11. 揺らぎ
翌朝、シルビアは鏡の前に立ったまま、しばらく動けずにいた。
鏡の中には、完璧な令嬢が映っている。
艶やかに整えられた金髪。
一分の隙もない制服姿。
わずかに視線を細めれば、気高く冷ややかなセリーヌの表情が完成する。
いつも通り。
何一つ変わらない。
なのに、昨夜から胸の奥に引っかかった違和感だけが消えなかった。
――まるで、誰かを演じているみたいだ。
レオンハルトの言葉が、何度も蘇る。
「……違う」
小さく呟く。
違わない。
演じている。
その事実を、自分が一番よく知っている。
だからこそ、見抜かれたことが恐ろしかった。
「セリーヌ様、お時間です」
侍女の声に、シルビアははっとする。
そしていつものように、口元に完璧な微笑を浮かべた。
「ええ、今行くわ」
鏡の中の少女もまた、同じように笑っていた。
***
教室に入った瞬間、レオンハルトと目が合った。
目が合うなり、彼は穏やかに微笑んだ。
「おはよう、セリーヌ嬢」
教室中の視線が集まった。
「……ごきげんよう、殿下」
完璧に礼を返す。
挨拶だけだろうと、机に向かおうと足を進めたが、彼は言葉を続けた。
「もしよかったら、昼休みに少し付き合ってくれないかな」
一瞬、教室が静まり返った。
誰もが耳を疑ったのが分かる。
シルビアの心臓が大きく跳ねた。
「……どういったご用件でしょう?」
「大したことじゃないよ」
レオンハルトは優雅に笑う。
「昨日の続きを、少しね」
その言葉に、シルビアの指先がぴくりと震えた。
昨日の、続きを。
断れるはずがなかった。
ここで取り繕わなければならない。
これ以上、疑念を抱かせるわけにはいかなかった。
「……承知いたしましたわ」
答えた瞬間、周囲がざわめきに包まれた。
ミレイユの顔がこわばるのが見える。
何人もの令嬢が、信じられないものを見るような目を向けていた。
シルビアは微笑みを崩さなかった。
けれど、机の下で握った拳には、じっとりと汗が滲んでいた。
***
昼休みに案内されたのは、本校舎の奥にある小さな温室だった。
ガラス張りの天井から春の陽光が差し込み、色とりどりの花々が静かに佇んでいる。
外界から切り離されたような、穏やかな空間。
けれどシルビアには、逃げ場のない檻のように思えた。
「綺麗でしょう」
先を歩いていたレオンハルトが振り返る。
「僕はここが好きなんだ。考え事をするのにちょうどいい」
「そうですの」
当たり障りなく返す。
するとレオンハルトは、ふいに問いかけた。
「君は、好きなものはある?」
あまりにも唐突だった。
シルビアは一瞬、言葉を失う。
好きなもの。
そんなこと、考えたこともなかった。
孤児院にいた頃は、生きることに必死だった。
公爵家に来てからは、セリーヌになることで精一杯だった。
好きなものなんて……。
「……紅茶かしら」
咄嗟に、無難な答えを返す。
けれどレオンハルトはじっと彼女を見る。
「それ、本当に?」
蒼い瞳が静かに射抜く。
また、試されている気がした。
「嘘をつく理由がありまして?」
冷ややかに返す。
けれどその瞬間、温室の隅にある小さな鉢植えに咲く白い花が視界に入った。
思わず、目が留まる。
それは孤児院の庭に咲いていた花とよく似ていた。
懐かしさが胸を掠める。
ほんの一瞬。
ほんのわずか。
その表情の変化を、レオンハルトは見逃さなかった。
「……それか」
はっとして視線を戻す。
「何のことですの?」
レオンハルトは花へ視線を向けたまま、静かに笑った。
「今、初めて君の素顔を見た気がした」
シルビアの呼吸が止まる。
「君と会ってからずっと思っていた。君の笑顔は綺麗だ。でも、どこか作り物みたいだった。けれど、今の顔は違った」
逃げなければ。
そう思うのに、足が動かない。
蒼い瞳がまっすぐに見つめてくる。
責めるでもなく、嘲るでもなく。
ただ、真実を知ろうとする目だった。
「君は――」
その時だった。
温室の扉が勢いよく開いた。
「殿下!」
鋭い声が響く。
振り返ると、そこに立っていたのはミレイユだった。
その背後には数人の令嬢たち。
ミレイユはシルビアを見て、一瞬だけ表情を強張らせる。
「先生が探しておりましたわ」
レオンハルトが小さく息をついた。
「……時間切れか」
そしてシルビアへ視線を戻す。
「セリーヌ嬢、昼休みに付き合ってくれてありがとう」
その微笑みはいつも通り穏やかだった。
けれど別れ際、彼は小さな声で言った。
「君は、自分が思っているよりずっと分かりやすいよ」
シルビアの胸が、大きく脈打つ。
レオンハルトが去ったあとも、その言葉だけが耳に残り続けていた。
***
温室に一人残されたシルビアは、震える指先をそっと握りしめた。
分かりやすい。
その言葉が、ひどく恐ろしい。
完璧だったはずなのに。
誰にも見抜かれないはずだったのに。
仮面は、確かにひび割れ始めている。
そしてその亀裂から、シルビアという存在が、少しずつ覗き始めていた。




