29 恋の稽古
翌朝、シルビアは公爵夫人の私室へ呼ばれた。
扉を開けると、まず目に入ったのは本の山だった。
机の上にも、長椅子の脇にも、床に置かれた小卓の上にも、色鮮やかな装丁の本が積まれている。
淡い桃色。空色。金の箔押し。
背表紙には、見るのも気恥ずかしい言葉が並んでいた。
シルビアは足を止めた。
「……これは」
窓辺の椅子に座っていた公爵夫人が、ゆっくりと顔を上げる。
手には紅茶のカップがある。
表情は穏やかだった。
「教材よ」
シルビアは返す言葉を失った。
公爵夫人はカップを置き、扇で本の山を示す。
「今日から、あなたには恋を学んでもらうわ」
部屋は静かだった。
その言葉だけが、やけにはっきり響いた。
「恋を、ですか」
「ええ」
公爵夫人は当然のように頷く。
「今までのあなたは、拒むこと、嘲ること、不快にさせることを学んできた。けれど、これからは違うわ。殿下を惹きつけ、愛され、そしていずれ飽きられる。そのためには、まず恋する女にならなければならない」
シルビアは本の山へ目を向けた。
「すべて読むのですか」
「そうよ。暇さえあれば読みなさい。学園にも持っていくといいわ」
シルビアは思わず顔を上げた。
「学園にも、ですか」
「ええ。家だけでは進まないでしょう」
公爵夫人は不思議そうに首を傾げる。
シルビアは言葉を選んだ。
「……せめて、表紙が見えないようにした方がよろしいかと」
「どうして?」
「その」
シルビアは一冊の背表紙へ視線を落とした。
金文字で飾られた題名が、朝の光にきらりと光る。
「学園で、誰かに見られる可能性があります」
数秒、公爵夫人は黙った。
それから、なるほど、という顔をした。
「そうね。ブックカバーを用意させましょう」
「ありがとうございます」
シルビアは静かに頭を下げた。
ひとまず、そこだけは守られた。
そう思うことにした。
公爵夫人は立ち上がる。
「では、始めましょう」
その声は、いつもの指導の始まりを告げる声だった。
シルビアは背筋を伸ばした。
***
鏡の部屋には、すでに椅子が二脚用意されていた。
壁際に並ぶ姿見が、部屋の中央をいくつもの角度から映している。
朝の光だけが、薄く床に伸びていた。
公爵夫人は一脚に腰を下ろした。
「わたくしを殿下だと思いなさい」
シルビアは返事をするまでに、ほんの少し間が空いた。
「……はい」
「まずは呼びかけからよ。恋をしている女は、名前を呼ぶだけで空気を変えるものなの」
公爵夫人は扇を膝の上に置き、まっすぐシルビアを見た。
「さあ」
シルビアは息を整えた。
視線を伏せる。
顔を上げる。
声を少しだけ柔らかくする。
「……殿下」
「硬いわ」
即座に言われた。
「もう一度」
「……殿下」
「甘さが足りない」
「……殿下」
「今度は軽いわ」
シルビアは口を閉じた。
何が正しいのか、分からなくなる。
けれど、公爵夫人の目は真剣だった。ふざけているわけではない。
そのことが、かえって疲れを増した。
「恋しさは、言葉そのものではなく間に宿るの」
公爵夫人が言った。
「すぐに呼んではだめ。一度ためらいなさい。けれど、ためらいすぎてもいけない。相手に、今この瞬間だけ自分を見ているのだと思わせるの」
シルビアは頷く。
もう一度、目を伏せる。
少しだけ息を吸う。
そして、顔を上げた。
「……殿下」
部屋が静まった。
公爵夫人は、わずかに目を見開いていた。
しばらくしてから、扇を手に取る。口元を隠す動作が少し遅れた。
「……今のは、悪くないわ」
「そうですか」
「ええ。もう一度」
シルビアは同じように繰り返した。
声。
視線。
息の落とし方。
指先の位置。
少しでも違えば、公爵夫人は止めた。
「そこは目を伏せすぎない」
「はい」
「笑みが早いわ」
「はい」
「今の頬の緩め方は良かった。覚えておきなさい」
「はい」
返事だけが、部屋に何度も落ちた。
鏡の中に、同じ顔がいくつも並んでいる。
どの顔も、恋をしているように見えた。
シルビアだけが、それを遠くから見ている気がした。
***
昼前には、恋文の練習に移った。
机には白い便箋が置かれた。
羽根ペンとインク壺も用意されている。
公爵夫人はシルビアの背後に立ち、肩越しに紙を覗き込んだ。
「まずは、殿下への想いを書きなさい」
「想いを、ですか」
「そう。胸の奥から言葉を出すの」
シルビアはペンを握った。
胸の奥。
そこには、特に何もなかった。
それでも書かなければならない。
少し考え、紙へ文字を書いていく。
『あなたをお慕いするこの胸は、夜ごとに苦しくなって――』
「弱いわ」
即座に言われた。
シルビアは手を止める。
「弱い、ですか」
「ええ。綺麗にまとめようとしすぎている。恋文はもっと切実でなければならないの」
公爵夫人は別の紙を取り、さらさらと書き始めた。
文字は流れるように続いていく。
嵐。
蜜。
吐息。
魔法。
宝石。
そういった言葉が、次々と紙の上に並んだ。
やがて公爵夫人は満足げにペンを置く。
「こうよ」
紙を差し出される。
シルビアはそれを読んだ。
「……これを、殿下に?」
「いいえ。これは練習よ」
「そうですか」
シルビアは小さく息を吐いた。
練習でよかった。
その言葉は胸の内だけに留めた。
「次はあなたが書きなさい。もっと情熱を込めて」
「はい」
シルビアは新しい紙を引き寄せた。
情熱。
切実さ。
恋しさ。
どれも、教えられた形としてなら分かる。
だが、それが自分の中から出てくるものなのかは分からなかった。
それでも、ペンは動く。
言葉を選ぶ。
並べる。
削る。
公爵夫人が好む調子へ、少しずつ近づけていく。
「……そう。今の一文はいいわ」
背後から声がした。
「けれど、最後が弱い。もっと未練を残して」
「はい」
シルビアは書き直した。
紙の上には、恋をしている令嬢の言葉が生まれていく。
その筆跡は、自分のものだった。
午後の光が傾き始めた頃、最後の課題が告げられた。
「告白の練習をしましょう」
公爵夫人は鏡の前に立った。
シルビアは一瞬だけ目を伏せたが、すぐに姿勢を正す。
ここで嫌がることは、許されない。
「分かりました」
「今度は、言葉だけではだめ。視線、呼吸、手の動き、すべてを合わせなさい」
公爵夫人は扇を胸の前で閉じた。
「わたくしを殿下だと思って」
「はい」
シルビアは静かに息を吸った。
指先を軽く握る。
目を伏せる。
迷いを作る。
そして、決意したように顔を上げる。
「……殿下」
声はかすかに震わせた。
震えすぎてはいけない。
けれど、まったく揺れがないのも違う。
公爵夫人は黙って見ている。
「わたくしは……あなたを、お慕いしております」
言い終えた瞬間、部屋が止まった。
公爵夫人は何も言わなかった。
扇を持つ指が、少しだけ強くなる。
「……もう一度」
短く命じられる。
シルビアは頷いた。
「……殿下。わたくしは、あなたをお慕いしております」
今度は、少しだけ目を潤ませる。
顔を伏せかけて、途中で踏みとどまる。
逃げたいけれど逃げない。
そう見えるように。
沈黙が続いた。
やがて、公爵夫人がゆっくり息を吐く。
「……いいわ。今のは、とてもいい」
公爵夫人の頬に、淡い赤みが差していた。
シルビアはそれを見て、目を伏せる。
「ありがとうございます」
「完璧に近いわ。もう一度、同じように」
「はい」
また繰り返す。
同じ言葉。
同じ間。
同じ視線。
鏡の中で、恋する令嬢が何度も想いを告げている。
伏せた睫毛。
潤んだ瞳。
かすかに染まった頬。
どれも教えられた通りだった。
公爵夫人は満足げに見つめている。
「恋を知らなくても構わないわ」
ふいに、そう言った。
シルビアは顔を上げる。
公爵夫人の青い瞳は、鏡の中のシルビアを見ていた。
「あなたはただ、そう見えればいいの」
静かな声だった。
「そうすれば、誰も疑わない」
シルビアは鏡へ視線を戻した。
そこに映る少女は、確かに恋をしているように見える。
頬は淡く染まり、瞳は潤み、声の余韻まで柔らかい。
けれど胸は静かだった。
何も揺れていない。
それでも、公爵夫人は満足している。
ならば、これでいいのだろう。
シルビアはもう一度、指先を握った。
そして、鏡の中の少女と同じ顔で微笑んだ。




