21. 不穏な予感
夕闇がゆっくりと訪れる。
外は薄暗く、もうすぐ日が落ちようとしていた。
シルビアはアルヴェール家の馬車へ向かって歩いていた。
髪を下ろして、呼吸も落ち着けた。
頬の赤みは髪を下ろしたおかげで一見分からない。
それでも、近くで見れば薄く残る腫れは隠しきれなかった。
けれど、表情だけは完璧だった。
いつもの高慢な微笑。
隙のない、セリーヌの顔。
保健室での出来事も、すべて、心の奥へ押し込めた。
もう綻んではいけない。
「……ふん、遅かったな」
近くから低い声が聞こえた。
馬車の扉のそばに立つ、アシュレイだった。
「随分派手にやられたな」
皮肉混じりの声音。
シルビアは首を傾げた。
「何のお話かしら」
セリーヌとして完璧な角度で微笑む。
アシュレイは鼻で笑った。
「学園中の噂になってる」
体がわずかに強張る。
エレノアとの一件。
遠目とはいえ人がいたのだから、当然だ。
「ブランシュ侯爵令嬢に打たれたんだってな」
淡々と告げられる。
そこに同情も心配もない。
ただ、事実を確認するだけの声音。
「ええ。少し感情的になっていらしたようですわ」
穏やかに返すと、アシュレイは眉をひそめた。
「よく平然としていられるな」
「騒ぎ立てるほどのことではありませんもの」
それを聞いて、アシュレイはじっとシルビアを見つめた。
何かを測るように。
だがそれも一瞬だった。
「……気味が悪いな」
冷たく言い捨てる。
その言葉に、シルビアは安堵する。
そう、それでいい。
セリーヌは、嫌悪される存在でなければならない。
アシュレイはちゃんと嫌ってくれている。
「光栄ですわ」
馬鹿にしたように鼻で笑って見せると、アシュレイは露骨に顔をしかめた。
「その笑い方、本当に癪に障る」
短く吐き捨て、馬車へ乗り込む。
「さっさと乗れ」
アシュレイの命令にシルビアは静かに従った。
***
向かい合わせの座席。
扉が閉まり、馬車がゆっくりと動き出す。
車輪の振動だけがこだました。
しばらくして、アシュレイが窓の外を眺めたまま口を開く。
「殿下と保健室にいたそうだな」
心臓が一拍、強く打つ。
だが、表情は崩さない。
「打たれた頬を、冷やしてくださいましたわ」
「……へえ」
問い詰めるでもなく。
興味を示すでもなく。
ただ、灰色の瞳が一瞬だけ細められる。
馬車が石畳の段差を越え、大きく揺れる。
シルビアの身体が大きく傾いた。
だがアシュレイは手を貸さない。
ただ冷ややかに一瞥しただけ。
「鈍臭いな」
それだけ言って、再び窓の外へ視線を戻す。
シルビアは静かに姿勢を正した。
やがて窓の向こうに、公爵邸の巨大な門が見えてくる。
胸の奥が、静かに凍りついた。
帰れば、公爵夫人がいる。
今日のこと、どう報告すればいいのだろう。
シルビアは膝の上で指をそっと握りしめる。




