30. 恋する演技
翌朝、シルビアはいつもより少し早く教室へ入った。
窓から差し込む朝日が、静かな室内を淡く照らしている。
まだ登校している生徒は少なく、会話をする生徒もいない。
その中で、窓際の席に座るレオンハルトがいた。
彼は何かの書類へ目を落としている。
シルビアの身体が、わずかに強張った。
昨日のことが、頭から離れない。
積み上げられた恋愛小説。
鏡の前で作った表情。
甘く落とす視線。
かすかに震わせる声。
あんなものを、今から彼へ向ける。
そう考えるだけで、胃の奥が重くなった。
けれど、やるしかない。
従わなければ、孤児院への援助が打ち切られるかもしれないのだから。
シルビアは静かに息を吸った。
その時、レオンハルトが顔を上げる。
蒼い瞳と目が合った。
「おはよう」
穏やかな声だった。
それだけで、胸がざわつく。
公爵夫人の言葉が頭に響く。
『特別扱いを徹底なさい』
『男は、自分だけに向けられた好意に弱いの』
シルビアはゆっくり微笑んだ。
ほんの少し視線を伏せ、ためらうように顔を上げる。
淡い微笑みに、わずかに熱を帯びた視線を乗せた。
「……おはようございます、殿下」
次の瞬間、ぱたり、と音がした。
レオンハルトの手から、羽根ペンが落ちた。
教室が静まる。
近くにいた数人の生徒が、驚いたようにこちらを見た。
「……殿下?」
シルビアは小さく首を傾げる。
レオンハルトは数秒遅れて、ゆっくりとペンを拾いあげる。
「……いや」
低い声が少し掠れていた。
蒼い瞳が、じっとシルビアを見つめている。
その熱に、喉がひりついた。
「どうかなさいました?」
今度は少し心配そうに。
レオンハルトは深く息を吐いた。
「いや。なんでもない」
だが、視線は逸れない。
まるで、見惚れているようだった。
シルビアは内心で静かに息を整える。
ーー効いている。
公爵夫人の言った通りだ。
もっと自然に、もっと恋するように演じなければ。
やがてレオンハルトが静かに立ち上がる。
そのまま、まっすぐこちらへ歩いてくる。
彼はシルビアの前で足を止めた。
「親睦会であまり話せなかったから、今日の昼休み、一緒に過ごさない?」
以前なら断っていた。
冷たく突き放していた。
けれど、今は違う。
シルビアは一瞬だけためらう素振りを見せた。
それから、控えめに微笑む。
「……はい。喜んで」
教室がざわめいた。
誰かが息を呑む。
レオンハルトの蒼い瞳が、はっきり揺れた。
その反応に、シルビアの胸が痛んだ。
そんなに嬉しそうな顔をしないでほしい。
そう思った。
けれど、口には出せない。
「……そう」
レオンハルトは小さく笑った。
その笑みは、今まで見たどんな顔より柔らかかった。
「楽しみにしている」
真っ直ぐに告げられた言葉。
シルビアは無意識に視線を逸らしかけて、止める。
だめ。
恋する令嬢は、そんな逃げ方をしない。
シルビアは、公爵夫人に教え込まれた通り、ほんの少し頬を染めるように息を落とした。
「……わたくしも、ですわ」
その瞬間、レオンハルトが完全に固まった。
教室の空気まで止まる。
シルビアは内心で青ざめた。
不自然だっただろうか。
だが、レオンハルトは数秒後、片手で口元を覆うようにして小さく笑った。
困ったような、けれどどうしようもなく嬉しそうな笑い方だった。
「……すごい破壊力だ」
「何のお話ですの?」
「無自覚なら、なおさら質が悪い」
熱を帯びた蒼い瞳が、ずっとシルビアを見つめている。
その視線から逃げられない。
やがて、教室へ次々と生徒が入ってくる。
そして、空気が変わった。
「え……?」
「今の見た?」
「セリーヌ嬢が……」
驚愕。
困惑。
羨望。
さまざまな感情が混ざっている。
特に男子生徒たちの視線は露骨だった。
誰にでも冷たく、高慢なセリーヌ。
誰に対しても壁を崩さない令嬢。
その彼女が、レオンハルトに向ける時だけ違う。
やわらかく笑う。
声が甘い。
視線が熱を帯びる。
その落差は、誰の目にも明らかだった。
ひそひそ声が飛び交う。
シルビアは視線の多さに、静かに息を吐いた。
周囲がどう思おうと関係ない。
今は、恋するセリーヌを完璧に演じることだけ考えればいい。
すると、不意にレオンハルトが甘く微笑んだ。
「君が、僕にだけ態度を変えてくれること……嬉しいよ」
熱を含む吐息混じりの声。
背筋がぞくりと震えた。
シルビアはゆっくり微笑む。
「当然でしょう?」
少し照れたように、けれど、甘やかに。
「殿下は、特別ですもの」
その瞬間、レオンハルトがまた黙った。
数秒後、手で顔を隠す。
「……心臓が止まりそうだ」
レオンハルトの顔は、耳まで赤かった。
演技は成功していると、そう判断する。
けれど、胸の奥が少しだけ痛んだ。
一途な想いが、自分へ向けられている。
それが演技で返されていることを、彼は知らない。
……いや、本当に知らないのだろうか。
疑惑が胸に残った。
***
ふと、レオンハルトの視線が揺れる。
何かを考えるように。
微笑み。
視線を伏せる間。
頬を染める呼吸の落とし方。
綺麗すぎる。
そんな違和感が、一瞬だけ彼の胸を掠めた。
だが、次の瞬間には、その考えを打ち消すように目を細めた。
「……可愛い」
目の前の彼女を見て、小さく声が溢れた。
音は喧騒に呑まれ、誰の耳にも届かなかった。




