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幼馴染がクズな彼氏に裏切られた。……「もう遅い」はずの僕たちの、不器用なやり直し  作者: novelnovel


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8/9

サイドストーリー:硝子の優越感と泥濘の末路

大学の第二講義棟、三百人を収容できるという階段状の巨大な教室。その中段あたりに座る私の周囲だけが、まるで目に見えない結界でも張られているかのように、ぽつんと空席になっていた。

講義開始のチャイムが鳴る直前、慌てて教室に入ってきた学生たちが、私の隣や前後の空席を見つけて一瞬足を止める。しかし、そこに座っているのが私だと気づいた途端、彼らはあからさまに嫌悪感を顔に浮かべ、わざわざ一番後ろの立ち見が出そうなスペースへと足早に去っていく。


そんな露骨な拒絶の光景にも、私はもう何も感じなくなっていた。

手元のルーズリーフに、シャープペンシルで無意味な直線を何本も引く。黒鉛の粉が紙を汚し、真っ黒に塗りつぶされていく様は、今の私の精神状態そのものだった。

教壇では初老の教授がマイク越しに単調な声で経済学の基礎を語っているが、その内容は一文字たりとも頭に入ってこない。ただ時間が過ぎるのを、嵐が通り過ぎるのを待つようにじっと耐え忍ぶだけだ。


机の上に裏返して置かれたスマートフォン。その画面が点灯することは、もう二度とない。

かつては常に誰かからのメッセージで溢れ、一日に何十回もMINEの通知音が鳴り響いていた。大学の友人たちとのグループチャット、バイト先の連絡網、そして、一ノ瀬拓海からの秘密のメッセージ。

しかし今は、画面を開いても、何の通知も来ていない。登録されている数百人の連絡先は、ただの無機質なデータと化してしまった。

私が何も発言しなくなった途端に、友人たちは私を含まない新しいMINEのグループを作り、そこで楽しそうに会話をしているのだろう。私が近づくと、彼女たちはピタリと会話を止め、冷ややかな目で私を一瞥してから、無言で背を向けるようになった。


「他人の彼氏を寝取った、泥棒猫」

「親友を裏切って、SNSで匂わせ投稿をして喜んでいた、性格の悪い女」


それが、今の私がこの大学で貼られているレッテルだ。

誰も直接私にそう言葉を投げつけるわけではない。しかし、すれ違う時のヒソヒソ声や、Twotterの匿名アカウントで呟かれる悪意に満ちた言葉の数々が、私の心を確実に抉り、切り裂いていった。

そして何より恐ろしいのは、それらの悪意が全て「事実」に基づいているということだった。


私の人生が音を立てて崩れ去ったのは、あの一ノ瀬拓海からの、狂乱したような電話が始まりだった。

あの忌まわしい出来事から、もう二ヶ月が経とうとしている。しかし、あの夜の冷たい空気と、自分の足元が崩れ落ちていく感覚は、今でも鮮明に思い出すことができる。


金曜日の夜中。自室のベッドに寝転がり、アウスタのタイムラインをぼんやりとスクロールしていた時だった。

突然、けたたましい着信音が鳴り響き、画面に『拓海』の文字が表示された。

今日の昼間、彼は「葵のことは適当に誤魔化しておく」と私に言っていた。それなのに、夜になっても彼からの連絡はなく、私は少しだけ苛立ちを覚えていたのだ。文句の一つでも言ってやろうと、私は少しつっけんどんな声で電話に出た。


「……なに。こんな時間に」

「終わった……結衣、俺、終わった」


電話口から聞こえてきたのは、甘い囁きでも、言い訳でもなく、絶望に満ちた男のうめき声だった。


「ちょっと、どうしたの? 落ち着いてよ」

「葵に、誤爆した……。お前に送るはずだったメッセージを、葵とのMINEのトーク画面で送っちまったんだ……っ」


その瞬間、私の全身から一気に血の気が引いていくのを感じた。

心臓が嫌な音を立てて早鐘を打つ。手足の指先が氷のように冷たくなった。


「誤爆って……まさか、ホテルのこととか……」

「全部だ! お前の名前も、葵を適当に誤魔化すってことも、全部見られた! 既読がついたんだよ!!」


拓海のパニックに陥った叫び声が、私の鼓膜を劈いた。

葵にバレた。葵が知ってしまった。

私が、彼女の一番大切な彼氏を裏で奪い、見えないところで彼女を嘲笑っていたということを。

罪悪感よりも先に湧き上がってきたのは、強烈な保身の感情だった。葵に知られたら、私たちの共通の友人たちにも全てが知れ渡る。私の大学での居場所がなくなる。


「どうしよう、結衣、どうすればいい……っ! 何回電話しても出ないんだよ!」

「と、とにかく、葵のところに行って謝ってよ! 魔が差しただけだって、私とは本気じゃないって言って!」

「言えるわけねえだろ! ホテル予約するなんてメッセージ、どう言い訳するんだよ!」

「知らないわよ! あなたのミスでしょ! 私まで巻き込まないでよ!」


私がヒステリックにそう叫んだ瞬間、電話の向こうの拓海の空気が、スッと冷たく、そしてドス黒く濁るのを感じた。


「……巻き込まないで、だと?」

「えっ」

「ふざけんなよ。お前が俺を誘惑したんだろ。お前が『私なら何でも聞くから』って猫撫で声出して、俺をそそのかしたんじゃないのかよ」

「なっ……私からじゃないわ! あなたが勝手に私に愚痴を言いに来て……」

「お前だって満更でもなかったくせに! 葵の彼氏を寝取って、優越感に浸ってたんだろ! アウスタでキモい匂わせ投稿してたのも知ってんだぞ! 自分の責任棚に上げて、俺に全部押し付けんじゃねえよ、このクソ女が!!」


激しい怒鳴り声と共に、電話は一方的に切られた。

ツー、ツー、という無機質な電子音が、深夜の部屋に虚しく響き渡る。

私はスマートフォンを握りしめたまま、ベッドの上にへたり込んだ。


拓海の言う通りだった。私は、葵に対する長年のコンプレックスから、彼女の彼氏である彼を奪うことで優越感に浸っていた。あの完璧で誰からも愛される葵の知らない秘密を、私だけが知っている。その歪んだ優越感が、私を麻痺させていたのだ。

でも、拓海だって同罪のはずだ。彼だって私を都合よく利用し、葵から逃げていたくせに。それなのに、彼は自分の過ちを棚に上げ、最も醜い言葉で私を罵り、責任を全て私になすりつけようとした。

その時、私はようやく悟ったのだ。一ノ瀬拓海という男の、本当の底の浅さと、身勝手さを。そして、そんな男と一緒になって親友を裏切った自分自身の、救いようのない愚かさを。


しかし、本当の地獄はそこからだった。

週明けの大学。私が恐る恐るキャンパスに足を踏み入れると、すでに私の悪評は信じられないスピードで拡散されていた。

発端は、Twotterの大学裏アカウントだった。

誰かが私のアウスタの裏アカウントを特定し、そこに投稿されていた「匂わせ」の写真の数々と、拓海のアカウントの投稿、そして葵のアカウントの投稿を時系列順に並べた検証画像をアップしたのだ。


『サッカー部エースの浮気相手、まさかの彼女の親友www』

『アウスタの匂わせエグすぎ。この松下結衣って女、性格悪すぎだろ』

『星野さん可哀想すぎる。親友に彼氏寝取られるとか人間不信になるわ』


そんな言葉と共に、私の顔写真までもがTwotterの海に放り出された。

さらに、YourTubeでよくある「スカッとする話」のゴシップ動画のように、私たちの関係は面白おかしく脚色され、学生たちの間で格好の暇つぶしとして消費されていった。


講義に出ればヒソヒソと指をさされ、食堂に行けば露骨に席を立たれる。

今まで親しくしてくれていた友人たちは、蜘蛛の子を散らすように私から離れていった。MINEのグループからは次々と強制退会させられ、誰も私と目を合わせようとはしなくなった。

他人の彼氏を奪い、それをSNSで見せびらかすような女と付き合えば、自分も同じような人間だと思われる。狭い大学のコミュニティにおいて、私は完全に「社会的な死」を迎えたのだ。


当然の報いだった。因果応報。

私が葵に与えた絶望と痛みが、そのまま私に跳ね返ってきただけのことだ。

でも、どうして私だけが。拓海はどうなったのか。


噂によれば、拓海もまた悲惨な末路を辿ったらしい。

彼はあの後、葵に必死に縋り付こうとしたが、葵の幼馴染である吉野亮太に阻まれ、葵自身から完全に三行半を突きつけられたという。

全てを失った拓海は自暴自棄になり、サッカー部の練習にも一切顔を出さなくなった。元々怪我でレギュラーを外されていた彼には、もう戻る場所もなかったのだろう。最近では、彼が大学を休学し、逃げるように実家へ帰ったという噂がもっぱらだった。

拓海は逃げることができた。でも、私には逃げ場所なんてなかった。実家は遠く、親にこんな理由で休学したいなどと言えるはずもない。私はこの針のむしろのような大学で、ひたすら息を潜めて生きるしかなかった。


「……ふぅ」


講義終了のチャイムが鳴り響き、私は深くため息をついた。

周りの学生たちが楽しそうに連れ立って教室を出ていく中、私は一番最後に席を立ち、逃げるように廊下へと出た。

誰の目にも触れたくない。早くアパートに帰って、ベッドの冷たいシーツにくるまりたかった。


うつむき加減でキャンパスを歩き、人通りの少ない中庭の裏道を通ろうとした時だった。

ふと、前方に広がるイチョウの木の下のベンチから、聞き覚えのある笑い声が聞こえてきた。

私はビクッと肩を震わせ、声のした方へと視線を向けた。


色づき始めた黄金色の葉が舞い落ちる中、そのベンチに、星野葵が座っていた。


私の足は、地面に接着剤で縫い付けられたように動かなくなった。

葵の隣には、吉野亮太が座っている。二人の手元には、コンビニの袋と、温かそうな缶コーヒー。彼らは他愛のない会話をしながら、とても楽しそうに笑い合っていた。


私が最後に葵を見たのは、あの金曜日の昼間だ。

あの頃の葵は、自分の不安を隠すために派手なメイクをして、無理をして明るく振る舞っていた。常に他人の目を気にして、拓海に相応しい自分を取り繕っていた。

しかし、今の葵は違った。

メイクは薄く、服装も以前のような無理に大人びたものではなく、彼女の年齢に合ったカジュアルで自然なものだった。何より、その笑顔が違った。

嘘がない、心の底からリラックスしている、柔らかな笑顔。私が高校時代からずっと見てきた、そして一番憎んでいた、あの無邪気で眩しい葵の顔だった。


「亮太、それ私のパンなんだけど! 勝手に食べないでよ!」

「うるせえな、一口くらい減るもんじゃねえだろ。ほら、代わりに俺のコーヒー一口やるから」

「ブラックなんて飲めないの知ってるでしょ! もう、いつもそうやって誤魔化すんだから!」


葵は唇を尖らせて文句を言いながらも、本当に怒っているわけではない。亮太もまた、葵の抗議を笑って受け流しながら、どこか愛おしそうに彼女を見つめている。

二人の間に流れる空気は、あまりにも自然で、そして温かかった。

拓海と一緒にいた時の葵には、あんな空気は微塵もなかった。常に背伸びをして、相手の機嫌を窺い、見えないプレッシャーに押しつぶされそうになっていた。

でも、今の葵は違う。亮太の隣にいる彼女は、完全に羽を伸ばしている。自分の弱いところも、ダメなところも全てさらけ出し、それでも絶対に受け入れてもらえるという絶対的な確信を持っているのだ。


胸の奥が、ギリギリと鋭い爪で引っ掻かれるように痛んだ。

私が欲しかったものは、これだったのではないか。

誰の目も気にせず、ただありのままの自分を受け入れてもらえる場所。嘘偽りのない、本物の絆。

私は葵のその「完璧な幸せ」を奪いたくて、コンプレックスを埋めたくて、拓海に手を出した。でも、拓海との関係は、結局のところ砂上の楼閣でしかなかった。お互いの傷を舐め合い、歪んだ優越感と現実逃避で結びついていただけの、薄汚くて脆い関係。


私が自らの手で全てを壊し、どん底に落ちて泥水をすすっている間に。

葵は、私が絶対に手に入れられない「本物の幸せ」を、とうの昔から持っていたことに気づき、それを取り戻していたのだ。


悔しかった。惨めだった。

どうして私だけが、こんな思いをしなければならないのか。

いや、違う。私が全てを台無しにしたのだ。葵は何も悪くない。悪いのは全部私だ。

ごめんなさい。葵、本当にごめんなさい。

心の中で何度謝罪の言葉を唱えても、声にはならなかった。喉の奥がカラカラに乾いて、呼吸をするのすら苦しい。今の私が、どの面を下げて葵に話しかけられるというのか。


これ以上、あの眩しい光景を見ていられなかった。

私は逃げるようにその場を立ち去ろうと、静かに背を向けた。

その時だった。


ふと、強烈な視線を感じて振り返ると、ベンチに座っている吉野亮太と目が合った。

葵は手元のパンに夢中になっていて、私の方には全く気づいていない。亮太だけが、私の存在に気づき、静かに、そして鋭くこちらを見据えていた。


その瞳には、怒りすら浮かんでいなかった。

ただ、道端に転がっている汚いゴミを見るような、徹底的に冷ややかで、無慈悲な視線。

『お前はもう、俺たちの世界には存在しない人間だ』

『これ以上、葵の視界に入るな』

声に出さずとも、彼がそう告げているのがはっきりと分かった。


亮太は一瞥だけ私に視線を向けた後、何事もなかったかのように葵の方へ向き直り、彼女が落としたパンの欠片を笑いながら拾ってやった。葵が照れくさそうに笑い、亮太の肩に軽く寄りかかる。

亮太は葵に私の存在を一切教えなかった。私という存在を、葵の人生から完全に排除して、彼が絶対的な壁となって彼女を守っているのだ。


完璧に閉ざされた、彼らだけの世界。

私は、完全に敗北したのだ。


逃げるようにキャンパスを飛び出し、アパートへと続く道を夢中で走った。

息が切れ、肺が焼けるように痛い。目からはボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちて、視界がぐにゃぐにゃに滲んでいた。

誰かに見られているかもしれない。すれ違う人が私を笑っているかもしれない。でも、もうどうでもよかった。


私が大切に抱え込んでいた、硝子細工のような優越感。

それは、いとも簡単に砕け散り、その鋭い破片は全て私自身の体を切り裂き、血だるまにした。

葵はもう、私のことなんて微塵も気にしていないだろう。彼女の心の中には、親友だった私との思い出も、私から受けた裏切りの傷も、少しずつ過去のものとして薄れていっているはずだ。

それが一番残酷だった。憎まれることよりも、怒られることよりも、完全に無関心になられることの方が、遥かに恐ろしく、私の心を壊していった。


アパートの部屋に転がり込み、震える手で鍵をかける。

薄暗い部屋の中で、私はそのまま床に力なく崩れ落ちた。


「ああ……っ、あぁっ……」


喉の奥から、惨めな、獣のような嗚咽が漏れた。

誰も助けてくれない。誰も慰めてくれない。

Twotterを開けば私への悪口が溢れ、MINEを開けば孤独だけがそこに鎮座している。

私が自分で選んだ道の果てには、この凍えるような泥濘と孤独しか待っていなかった。


冷たい床の上にうずくまりながら、私は両手で顔を覆った。

自分の犯した罪の重さと、二度と取り戻せない葵との温かい過去を思いながら、私はただ、枯れるまで泣き続けることしかできなかった。

硝子の優越感の果てに待っていたのは、永遠に続く、自己嫌悪と孤独の暗闇だけだった。

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