20. 近すぎる体温
冷たい布が熱をもった頬に触れている。
それなのに、どうしてこんなにも熱いのだろう。
シルビアは椅子に腰かけたまま、じっと視線を伏せていた。
頬に当てられた布の向こう側。
レオンハルトの指先が、ごくわずかに触れている。
そのたびに、身体が強張る。
近い。
近すぎる。
保健室の静寂が、余計にその距離を際立たせていた。
窓の外では夕陽が傾き、室内を橙色に染めている。
「……殿下、もう十分ですわ」
ようやく絞り出した声は、思ったより掠れていた。
「まだ赤い」
短い返答。
有無を言わせない声音だった。
シルビアは唇を噛む。
どうして。
どうして、こんなにも構うのだろう。
嫌われなければならないのに。
胸の奥がざわつく。
もし、このまま公爵夫人に知られたら――。
ぞくり、と背筋が冷えた。
脳裏に浮かぶのは、鏡の部屋。
何度もやり直しを命じられた厳しい指導。
冷たい声。
失望の孕んだ表情。
『あなたは愛されるためにいるのではない』
その言葉が、頭の奥で反響する。
なのに、目の前の王子は、まるで真逆のことをしている。
「……どうして」
思わず、零れていた。
レオンハルトの手が止まる。
「何が?」
しまった、と思った時には遅かった。
シルビアは慌てて微笑を作る。
「いえ。殿下ほどのお方が、わたくしにここまで気を遣ってくださる理由が、不思議でしたの」
完璧に。
いつものように。
そう思ったのに。
「今のは違うね」
静かな声が落ちる。
シルビアの呼吸が止まった。
「……え?」
目線を上げると、蒼い瞳が、まっすぐこちらを見つめていた。
「さっきの“どうして”は、いつもの君じゃなかった」
逃げ場がなくなる。
見抜かれている。
その事実に、指先が冷えた。
「何をおっしゃっているのか……」
立ち上がろうとした、その瞬間。
ぐい、と手を引かれた。
「きゃ……!」
体勢を崩す。
次の瞬間には、レオンハルトの胸元へ倒れ込んでいた。
息が止まる。
制服越しに伝わる体温。
耳元で聞こえる、確かな鼓動。
あまりに近い。
「……っ」
慌てて離れようとする。
けれど、手首を掴まれたままだった。
「殿下……離して……」
か細い声が漏れた。
レオンハルトは驚いたように目を見開き、それから少しだけ力を緩めた。
「ごめん」
そう言うくせに、完全には離さない。
そのまま、彼はシルビアを見つめていた。
まるで、何かを確かめるように。
「今の顔。そっちの方が、ずっと君らしい」
心臓が、大きく跳ねた。
違う。
違う、違う。
それは見てはいけないものだ。
知られてはいけない。
「……意味が分かりませんわ」
必死に言い返す。
だが声が震えていた。
レオンハルトの指が、そっと彼女の顎に触れた。
びくり、と身体が跳ねる。
「震えてる」
シルビアは反射的に顔を背けた。
「馴れ馴れしく触らないで下さいませ」
口では強がって見せるが、内心は怖くてたまらなかった。
どうして、殿下はこんなにも触れてくるのか。
それに、ずっとシルビアを暴こうとしてくる。
怖い。
このままでは、全部壊れる。
公爵夫人に知られたら、失敗したと分かったら……。
何をされるか分からない。
その恐怖に押されるように、シルビアは勢いよく手を振り払った。
「もう結構です」
鋭い声が、保健室に響く。
レオンハルトが目を見開く。
シルビアは立ち上がり、乱れた呼吸を必死に整えた。
完璧な微笑を貼りつけ、震えを押し殺しながら、一礼する。
「本日はありがとうございました」
それだけ言って、踵を返す。
一歩ごとに、背中へ視線が刺さるのを感じた。
「セリーヌ嬢」
背後から、殿下の声が聞こえて足が止まる。
「僕は君を知りたい」
息が止まる。
シルビアは何も答えられないまま、保健室を出た。
廊下を歩きながら、強く唇を噛む。
知られてはいけない。
それは公爵夫人のシナリオの崩壊を意味するから。




