12. 脚本
温室を出たあとも、シルビアの足取りはひどく重かった。
レオンハルトの別れ際の言葉が、耳から離れない。
まるで、仮面の奥を覗き込まれたようだった。
廊下を歩きながらも、胸の奥がざわつき続ける。
もし、見抜かれたのだとしたら。
もし、そのことが公爵夫人の耳に入れば――。
その想像だけで、指先が冷たくなった。
***
屋敷へ戻るなり、侍女が恭しく頭を下げた。
「公爵夫人がお呼びです」
その一言で、シルビアの身体が強張る。
やはり、知られている。
逃げたい衝動を押し殺しながら、シルビアは夫人の私室へ向かった。
重たい扉を開ける。
甘い花の香りが、濃く鼻をついた。
薄暗い室内。
深紅のカーテン。
窓辺に立つ公爵夫人の輪郭が、夕陽に赤く染まっている。
「いらっしゃい、セリーヌ」
その声音は、ひどく穏やかだった。
それがかえって恐ろしい。
「本日のご報告を」
シルビアは静かに頭を下げる。
「……昼休みに、殿下と温室でお話を」
そこまで言った瞬間。
ぱん、と軽やかな音が響いた。
公爵夫人が歓喜に満ちた顔で手を叩いたのだ。
「まあ、素晴らしいわ」
叱責を覚悟していたシルビアは、思わず目を見開いた。
「まさか、こんなにも早く個人的に誘われるなんて」
青い瞳がうっとりと細められる。
「さすがわたくしの最高傑作」
違う。
そう言いたかった。
レオンハルトは惹かれていたわけではない。
疑っていただけだ。
けれど、その言葉を飲み込む。
否定すれば、失望されるかもしれない。
その恐怖が喉を塞いだ。
「何を話したの?」
でも、すぐに考え直す。
隠しても、いずれ見抜かれる。
それなら、今ここで告げてしまった方が楽だった。
「……わたしが、誰かを演じているように見えると」
一瞬の沈黙の後、公爵夫人はくすりと笑った。
「当然ね」
シルビアは息を呑む。
公爵夫人はゆっくりと歩み寄り、その冷たい指先でシルビアの頬を撫でた。
「まだ足りないもの」
「……足りない?」
「ええ」
青い瞳が妖しく光る。
「殿下に好かれてはだめ」
その言葉に、シルビアは目を瞬かせた。
「原作の王子は、セリーヌを嫌悪していなければならないの」
恍惚とした声音で続ける。
「美しい。気になる。けれど、不快。近づけば近づくほど、嫌悪を覚える」
ぞくり、と背筋が震えた。
「それがセリーヌよ」
公爵夫人は微笑む。
「誰にも愛されず、誰にも惜しまれず、物語から退場するの」
その言葉は呪いのようだった。
***
その日から、指導は変わった。
鏡の部屋で無数の自分に囲まれながら、シルビアは何度も同じ動作を繰り返す。
「違う」
公爵夫人の冷たい声。
「その微笑みでは相手は不快にはならないわ」
やり直し。
「視線が短いわ」
やり直し。
「もっと長く。相手が居心地の悪さを覚えるまで」
やり直し。
いくらセリーヌになろうとしているとはいえ、相手を不快にさせるための仕草なんて覚えたくなかった。
けれど、逆らえない。
「いいこと?」
鏡越しに、公爵夫人が囁く。
「相手に『なぜだろう』と思わせるの。好意ではなく、違和感を。愛ではなく、嫌悪を」
耳元で、公爵夫人が甘く囁いた。
「それが、わたくしの脚本」
シルビアは小さく震えた。
***
翌日の昼休みの廊下。
レオンハルトが向こうから歩いてきた。
蒼い瞳がこちらを捉える。
昨日までなら、自然に微笑んでいただろう。
けれど……。
――もっと長く。
公爵夫人の声が蘇る。
シルビアは立ち止まり、ゆっくりと彼を見つめた。
ほんのりと唇を持ち上げる。
柔らかすぎず。
冷たすぎず。
ただ、じっと、意味ありげに。
沈黙が流れる。
一秒。
二秒。
じわじわと沈黙が伸びていく。
レオンハルトの表情がわずかに曇った。
それを見届けて、シルビアは視線を逸らし、何事もなかったように歩き去る。
背後から、微かな気配。
振り返らなくても分かった。
彼が立ち止まり、自分を見ている。
困惑したまま。
***
その夜、公爵夫人は報告を聞くと、満足そうに目を細めた。
「ええ、それでいいわ」
うっとりと頬に手を添える。
「少しずつ、違和感を植えつけていくの」
青い瞳が恍惚に揺れる。
「殿下はあなたを気にしながらも、決して愛せない。そして、やがて現れる運命の乙女に、心を奪われる」
その未来を疑っていない声音。
シルビアは静かに目を伏せた。
「……はい」
けれど胸の奥には、説明のつかないざわめきが残っていた。
今日のレオンハルトの表情。
あれは、本当に嫌悪だったのだろうか。
困惑。
戸惑い。
それとも――。
寝台に横たわっても、なかなか眠れなかった。
目を閉じるたび、蒼い瞳が浮かぶ。
まっすぐに、自分を見つめる瞳。
あの視線が、怖い。
見抜かれそうで。
暴かれそうで。
それなのに、ほんの少しだけ、誰かに本当の自分を見つけてもらいたいと願ってしまった。
その考えに気づいた瞬間、シルビアは強く目を閉じた。
そんなこと、許されるはずがない。
これは、すべて脚本通り。
そう、自分に言い聞かせながら。
眠れぬ夜だけが、静かに更けていった。




