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数列の巨人  作者: Aju
16/19

16 夢見るスパイ

「R国の絵画ですか?」


「うん、なにかR国大使館からうちの芸祭に文化交流の一環として参加させてほしいっていう話が大学にあったらしくてね。絵画の展示を油絵科の展示室で引き受けることになったんだ。D展示室を使うから、当日君らも手伝ってくれる? 結構な名画をガラスなしで直接見られるよ」


 夏休み明けに油絵科助手の野田から声をかけられたのは、3年生の柚子原夏希と小森姫里と大沢童磨の3人だった。


「やります。やります」


 超有名なやつではないが、大使館にある美術史に載ってるような絵画のタッチを直に見られるなんて機会は滅多にあるものじゃない。

 3人とも二つ返事でOKしたのも当然だろう。



 展示の打ち合わせということで、大使館の下級職員が油絵科にやってきたのは芸祭の1週間ほど前のことだった。

 学生たちはそれぞれの出し物や展示の準備などで忙しく、また浮かれている時期でもある。


「いやあ、野田先生。すっかりお世話になっちゃいます」

 流暢な日本語をしゃべるその職員はウラジーミル・ヴォトコフという背の低い男だった。丸顔の温厚そうな顔つきで、いつもにこにこ笑っているような顔をしている。


 ウラジミールはD展示室を見て貸し出し作品の目録と照らし合わせながらざっとの展示位置を決めると、野田が近くの料理店に食事に誘うのを断って、学生たちと同じ学食で食べたいと言った。

 気さくな人物らしく、手伝いの3人だけでなく周りの学生ともすぐに打ち解け、驚いたことにアニメやマンガの話でも盛り上がった。


「ジャパニメーションはR国でも人気ですよ。政治的な障壁があってなかなか実現しませんが、声優さんを招いての日本映画祭なんかもやりたいですよねー」


 展示当日も朝早くから搬入口の前にバンで乗り付けて待っていて、後から来た野田が恐縮してしまった。

 大使館員ってもっと偉そうなのかと思っていたら、イメージが全然違う。

 展示も一緒にきた大使館の職員に指示するだけかと思ったら、自分で脚立にも登ってワイヤーを調整したり、夏希たち学生と一緒になって作業を進めた。


「どう? この高さ。プロの目で見てちょうどいいと思う?」などと夏希たち学生にも相談してくる。

 童磨などはすっかりその気になって「もう2センチ上っすかね」などと背中を反らせて眺めている。

 この頃にはウラジーミルは「ヴォーヴァさん」と呼ばれるようになっていた。


 学祭の2日間もヴォーヴァさんは朝から足を運んできていて、なんと学生バンドの演奏に飛び入りで参加してギターの腕前を見せるというようなお茶目もやってみせた。


「政治が冷え込んでいても、いや、そういう時こそ文化交流は必要なんです!」

 ヴォーヴァさんはそう力説した。

 学生のアトリエ展示作品も見て回り、特に大使館の展示を手伝ってくれた3人の作品には感想まで言ってくれた。


「私は絵はあんまり詳しくないんですけど、これは抽象画のようでいて具象も入ってるんですねぇ」

 ヴォーヴァさんがそう感心したのは大沢童磨の作品だった。

「人間の欲望というものは、醜いだけではないと思うんです。それを表現したかった」

 童磨は少し鼻の穴を膨らませてそう解説してみせた。


「これは! 私、好みだなぁ!」

 そう言ってヴォーヴァさんが近づいたり引いたりしながら何度も眺めたのは、夏希の作品だった。

「ギリギリまで描いてたんで……。まだ絵の具乾いてないかもです」

 夏希は照れながらそう応じた。



 学祭が終わり、大使館所蔵の絵を引き上げる帰り道。ウラジーミルはその笑ったような目の中に珍しく陰鬱な光を宿していた。

 たくさんの学生や先生方と仲良くなれた。それはそれで、表向きの職務としては上出来だったのだが……。


 柚子原夏希だけが違う。

 最初は素直なだけのちょろい女だと思ったのだが、あと一歩を踏み込もうとすると微笑のままですっと引く。

 なんというか……くもりがない分、人の内側にある濁りのようなものに敏感に反応するのかもしれない。

 これまで何人か、そういう手合いを見てきた。たいていは懐柔にも情報収集にも失敗している。どうやら柚子原夏希はその手の人間らしい。

 これは難敵だ。


 ……というより、このやり方では無理なのではないか?


 当然だが、ウラジーミルは柚子原夏希のアパートにも盗聴器を仕掛けた。拾った音声は暗号化され、ウラジーミルがどこにいても聞くことができるRSB(R国情報局)特製の優れものだ。

 だが、それが機能したのは最初の1週間だけだった。

 スマホによる鬼乃目との会話はよくある遠距離恋愛の他愛もない話で、鬼乃目の仕事を暗示するようなものは何もなかった。

 しかも1週間後に鬼乃目本人が来た時に、盗聴器は突然壊れてしまったのである。何か強い電磁波を浴びたか、強い電流を流されたかのようだった。

 鬼乃目はどうやってか盗聴器の存在を知り、一瞬でそれを無力化したらしい。なぜ見つけられた? 彼はどんな技術を持っているのだ?


 しかしウラジーミルが遠目に見る限り、鬼乃目真悠という青年はそんな裏世界を生き抜いてきたような抜け目のない男には見えなかった。

 ウラジーミル自身が裏世界の人間であるため、同じ世界を生きる人間はにおいでわかる。

 鬼乃目はどちらかといえば、あどけないと言ってもいいほど正直に感情が顔に表れるタイプのようだった。

 そんな男を防衛機密を扱う防衛省幹部が重宝しているという違和感は、どうにも気持ち悪い。


 非常の手段に出るか——。


 ウラジーミルは柚子原夏希の拉致を決断した。

 何もわからない今の状態では、本部は許可を出さないだろう。自分の手駒で一人でやるしかない。

 柚子原を手中にすれば、それをどう扱うにしろ鬼乃目は動くに決まっている。そこでこの人物が何をやっているかがわかるはずだ。


 柚子原夏希の拉致は簡単だった。

 平和な世界しか知らないこの女は、仲間がスーツの下に隠した拳銃を見せただけで(向けたわけではない。ホルダーに入ったままだ)言われるままに車に乗り込んでくれた。



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― 新着の感想 ―
拙速! 拙速だってウラジーミルさん、どうしたの〜。 随分と強引。 まあそれだけ魅力的というか、スパイの勘にビビっとくる件なのでしょうけど。 コチラsideとしては、その方が良かったのでしょうけど………
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