16. 上機嫌
春季親睦会まで、あと二週間。
自室に戻ったシルビアは、ソファの傍らに置かれた箱へ静かに視線を落とした。
先ほど、公爵夫人から届けられたものだ。
シルビアは蓋を開けた。
淡い銀糸で繊細な刺繍が施された舞踏靴。
月光を受けて、ほのかに輝いている。
誰もが見惚れるような、美しい一足。
けれどシルビアには、それがまるで枷のように思えた。
……この靴を履いて、殿下をよろめかせる。
そっと指先で靴に触れる。
胸の奥が、じわりと沈んだ。
***
翌日の昼休みに、シルビアが中庭のベンチで一人本を開いていると、不意に影が差した。
顔を上げると、そこに立っていたのは、アシュレイだった。
灰色の瞳がじっとこちらを見下ろしている。
珍しい。
学園内で、彼が近づいてくることはほとんどない。
「……何かご用ですの?」
いつものように距離を取った声音。
アシュレイは眉をひそめた。
「そんな顔もするんだな」
シルビアの胸が小さく跳ねる。
「何のことかしら」
反射的に微笑みを作る。
だがアシュレイは視線を逸らさない。
「最近、妙だ。顔色が悪い」
まただ。
レオンハルトも、アシュレイも。
どうしてそんな些細な変化に気づくのだろう。
「気のせいですわ」
そう返すと、アシュレイは小さく舌打ちした。
「……またそれか、親睦会のことだろ」
シルビアの肩がわずかに強張った。
「殿下とファーストダンスを踊るんだってな」
皮肉るような声音。
けれど、その奥にあるのはいつもの嘲りとは少し違っていた。
「無理してるなら、やめればいい」
一瞬、言葉を失う。
思ってもみなかった言葉だった。
「……何をおっしゃっているの」
かろうじてそれだけ返す。
するとアシュレイはふっと鼻で笑った。
「別に、お前がどうなろうと知ったことじゃない」
ぶっきらぼうにそう言って踵を返す。
数歩進み、それから足を止めた。
振り返らないまま、ぽつりと落とす。
「ただ、最近の母上は妙だ。浮かれすぎている」
それだけ言い残して、彼は去っていった。
残されたシルビアは、しばらくその場から動けなかった。
胸の奥がざわつく。
アシュレイも、何かを感じ取っている。
その事実が、恐ろしくて。
けれど、ほんの少しだけ救われるようでもあった。
***
シルビアが学園に行っている頃、長い回廊を、侍女のマリアが銀盆を手に静かに歩いていた。
公爵夫人に頼まれた紅茶を届けるためだ。
アルヴェール家に十年以上仕えてきた彼女にとって、この屋敷の空気の変化には敏感だった。
そして最近、明らかにおかしい。
春季親睦会が近づくにつれ、公爵夫人はひどく上機嫌になっていた。
それだけなら珍しくない。
だが問題は、その笑みだった。
まるで、待ち焦がれた劇の幕が上がる直前のような、ぞっとするほど恍惚とした表情をよく目にするようになった。
公爵夫人の私室の前へたどり着く。
中から、かすかに声が漏れていた。
「……ええ、もうすぐよ」
甘く蕩けるような、公爵夫人の声。
マリアは足を止める。
「ようやく、わたくしの物語が正される」
ぞくり、と背筋が粟立った。
物語?
意味が分からない。
けれど、その声音に宿る異様な熱だけははっきり伝わった。
次いで、くすくすと笑う気配。
「今度こそ、間違えさせないわ」
思わず息を呑む。
その瞬間――。
「誰かしら?」
扉の向こうから、柔らかな声が響いた。
マリアの身体が強張る。
「お、お紅茶をお持ちしました」
数秒の沈黙。
やがて扉が開いた。
そこに立つ公爵夫人は、いつもの優雅な微笑を浮かべていた。
「まあ、ご苦労さま。ここでいいわ」
公爵夫人は何事もなかったように紅茶を受け取る。
そして、扉がゆっくりと閉まっていく。
マリアは初めて公爵夫人に恐怖を覚えた。




