3. 嫌われるための挨拶
早朝、離れの扉が開く音で、シルビアは目を覚ました。
まだ外は薄暗く、窓の向こうには冬の曇り空が広がっていた。
離れに入ってきたのは、公爵夫人と、三人の侍女たち。
シルビアは思わず身をこわばらせる。
見覚えのない顔。
この離れに、公爵夫人以外が入ってくるのは初めてだ。
侍女たちもまた、シルビアを見て、一瞬だけ動きを止める。
当然だろう。
公爵夫人がどこからか迎え入れた養女。
その噂だけが、屋敷中に広まっていたはずだ。
姿を見せないまま一年、どんな娘なのかと想像していたに違いない。
その視線には、好奇心よりも警戒が強かった。
「何をぼんやりしているの」
冷えた声が落ちる。
シルビアは、はっとして背筋を伸ばした。
「支度をなさい」
短い命令で侍女たちが動き出した。
誰も言葉を交わさない。
そこにあるのはただの作業だった。
深い青のドレスが着せられる。
髪が梳かれ、巻かれ、結い上げられる。
薄く化粧を施されている様子を、公爵夫人が鏡からじっと見つめていた。
まるで、監視されているよう。
支度が済むと、日は既に登っていた。
「立ちなさい」
シルビアは静かに立ち上がった。
鏡の中に映る少女は、自分ではない。
優しげだった目は冷たく細められ、唇には薄い嘲笑。
悪役令嬢セリーヌがそこにはいた。
「さあ、行くわ」
***
離れを出ると、冬の空気が頬を撫でた。
外の空気を吸うのが心地いい。
窓越しにしか知らなかった庭が、目の前に広がっている。
整えられた植木。
凍りついた噴水。
白く薄化粧した石畳。
外にいるという事実がこんなにも嬉しい。
けれど、その感傷は公爵夫人が目に入って消えた。
失敗は許されない。
逃げ場なんてないから、ただ前へ進むしかない。
屋敷の正面玄関の巨大な扉が開かれる。
暖かな空気が流れ、眩しいほど豪奢な大広間が現れる。
磨き抜かれた床に、高い天井、巨大なシャンデリア。
シルビアは思わず足を止めそうになった。
「前を向きなさい」
公爵夫人の囁き。
それだけで背筋が凍る。
慌てて前だけを向いて歩き出す。
廊下ですれ違う使用人たちが、ちらりと視線を向けてくる。
その目には、露骨な警戒と冷たさがあった。
胸が痛む。
けれど、それでいい。
そうしなければならない。
応接間の扉の前で、公爵夫人が足を止めた。
「ここからが本番よ」
穏やかな声。
けれど、そこに逆らう余地はない。
「わかっているわね?」
シルビアは頷いた。
失敗したら、孤児院のみんながどうなるかわからない。
扉が開く。
中にいたのは二人。
壮年の男性アルヴェール公爵と、その隣に立つ黒髪の少年アシュレイ。
彼らが、義父と義兄になる人たち。
二人の視線がシルビアへ向く。
喉が張りついた。
怖い。
だけど、表情には出さずに、シルビアは上顎を上げる。
そして、悪女としての完璧な角度で微笑む。
「ごきげんよう」
冷たく、傲慢に。
「わたくしが、この家の新たな娘になるセリーヌですわ。これからは家族としてよろしくお願いいたします」
空気が凍り、沈黙が訪れる。
公爵の眉が寄り、アシュレイがあからさまに顔をしかめる。
「……は?何を言っているんだ、お前は?」
不機嫌を孕んだ低い声に、胸がぎゅっと縮む。
でも演じるしかない。
シルビアは少しだけ首を傾けた。
「何かおかしな事を言いまして?」
アシュレイの目が鋭くなる。
「おかしいに決まってるだろ。勝手に現れて、家族だなんて、笑えない冗談も程々にしろ」
「まあ」
シルビアは馬鹿にするように鼻で笑った。
「わたくしの養子縁組は一年も前に済んだ事ですの。ですから、わたくしたちはすでに家族なんですのよ」
空気が止まる。
誰かが息を呑んだ音がした。
アシュレイの目が険しく細まった。
「……その態度、一体何様のつもりだ」
溢れんばかりの怒りを抑えきれていない声色だった。
胸の奥で激しく心臓がなっている。
まるで、危険信号のように聞こえた。
「わたくし?」
小さく首を傾げる。
「この家に迎えられた者、というだけですが」
口調は丁寧だ。
けれど、棘がある。
馬鹿にされていると思ったのだろう。
アシュレイの眉がぴくりと動く。
「ふざけるな。お前を快く迎える者なんて母上ぐらいのものだ。父上も俺も納得していない」
「それでも、わたくしは公爵家の一員なのです。現実を否定なさるのは少々お子様じみていらっしゃいますわね」
空気がさらに冷える。
言い終えた瞬間、胸の奥がずきりと痛んだ。
本当は、こんなこと言いたくない。
けれど、言わなければ。
嫌われなければ。
「なんだと!」
アシュレイが一歩踏み出すのを、公爵が止める。
「やめろ」
その視線は冷たく、シルビアに向けられていた。
そして公爵夫人へ向けられる。
「エレノーラ。これはどういうことだ」
公爵夫人は優雅に微笑んだ。
「お話ししていた養女ですわ」
「……これが?」
吐き捨てるような声音。
見事に嫌われたようだった。
それを当然と思いつつも、胸が痛かった。
アシュレイが吐き捨てる。
「俺はお前を家族とは認めない。家族面なんてするなよ」
「まあ、家族に見えないよう振る舞えと?酷いことを仰いますのね」
小さく肩をすくめる。
公爵夫人がそこでようやく口を開く。
「そこまでにしなさい」
柔らかい声。
視線が全員、夫人に向く。
彼女は微笑んでいた。
最初から最後まで何一つ変わらない顔で。
「初日ですもの。打ち解けられないのは当然よ。ただし」
空気がわずかに締まる。
「この家の秩序は理解してもらわないと困るわ」
公爵夫人はシルビアを見ずに続けた。
「彼女は養女としてここにいる。それ以上でもそれ以下でもないわ」
アシュレイは悔しそうに視線を逸らした。
決して納得はしていない。
けれど、事実だけは認めないわけにはいかなかった。
扉が開かれる。
この重苦しい時間が終わりを告げるように。
「行きましょう」
「はい、お母さま」
公爵夫人の後に続いて、顔合わせを終えた。
廊下に出ると、空気が変わった。
緊張感から解き放たれて、安堵するが、使用人の視線に再び気を引き締める。
廊下の角で、一人の使用人とすれ違う。
その使用人は、一瞬だけシルビアを見るが、あからさまに目を逸らした。
そして、公爵夫人が、ふと歩みを止める。
「今日の夜から本邸に移動してもらうわ」
「まあ、楽しみですわ」
その返事に、夫人は満足げに笑った。
「いい子ね」
***
そして、その夜。
シルビアは初めて本邸の自室へ通された。
離れではないけれど、自由とは程遠い。
一見普通に見える扉は、内側からは開かないように細工がされていた。
一人になると、シルビアは床に崩れ落ちた。
全身から力が抜ける。
うまくできた。
失敗しなかった。
それなのに、どうしてこんなに苦しいのだろう。
思い出すのは、アシュレイの嫌悪に満ちた目。
感情を削ぎ落とした公爵の冷たい声音。
使用人たちの警戒した視線。
誰も彼もみんな、自分を嫌っている。
当然だ。
そうなるように振る舞ったのだから。
ぽろり、と涙が落ちる。
慌てて拭う。
泣いてはいけない。
そう言い聞かせながら、ベッドへ潜り込む。
なかなか、涙は止まらなかった。




