15 夢見るスパイ
R国の情報組織はサイバー空間ではなく、ヒューミントを得意とする。
そこが、サイバー空間防御にばかり意識のいっていた幕田の盲点だった。
R国が日本の岡崎という地方都市にある小さなラボの中で行われている研究内容について、わずかでも知ったわけではない。
もし知ったとしたら、それは世界のサイバー空間……いや、パワーバランスさえ変えてしまうほどの脅威になりうるとウラジーミルでも思っただろう。
ただ、諜報員として日本のR国大使館に派遣されていたウラジーミルは、その独特の嗅覚でこの小さなさえない第三セクターラボに違和感を持った。
違和感はわずかなものだったが、ウラジーミルの仕事としてそういうものを放置するわけにはいかない。
ウラジーミルは普段は大使館の文化交流を担う下っ端職員、ということになっている。
快活で腰が低く、よく気が利く男で、民間のNPOなどとの交流でも「ヴォーヴァさん」などと呼ばれて親しまれる性格だった。
そんなウラジーミルには裏の顔がある。いや、裏の顔こそがこの男の正体と言える。
スパイというと映画の主人公のような派手でカッコいい人物を想像したり、陰気な目をした人物を想像するかもしれないが、実際はそういうものではない。
情報を引き出すには、明るく快活で人好きが良く、他人の懐にすっと入り込めるような性格の方が向いているのである。
かつてスパイ上がりの大統領が「私は人間関係の専門家です」と言ったこともある。
このウラジーミルという人間関係の専門家は、岡崎城祭りで知り合った若い警備員に目をつけた。
違和感の1つは、民間の産業用 IT技術の開発をしているだけの会社にしては異様に警備が厳重であることだった。
産業スパイへの対応としては過剰に見える。表向きの商売の推定利益とは釣り合わない。
国の予算の入った第三セクターというのも引っかかった。
警備員はもちろん、ラボの研究内容など知るはずもないが、ただ彼が酔った勢いで自慢げに語ったことがウラジーミルの触角に触れた。
「うちのラボ、すげー ITの天才がいるんすよ」
「へえ。なんて人なんですか?」
「あ、いや。人の名前は言っちゃいけないことになってんすよ。すいません。怒られちゃう」
「はは。そうなんですか。名前は言ってないじゃないですか。大丈夫、聞かなかったことにしますよ。でも警備員ってのも大変なんですね」
ウラジーミルはそれ以上深追いはしない。脅したりして吐かせる、などというガサツな活動は映画の中の三流スパイのやることだ。
その後の若い警備員の上司に対する愚痴を、ウラジーミルは丹念に聞いてやった。
他の仕事もあったが、その片手間に調べてゆくうち、ウラジーミルの違和感は膨れ上がっていった。
どうやら警備員の言っていた「天才」とは鬼乃目真悠という青年らしい。
経歴を調べると、小学生のうちからその才能を現し、いくつものプログラムコンテストで優勝もしている。
ところが、その天才少年が中卒で岡崎テックラボに就職してからは全く鳴かず飛ばずで世間に名前を現さない。
しかもこの第三セクターに出資しているのがどうやら経産省ではなく防衛省らしい。……となれば、防衛関係で裏に隠された——と考えるのが妥当だろう。
ここまで突き止めたときにウラジーミルは内心舌なめずりをした。
これは、大物が釣れるかもしれない。名前負けなどと言われることもあった自分が、一世一代の大手柄を立てるチャンスかもしれない。
現在、サイバー戦力ではA国、C国、K国が先陣を切っており、R国は遅れている。日本はもっと遅れているはずだった。むしろ日本のサイバー能力などは幼児のようなレベル——とR国では考えられていた。
その日本の防衛省が、密かに天才的なハッカーを囲い込んで何かをやっている?
このハッカーをこちら側に落とすことができれば……
これがウラジーミルという男の想像力の限界だった。
すでに実際の戦場ではドローンとAI が主役になっているというのに、この男の頭の中には一昔前のハッカーによる手仕事の攻撃のイメージしかないようだった。
ウラジーミルは鬼乃目真悠を日本の政府系ハッカー集団のリーダーと見た。
ところが、本国に照会しても被害が見当たらない。
岡崎テックラボがそういう攻撃的サイバー部隊の隠れ蓑になっているという証拠が、何ひとつ見当たらないというのだ。
本部はウラジーミルの報告を軽く扱って無視した。
「?」
ならば……いったいこの天才は何をやっているのだ?
ここにきてようやく、ウラジーミルは自分の想像を超える何かがあるのかもしれない——と思い始めた。
ウラジーミルは鬼乃目真悠の身辺を洗いはじめた。
鬼乃目はほとんど住み込みのようにしてラボから出てこない。外出時には必ず2人以上の護衛がそれとなくついている。
1人で出歩くことはなく、移動は必ず運転手付きの車だった。
VIP待遇である。
小さなラボの社員とはとても思えない。しかも月に1〜2度は幕田という防衛省幹部とも会っているようだった。
友達らしい友達はおらず、母親が都内で1人で暮らしている。
鬼乃目は幕田と会ったあと、必ず1人の女のアパートへ行くようだった。この時だけ送り迎えの車はアパートからやや離れた駐車場に停まっていて、護衛は車の中にいる。わずかに鬼乃目からの距離ができる。
とはいえ、それだけだ。ウラジーミルが近づく隙もない。
鬼乃目の彼女らしいその女。柚子原夏希。
神奈川県にある美大に通う女で、鬼乃目の中学の同級生である。
ウラジーミルはこちらも調べてみたが、何も出てこないただの美大生だった。
だが、この女は鬼乃目の弱点だ。翌日アパートから出てくる鬼乃目の表情を見ていれば、この女を押さえれば何らかの情報を引き出すなり、上手くすれば協力者にすることもできるかもしれない。
しかもうまいことに、ラボの警備はこの女の方にまでは及んでいないようだった。
ウラジーミルは柚子原夏希の通う美大に、文化交流の名目で赴いた。
「スミス」が鍛冶屋の意味であるように「ウラジーミル」は支配者の意味を持ちます。さえない末端スパイの彼は、それで「名前負け」なんて言われちゃってるわけですね。
スパイですから、裏地見る。。。(いや、これはただのダジャレです)(^◇^;)




