2. 閉ざされた箱庭
「笑って」
静かな声が、小さな石造りの離れに響く。
シルビアは鏡の前に立ったまま、震える唇を必死に持ち上げた。
けれど、うまくいかない。
頬がひきつり、目が泳ぐ。
どうすればいいのか、分からない。
「違うわ」
細い鞭が机を打って、乾いた音が響く。
シルビアの肩がびくりと跳ねた。
「もっと冷たく」
公爵夫人は椅子に腰をかけたまま、ただ静かに鏡の中のシルビアを見つめる。
シルビアは口角を上げて、必死に表情を作った。
公爵夫人の青い瞳に浮かぶ失望が、何より怖かった。
「セリーヌは怯えたりしない。あなたのその怯えた目が気に障るの」
シルビアはぎゅっと拳を握った。
怖い。
孤児院に帰りたい。
でも、ちゃんと演技できなかったら、きっとみんなが危ない。
「もう一度」
震えながら、顎を上げて、口元を歪める。
相手を見下すつもりで、目を細めた。
「ふふっ……」
しばしの沈黙。
そして、「だめ」とたった一言発した。
それだけで胸が締め付けられるようだった。
「やり直し」
***
シルビアが公爵家へ引き取られてから、数日が経つが公爵夫人以外の人に会ったことがなかった。
たくさんの使用人が仕えるイメージがあったため、不思議に思っていると、それを察した公爵夫人が口を開いた。
「あなたが完成するまで、誰にも会ってはいけないの」
その言葉に血の気が引いていくのを感じた。
いつか離れから出れる日は来るのだろうか。
離れでの生活は過酷だった。
朝、離れを掃除して、しばらくすると食事を持った公爵夫人がやってくる。
それを食べてから、夕方までひたすら訓練。
笑い方、歩き方、カップの持ち方、椅子への座り方、紅茶を飲む角度、指先の細やかな動作まで、少しでも違えば何十回でも、やり直しさせられた。
公爵夫人は毎日、本を持ってきた。
" 薔薇と黎明の王冠 "
それが、題名らしい。
公爵夫人はうっとりした声で文字を読み上げる。
「セリーヌはね、とても美しいの」
ページを撫でる指先は愛おしげだった。
「高慢で、傲慢で、誰よりも気高い」
青い瞳がシルビアへ向く。
「あなたはこの子になるのよ」
シルビアには理解できなかった。
どうして知らない誰かにならなくてはいけないのか。
だけど、従う選択肢しか彼女にはなかった。
***
その日は、高いヒールの靴を履かされて、歩き方の指導を受けていた。
慣れない感覚に足元がぐらつく。
恐る恐る歩き出したが、三歩目でよろめいた。
次の瞬間。
ぱしっ、と鞭の音と共に、鋭い痛みがふくらはぎを走った。
「……っ!」
赤い線がじわりと浮かんでくる。
「転ばない。セリーヌはそんな無様な真似をしない」
涙が滲むが、泣いたって終わらない。
「もう一度」
お馴染みになった言葉に、唇を噛む。
顎を上げて、ゆっくり優雅に歩く。
何度も。
何度も。
足が震えても。
足が痛くても。
「……そう」
ようやく、公爵夫人が小さく頷いた。
「少しだけ、見られるようになったわ」
その一言に、シルビアはホッとした。
褒められたからではない。
今日が終わるから。
ただそれだけだった。
夜はとても静かで、聞こえるのは風の音だけ。
狭いベッドのなかで目を閉じながら、孤児院を思い出していた。
みんな元気だろうか。
ちゃんと食べているだろうか。
胸がギュッと痛くなる。
会いたい。
帰りたい。
シルビアは毛布を強く握りしめた。
泣いても、誰も来ない。
慰めてくれる人もいない。
孤独だった。
***
季節は巡った。
春、夏、秋……。
鏡の中の少女は、少しずつ姿を変えていく。
柔らかく揺れていた金髪は緩く巻かれ、少し垂れていた大きな青い瞳は冷ややかに細める術を覚えた。
口元には薄い微笑。
歩き方はゆっくり優雅に。
声は甘く、けれど人を見下す響きを帯びていた。
公爵夫人は満足そうに頷いた。
「ようやく完成ね」
シルビアは鏡を見つめる。
そこに映るのは、自分の顔をした知らない少女。
「笑って」
言われるままに、口角を上げる。
なんて、冷たく傲慢な笑み。
公爵夫人が恍惚と目を細めた。
「素晴らしい」
白い指が頬を撫でる。
「これなら誰も疑わない。明日、夫と息子に合わせるわ」
胸がどくりとなった。
怖い。
練習みたいに失敗できない。
だけど、一年ぶりに外に出れるのは嬉しい。
ほんの少しだけ期待を持つ。
もしかしたら、家族として接してくれるかもしれない。
「勘違いをしてはだめ。あなたは愛されるためにここにいるのではないわ。徹底的に嫌われなさい」
指先が震える。
なんて、非情な言葉。
「セリーヌは、誰にも愛されない悪役令嬢だもの」
その夜、シルビアは眠れなかった。
明日、新しい家族に会って、嫌われるんだ。
窓の外では雪が降っていた。




