2 始まりのとき
真悠のスマホが目覚ましアラームよりも先に鳴り出したのは、幕田が首相から料亭に呼び出された翌日の朝8時51分のことだった。
「う——」と一声うめいて、真悠は枕元のスマホを手にとる。
起き抜けで指に力が入らず、危うく落としそうになった。
「うあぁ……あ、幕田さん……。なに? こんな朝早く……」
「早くはないよ。もう9時になるぞ。まだ寝てたのか?」
「僕が夜遅いの、知ってるでしょ? 何かあったの?」
どうせまたラボの仮眠ベッドで服のまま横になってたんだろう、と幕田は想像する。
こいつはやり出すと身の回りのことどころか風呂にも入らない。
「何日風呂に入ってない?」
「余計なお世話っす」
幕田は目を覚まさせてやろうと思った。
「予算がつく。首相の肝入りだ。本格的に始動するぞ」
真悠の声が一気に力を帯びる。
「ほんとっすか? アマテラス使えるんすか?」
鬼乃目真悠は愛知県にある岡崎テックラボの主任研究員だ。若干23歳にして国産AI 開発の最先端をゆく掛け値なしの天才である。
業界以外であまり名が知られていないのは、そのとっつきにくい性格のせいもあるが、幕田が情報をコントロールしてあまりマスコミに出さないようにしているからでもあった。
幕田が真悠を見出したのは、真悠少年がまだ12歳の小学生だった頃である。
もともと技術畑からキャリアに進んだ幕田は、経産省が主催した「こどもプログラミングコンテスト」の会場にに興味本位で私的に出かけていった。
そこで、制限時間内に驚くほどのAI を組み立ててみせたのが、小学6年生の鬼乃目真悠だった。
幕田は、賞状と楯を手に得意そうに母親の元に走り寄った真悠に声をかけた。
(この少年、防衛省にほしい)
それがその時の幕田の思いだった。
すでにこの頃から幕田は将来の主戦場はサイバー空間になると考え、優れた若い才能を見出してできる範囲で準備を進めておきたいと思っていたのだ。
できる範囲で——といっても、まだ中堅にさしかかったばかりの幕田にできることは限られていた。
しかも若いどころか、この子はまだ小学生だ。
しかしそこに天才を見てしまった幕田は、なんとかしてこの子にツバをつけておきたいと思ってしまったのだ。
だが少年の発した言葉は幕田を愕然とさせた。
「僕は中学を卒業したら働くんだ。大学なんか行かない」
真悠少年の家は母子家庭だった。
小学3年生の頃父親が事故で死んで、しかも技人国で雇っていたはずの会社はあれこれ理由をつけてロクな補償も出さなかったらしい。
母親が働きながらシングルマザーとして真悠を育てなければならなくなった。
父親はアフリカ系のフランス人で、その姓をキノームといった。『鬼乃目』という漢字を当てていたのは、いずれ日本国籍を取って帰化するつもりだったからだという。
父親は真悠の母をその母国ごと愛していたらしい。
「キノメの『キ』は『木』ではだめなの?」と聞いた母に父はこう答えたという。
「鬼という字は日本では強さを表す。世界を見渡せる強き目を持った一族の祖になりたい」
真悠の名前の元になった「マーユ」という音は、父親の出身部族の古い言葉で樹木の精霊を表すという話だった。
もっともその部族出身の者でさえ、その言葉を知っている者はもうほとんどいないほど古い言葉だ……とも言っていたという。
そんな真悠の肌の色は浅黒い。
なににせよ鬼乃目家は貧困の中にいた。
真悠がコンテストに出るのは、それで実績を作るためであり、時に獲得できる賞金を家計の足しにするためだということだった。
「中学を卒業するまでにゲームメーカーに売り込めるくらいの実力はつけておきたい。そうすりゃ母ちゃんも無理して頑張るのはあと3年でいい」
小学6年生の考える「将来の夢」ではなかった。
大学に「行かない」のではなく「行けない」のである。
幕田は個人的に鬼乃目真悠を援助することにした。
それは真悠という才能の境遇に同情したからだろうか。それとも、この天才をゲームメーカーなどに取られるわけにはいかないという下心からだろうか。
幕田自身その問いに答えることができないのだが、少なくとも少年をかわいいと思ったからではないだろうとは思う。
真悠は大人も舌を巻くほど理屈っぽく、素直という言葉からは最も離れたところにいるような子で、とても「かわいい」と言えるような性格の子ではなかった。
それでも中1のとき、少年は幕田に仔犬みたいな目をしてこう聞いたことがあった。
「なあ、マクタのおじさんはなんで僕たちにこんな親切なんだ?」
この時ばかりは幕田も少し頬を赤くした。
純粋な親切ではない。下心がある。もっともそれは真悠少年にとって、悪くはない将来だとは思うが。
「母ちゃんに気があるんか?」
そう聞いた真悠の言葉に幕田が少し顔を歪める。
そのひと言が余分だっていうんだ! 子どものくせに——。
「私は世帯持ちだよ」
たしかに、彼の母親は美人で人柄も良い。父親が惚れたのもわかる気がする。
すでにトウが立って冷え込んだ自分の妻との関係を思えば、そこへ行くという選択肢もないことはないかもしれない。と思いながらも、それは自らの野心と出世にとって決してプラスにはならないことがわからないほど幕田は愚かではなかった。
防衛省の中にサイバー防衛の精鋭部署をつくる。
それがこの天才少年を見た時からの幕田の野望だった。
10年かけて育て上げる。
サイバー防衛の要となる人材を——。
「気にすることはない。これは君の天才に対する投資だよ。ちゃんとリターンは期待してるから、頑張って勉強するんだ。いいね、マユ」
「マユウだ。」




