表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
幼馴染がクズな彼氏に裏切られた。……「もう遅い」はずの僕たちの、不器用なやり直し  作者: novelnovel


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
7/9

サイドストーリー:堕ちた偶像の末路

薄暗いワンルームの自室。分厚い遮光カーテンを閉め切った部屋には、昼夜の区別すらない。

床には空き缶やコンビニ弁当のゴミが散乱し、鼻を突くような酸っぱい悪臭が漂っている。万年床となったベッドの上に寝転がり、俺、一ノ瀬拓海は虚ろな目で天井の染みを見つめていた。


枕元に放り投げたスマートフォンは、もう何日も鳴っていない。

かつては、画面を開けば無数のメッセージが並んでいた。サッカー部の仲間からの遊びの誘い、大学の女子たちからのチヤホヤするようなMINE、そして、誰よりも俺を気遣ってくれていた彼女、星野葵からの温かい言葉。

今の俺のスマホには、そのどれもが届かない。通知が来るのは、どうでもいいアプリの宣伝やニュース速報だけだ。


「……くそっ」


乾ききった唇から、かすれた声が漏れた。

寝返りを打つと、右足首に鈍い痛みが走った。怪我の治療のために通っていたリハビリも、もう二週間以上サボっている。どうせ治ったところで、俺が戻る場所なんてどこにもないのだから。


あの日。

夕暮れの公園で、葵に「もう遅い」と冷たく言い放たれたあの日から、俺の人生の歯車は完全に狂い、そして音を立てて崩れ去った。


俺は大学で、誰もが羨むような完璧なポジションにいたはずだった。

サッカー部のエースストライカー。次期キャプテン候補。ルックスも悪くなく、周囲からは常に中心人物として扱われていた。そして隣には、自慢の彼女である葵がいた。

すべてが順風満帆で、俺の人生は勝者のレールの上に乗っていると信じて疑わなかった。


だが、それはただの虚像だったのだ。

怪我によるスランプ。後輩の台頭。監督からの無言のプレッシャー。

『一ノ瀬ならやってくれる』という周囲の期待が、少しずつ俺の首を絞め始めた。弱音を吐くことは許されなかった。エースである俺は、常に強くて、自信に満ちていなければならなかったからだ。


葵の前でもそうだった。彼女は俺を『完璧な彼氏』として見ていた。彼女のあの純粋な、一点の曇りもない尊敬の眼差しが、俺には息苦しかった。

『俺はそんなに凄い奴じゃない』。そう言えればどんなに楽だっただろう。だが、俺は自分のちっぽけなプライドを守るために、葵の前で虚勢を張り続けた。


そして、そのプレッシャーから逃げるために、俺は最悪の選択をした。

葵の親友である、松下結衣。

彼女は俺の弱さを肯定してくれた。『無理しなくていい』と、甘い言葉で俺の傷を舐めてくれた。結衣と一緒にいる時だけは、エースとしての重圧から解放され、ただのダメな男でいることが許された。

それが底なしの沼だと気づきもしないまま、俺は一時的な快楽と安堵に溺れ、大切なものを自らの手で踏みにじったのだ。


その結果が、これだ。


葵に振られた数日後、俺はすがるような思いで結衣を呼び出した。

もう俺には結衣しかいない。お互いに傷を舐め合い、このどん底から這い上がるしかない。そう思っていた。

しかし、大学近くの薄暗いカフェで俺を待っていた結衣の目は、氷のように冷たかった。


『……何の用?』

『結衣、俺、葵に振られた。完全に終わったんだ。……なあ、俺たち、これからちゃんと付き合わないか? お前だけが、俺の理解者だ』


俺が必死にそう伝えると、結衣は鼻でふんと嗤った。


『は? 何言ってんの、あんた』

『え……?』

『あんたが葵に誤爆MINEなんてマヌケなことするから、私の立場まで最悪になったんじゃない。あんたのせいで、私が大学でどういう目で見られてるか分かってる?』


結衣の声には、明らかな憎悪が混じっていた。


葵が大学を休んでいる間、俺と結衣の浮気疑惑はあっという間にキャンパス中に広まった。

特に結衣に対する風当たりは苛烈だった。「親友の彼氏を寝取った最低な女」「匂わせ投稿でマウントを取っていたイタい女」。そんなレッテルを貼られ、結衣もまた周囲から完全に孤立していたのだ。


『私だって被害者よ! あんたが無理やり迫ってきたんじゃない。私はただ、相談に乗ってあげてただけなのに!』

『なんだと……!? お前だってノリノリだっただろ! 俺と会ってること、わざとSNSにアップして楽しんでたくせに!』

『うるさい! もう二度と私に連絡してこないで。あんたの顔なんて見たくもない』


結衣はそう吐き捨てると、テーブルにコーヒー代を叩きつけ、俺を残して店を出て行った。

残された俺は、周囲の客からの冷たい視線を浴びながら、ただ呆然と座り尽くすことしかできなかった。


逃げ場だったはずの結衣にとって、俺はただの「優越感を得るための道具」に過ぎなかったのだ。

葵という完璧な存在に勝つためだけの、都合のいいトロフィー。

それが無価値なガラクタだと分かった途端、彼女はためらいもなく俺を捨てた。

俺たちが共有していたと思っていたあの時間は、お互いのドロドロとした欲望をぶつけ合っていただけの、ひどく薄汚いものだったと思い知らされた。


そして、俺の転落はそれだけでは終わらなかった。


結衣との決裂からさらに数日後。

俺は現実から目を背けるように、サッカー部の練習グラウンドへと向かった。

葵や結衣を失っても、俺にはまだサッカーがある。ここで結果を出せば、またみんな手のひらを返して俺をチヤホヤするはずだ。俺はエースなんだ。

そんな都合のいい妄想にすがりつきながら、俺はスパイクの紐を結んだ。


しかし、グラウンドの空気は、以前とは全く違っていた。


俺がピッチに入っても、誰も声をかけてこない。

かつては「一ノ瀬さん、おはようございます!」と元気に挨拶してきていた後輩たちは、俺と目を合わせようともせず、そそくさと遠ざかっていく。

同級生のチームメイトたちも、遠巻きに俺を見ながらヒソヒソと耳打ちをしているのが分かった。


『おい、来たぜ。星野さんを裏切ったクズ』

『よく顔出せるよな。女関係で揉めて練習サボってた癖に』

『どうせ怪我も治ってないんだろ。もうあいつの時代は終わりだよ』


声には出さないものの、彼らの冷ややかな視線がそう雄弁に語っていた。

俺は唇を噛み締め、一人で黙々とウォーミングアップを始めた。実力で見返すしかない。そう自分を奮い立たせた。

だが、全体練習が始まると、俺は紅白戦のメンバーから完全に外されていた。

スタメンはおろか、控えチームのベンチにすら俺の名前はなかった。代わりにエースのポジションに入っていたのは、一つ下の後輩だった。


『監督! なんで俺が外されてるんですか!』


俺は耐えきれず、戦況を見つめる監督の元へ駆け寄って抗議した。

監督はゆっくりと俺の方を振り向き、冷ややかな、虫ケラでも見るような目で俺を見下ろした。


『一ノ瀬。お前、今自分がチームでどういう立場か分かっているのか』

『立場……? 俺は、怪我が治ればすぐにでも……』

『怪我の問題じゃない』


監督の低い声が、俺の言葉を容赦なく遮った。


『私生活の乱れは、必ずプレーに出る。お前のあの軽薄な騒動は、部の士気を著しく下げるものだ。それに、練習を無断で休んでおきながら、自分のポジションが保証されているとでも思っていたのか?』

『それは……!』

『お前にはもう、エースとしての自覚も、責任感も残っていない。チームの輪を乱すだけの存在だ。今のグラウンドに、お前の居場所はない』


目の前が真っ暗になった。

周囲の部員たちが、冷ややかな目で俺を取り囲んでいる。誰も俺を庇おうとしない。誰も俺を必要としていない。

怪我で焦っていたのも、プレッシャーに潰されそうになっていたのも、誰も理解してくれなかった。いや、理解しようと努力する価値すらないと切り捨てられたのだ。


俺は言葉を失い、逃げるようにグラウンドを後にした。

背中越しに聞こえてきた「自業自得だろ」「せいせいしたわ」という声が、俺の心に致命的なトドメを刺した。


すべてを失った。

彼女も、逃げ場も、そして俺のアイデンティティだったサッカーも。

俺に残されたのは、ただの「浮気をして親友に手を出したクズ男」という汚名だけ。

大学という狭いコミュニティの中で、俺の社会的な命は完全に絶たれたのだ。


それからというもの、俺は大学に行くこともなくなり、こうして薄暗い部屋で無気力な日々を送っている。

昼夜逆転の生活。酒とタバコとインスタント食品のゴミの山。

鏡に映る自分の顔は、かつての爽やかなスポーツマンの面影など微塵もなく、無精髭を生やした薄汚い負け犬の顔だった。


「……葵」


誰もいない部屋で、無意識にその名前を呼んでいた。

あんなに近くにいたのに。いつも俺の右隣で、太陽みたいに笑ってくれていたのに。

俺がどんなに機嫌が悪くても、冷たく当たっても、彼女は決して俺を見捨てようとはしなかった。

『拓海くん、無理しないでね』

あの優しい声が、今になって鮮明に脳裏に蘇る。


俺が本当に守るべきだったのは、ちっぽけなプライドなんかじゃない。葵のあの笑顔だったんだ。

プレッシャーに押し潰されそうなら、かっこ悪くてもいいから、葵にすべてを打ち明けて縋ればよかった。彼女なら、絶対に俺を笑ったりしなかった。ダメな俺も受け入れて、一緒に泣いてくれたはずだ。

それなのに、俺は彼女を信じず、裏切り、最も残酷な形でその心を壊してしまった。


後悔が、鋭いナイフのように俺の胸を何度も何度も突き刺す。

やり直したい。時を戻したい。あの日に帰って、誤爆なんてする前の自分を殴り殺してやりたい。

だが、時間は決して戻らない。葵の「もう遅い」という冷たい宣告が、それが覆ることのない真実であることを俺に突きつけている。


数日前のことだ。

部屋の食料が尽き、俺は這いずるようにして深夜のコンビニへ向かおうとした。

その時、アパートから少し離れた大学近くの通りで、俺は見てしまったのだ。


街灯の下を、並んで歩く二人の男女。

星野葵と、吉野亮太だった。


俺は反射的に電柱の影に身を隠し、息を殺して二人を見つめた。

葵は、俺と付き合っていた時に着ていたような、大人びた無理のある服は着ていなかった。少しゆったりとしたカジュアルなニットに、スニーカー。メイクも薄く、昔の彼女に戻ったようだった。

だが、その表情は……俺が見たこともないほど、自然で、柔らかく、そして心底幸せそうな笑顔だった。


吉野が何かを言うと、葵は声を上げて笑い、吉野の肩を軽く叩いた。

吉野は少し呆れたような顔をしながらも、その瞳はひどく優しく葵を見つめている。

二人の間には、誰にも入り込めないような、温かくて絶対的な信頼関係が築かれていた。


俺の隣にいた時の葵は、あんな風に笑っていただろうか。

いつも俺の顔色を窺い、嫌われないように必死に背伸びをして、どこか無理をして笑っていなかったか。

俺は彼女をアクセサリーのように扱い、吉野は彼女を心から大切にしている。

その決定的な違いが、痛いほどに分かってしまった。


吉野は、俺が葵を壊したあの絶望の中で、彼女の手を引き、救い出したのだ。

俺が逃げ出し、投げ出したものを、あいつは命懸けで拾い上げた。

今、葵の隣にいるのは俺ではない。彼女を本当に笑顔にできるのは、俺ではないのだ。


俺は声をかけることなど到底できなかった。

一歩でもあそこに近づけば、吉野に殺されるかもしれない。いや、葵のあの笑顔を一瞬にして恐怖に染め上げてしまう自分が、心底恐ろしかった。

俺は自分がひどくちっぽけで、薄汚いバケモノに思えた。


そのまま踵を返し、逃げるようにアパートへと走り出した。

涙がボロボロと溢れ出し、夜風に冷やされて頬を濡らした。

悔しいんじゃない。悲しいんじゃない。

ただ、自分がしでかしたことの重大さと、取り返しのつかない喪失感が、巨大な波となって俺を飲み込んでいったのだ。


「ああああああっ……!!」


部屋に戻った俺は、誰に聞かれることも気にせず、獣のように泣き叫んだ。

ベッドの上の枕を壁に叩きつけ、空き缶を蹴り飛ばし、自分の髪を狂ったように掻き毟った。


因果応報。

自業自得。

どんな言葉を並べても、今のこの圧倒的な絶望を表現することはできない。

俺はすべてを手に入れていた。それなのに、自分の弱さと愚かさのせいで、すべてをドブに捨てたのだ。


「ごめん……葵、ごめん……っ」


いくら謝っても、その言葉は誰にも届かない。

虚像のエースだった男は、今や誰からも見向きもされない、底辺を這いずるだけの負け犬に成り下がった。

外の世界では、葵と吉野が新しい時間を刻み始めている。結衣もまた、別の場所で生きているだろう。サッカー部も俺抜きで前へと進んでいる。


俺だけが、この暗くて臭い部屋の中で、止まった時間の中に取り残されている。

これから先、俺の人生に光が射すことなど二度とないだろう。

壁に寄りかかり、ずるずると床に崩れ落ちた俺は、膝を抱え込み、ただ無意味な涙を流し続けることしかできなかった。


これが、甘い誘惑に負け、大切なものを裏切った男の、惨めで空虚な末路だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ