手。
しかも、そのダンスは国王夫妻にまで褒められた。
養女という立場を差し引いても、今のセリーヌ・アルヴェールは、学園中で最も目を引く令嬢の一人になっていた。
対照的に、少し離れた場所では、令嬢たちがこちらを見ている。
声をかけてくる者はいない。
けれど、視線はあった。
羨望。
嫉妬。
警戒。
そんな視線の中、ぴしゃり、と冷たく言い放つ。
「申し訳ありませんわ。わたくし、忙しいの」
声は硬く、よく通るように整えた。
それだけで、令息たちの表情がわずかに固まる。
以前なら、ここで引いたはずだった。
けれど、今は違った。
「せめて少しお話だけでも!」
「親睦会でのダンス、本当に素晴らしくて……!」
彼らは引かなかった。
熱心だった。
その熱心さが、シルビアにはかえって恐ろしかった。
恋をしているように見せる。
ただ、それだけで周囲は変わる。
今まで遠巻きにして話しかけてこなかった生徒まで、周りを囲んで熱心に話しかけてくる。
シルビアは、膝の上に置いた指をわずかに握った。
この距離を、どう戻せばいいのだろう。
そう考えた時だった。
「悪いけど、君たちには無理だと思うよ」
低く、落ち着いた声がした。
声量は大きくない。
けれど、教室のざわめきを自然に切り分けるような声だった。
令息たちが一斉に目を向ける。
人垣の外に、レオンハルトが立っていた。
彼は笑っていた。
一見、穏やかな表情だった。
だが、その蒼い瞳は少しも柔らかくなかった。
声を荒げているわけではないのに、そこにいるだけで空気が引き締まる。
王族特有の圧。
誰もが自然に身を引いた。
シルビアの席まで、道ができる。
レオンハルトはその道を真っ直ぐ歩いてきた。
視線は令息たちではなく、最初からシルビアだけに向けられている。
机の前で足を止め、彼は少しだけ視線を緩めた。
「迎えに来た」
その瞬間、シルビアの冷ややかな微笑がほどけ、恋する乙女へ変わる。
「……殿下」
甘く柔らかな声。
その変化に教室が静まり返った。
令息たちに向けていた冷たい顔と、今の顔。
その差は、誰にでも分かった。
一瞬、レオンハルトは言葉を忘れたようにシルビアを見る。
それから、嬉しさを隠しきれない顔で笑う。
「待たせた?」
「いいえ」
ほんの少し頬を染めるように、はにかむ。
令息たちの間に、息を呑む気配が走った。
誰かが小さく椅子にぶつかった音がする。
「行こうか」
レオンハルトが自然に手を差し出す。
以前なら、絶対に取らなかった。
けれど、今は違う。
シルビアは、その手に視線を送り、少しだけ迷うように睫毛を震わせた。
ためらった末に、覚悟を決めたように指を伸ばす。
そして、そっとレオンハルトの手へ指を重ねた。
彼の手は温かかった。
触れた瞬間、ほんのわずかに力が込められる。
シルビアの手を包む指は、離れる気配がなかった。
教室の令息たちが、目に見えて肩を落とした。
中には、笑みを作り損ねたまま固まっている者もいる。
令嬢たちは遠くで唇を結び、視線だけを鋭くしていた。
全部、自分がしていることだった。
自分でこの顔を作り、自分でこの手を取っている。
それなのに、胸の奥が冷える。
レオンハルトは周囲を気にした様子もなく、シルビアの手を引いて歩き出す。
二人は教室を出た。
廊下に出ると、教室のざわめきが背後に残った。
レオンハルトはちらりとシルビアを見た。
彼の口元が緩む。
それは、先ほど教室で見せた王子の顔ではなかった。
もっと無防備で、嬉しさを持て余しているような顔だった。
彼は蕩けるような笑みを浮かべる。
「本当に……君といると、初めてのことばかりだ」
嬉しくて、嬉しくて、たまらない。
そんな表情だった。
シルビアは一瞬だけ息を止める。
この顔を向けられるたび、胸の奥が冷える。
だが、止まってはいけない。
シルビアは少し照れたように目を伏せる。
「わたくしも同じですわ」
そして、甘やかに微笑んだ。
「こんな気持ち、初めてですの……」
レオンハルトが固まった。
目を開けたまま、数秒、呼吸さえ忘れたように立っている。
シルビアの手を取ったままの指が、わずかに強張った。
それから、彼は反対の手で顔を覆った。
耳まで赤くなっている。
「……すごいな、君は」
声は手のひらの奥でくぐもっていた。
「それ、分かってて言ってる?」
シルビアは首を傾げる。
「何のことでしょう」
「そういうところだよ」
レオンハルトは顔を覆ったまま、短く息を吐いた。
指の隙間から見える目元には、隠しきれない甘さがあった。
「自分がどれだけ破壊力あるか、絶対分かってない……」
レオンハルトはようやく手を下ろした。
頬にはまだ赤みが刺している。
彼は困りながらも、嬉しそうに笑った。
その瞳はどうしようもなく甘かった。
シルビアは内心で静かに息を吐く。
もっと自然に。
もっと恋しているように。
完璧に演じなければならない。




