第33話 奇跡は起きない
「……本当に、学園長なんですか?」
俺は呆然としたまま、そう口にしていた。
彼がいつも着ていた紺と白の法衣は破れ、束ねていた長い白髪は乱れてぼさぼさになっている。
はだけた肌には、何度も傷ついた歴戦の痕が刻まれていた。
だけど、探究心に満ちたその目だけは変わっていない。
「君は?」
メルキオールが訝しげに尋ねた。
あぁ、そういえばこの姿で会うのは初めてだったな。
「こんな見た目ですけど、ロスマンです」
「なんと」
メルキオールは俺の頭に手を伸ばし、ふさふさした毛を撫でた。
「実に面白い」
そう言って俺の耳をめくったり、頬をつついたりして、観察を始めてしまった。
あの、俺、血反吐まみれなんですけど。
「地獄で君の声を聞いた」
「俺の?」
「あの時、私は悪魔に食われ、その喉元を滑り落ちた。そして辿り着いたのは、地獄だった」
メルキオールが手を止めて、俺に肩を貸して立たせる。
「っ……」
「悪魔の跋扈する屍山血河で途方に暮れていたとき、君の『来い』という声が聞こえた。きっと『帰れ』の文言が反転したのだろうな。それを頼りにここまで来られたのだよ」
メルキオールのその言葉に、俺は暗い表情で言った。
「そうですね。悪魔もそのせいで地上に溢れていますが……」
「ロスマン君。何事も二面性がある。あれは忌むべき事故だったが、そのおかげで私は帰ってこれた。礼を言おう」
複雑な気持ちだったが、なぜか涙が溢れてきた。
「俺……」
「おっと、再会を喜ぶのは後にしよう。まずは厄介事を片付ける」
その言葉と同時に、万魔の主の唸り声が響いた。
『……小賢しい』
俺は血の混じった唾を吐き捨て、ふらつく足に力を込めた。
さっきまで限界だった身体に、もう一度だけ火が入る。
「結界石で魔法陣ごと封印します。時間を稼いでください」
「よろしい。君は休んでいたまえ」
「やれますよ」
「ならば、よし」
万魔の主が翼を広げる。
空気がわななき、クレーターの底に熱風が渦巻いた。
『少しは歯ごたえがあるようだ』
それにメルキオールが反応した。
「私は地獄で悪魔を食らい、血を啜って生き延びたが、中々美味だったぞ」
うお、煽るね。
『何、だと……』
「貴様らに、食われる側の気持ちを分からせてやろう」
『お前――』
万魔の主が吠えた。
憎しみを込めた咆哮が、クレーターの中を反響する。
『骨も残さず焼き尽くしてくれるわ!!』
万魔の主は、号ッと炎を吐いた。
俺はすかさず風を吹かせて防御する。
「【ウィンド】」
俺たちの前に風洞ができ、炎が左右に分かれていく。
そして――
「実に器用な魔法だな。さすがロスマン君」
「褒めてないで、やってください!」
メルキオールは不敵に笑い、構えを取った。
「【ライトニングボルト】!」
轟音。
俺のものとは比べ物にならない太い稲妻が、炎を切り裂きながら逆流していく。
『クッ!!』
万魔の主が翼でガードする。
しかし肩口を撃ち抜かれ、その巨躯をわずかに傾かせた。
そこへ俺が潜り込み、脇腹に渾身の右ストレートをぶち込んだ。
『ぬう……! 小癪な!』
振り払われた腕――その下をかいくぐる。
「ロスマン君、跳ぶのだ」
「はいよ!」
言われるまま横へ跳ぶ。
「三連――【ライトニングボルト】!」
直後、俺がいた場所を三本の雷光が通り抜けた。
『――ガアアアアッ!』
雷が万魔の主の全身を焼く。
「今だ!」
俺は地を蹴り、奴の股下をくぐって背後に出る。
そして延髄、脊柱、腰椎にマッハの正中三連突きをぶち込む。
ごりっ、と拳がめり込んだ。
『がっ……』
前のめりに崩れ落ちる万魔の主。
だが、俺の顔面めがけて尾が飛んできた。
「うおっ!」
不気味な唸りをあげる尻尾を、紙一重で躱す。
そんなのもあるのかよ!
『おのれ、ちょこまかと』
メルキオールはその間にも詠唱を終えていた。
「十連――【ライトニングボルト】!!」
やべ、緊急回避!!
十本の雷が、時間差で、角度を変えて、万魔の主へ降り注ぐ。
『オオオオオオッ!!』
万魔の主が両翼を身にまとい、雷を防ぐ。
だが防ぎきれていない。
灰色の外殻が焼け、紫の比翼が裂けていく。
『フゥ……フゥ……!』
それでも、倒れない。
「今のも耐えるか……」
学園長がひりついたように言った。
俺は彼の隣に帰って来ると、冷たい目を向けた。
「今、俺ごと焼こうとしませんでした?」
「なあに、君なら躱す」
さいですか。
クレーターの縁では、決死隊が今も悪魔の群れと戦っていた。
神官たちは三方向に散らばり、祈りを重ねている。
結界石から伸びた淡い光の線が、少しずつクレーターの上空を結び始めていた。
もう少しだ。
万魔の主は、俺たちを見比べるように首を巡らせたあと、ふいに視線を上へ向けた。
兵士長と神官たち。
まずい。
「学園長!」
「分かっている!」
だが遅かった。
万魔の主の、タールの流れる黒い眼窩に、赤い光が灯る。
その刹那。
鋭い光線が放たれた。
光線はクレーターの側面を焼きながら、一直線に神官たちへ向かう。
焼けた土が爆ぜ、石が溶ける。
あんなもの食らったら、神官団ごと蒸発する。
「やめろオオオオ――!!」
「【ホーリーライト】」
上から、光が降った。
白金の輝きが、光線の進路へ割り込む。
眩い光の壁が赤い奔流を受け止め、ぶつかり合った衝撃がクレーター全体を揺らした。
さらに、その光の余波だけで、周囲にいた悪魔たちが悲鳴を上げて消し飛ぶ。
俺は思わず、上を見た。
クレーターの縁に、人影が立っていた。
逆光の中でも分かる。
槍を肩に乗せ、全身を聖属性の光輝に包まれた男。
ルークだった。
「……生きていたのか!」
俺が叫ぶと、ルークはこっちに向かって手を振った。
「なんか急にー! 聖属性のコツがー! 分かりましてー!」
なんだその雑な説明は。
だが、そうか……理解した。
「死亡フラグ重ねすぎてオーバーフローしたんだ!」
ルークは、槍を掲げた。
「【ディバイングレイス】!」
空から、無数の光が降り注いだ。
雨のように。
木漏れ日のように。
裁きのように。
広範囲に降り注ぐ聖なる光が、クレーターの斜面を這い上がっていた悪魔どもを次々と焼き払っていく。
フィーンドが、ヘルハウンドが、ワーボアが、光の中で灰になっていった。
決死隊の兵士たちが、呆然と空を見上げる。
そして神官たちは、祈りを捧げながら涙ぐんでいた。
「これは……勇者の光……!」
「おお……勇者が誕生した……!」
ルークはそのまま、背に光の翼を展開した。
おいおい、盛り過ぎだろ。
そんなに処理できないよ。
彼はふわりと宙へ浮き、そのままクレーターの底へ降りてくる。
俺とメルキオールの隣に着地すると、照れくさそうに頭をかいた。
「サン殿、遅れちゃいました!」
「いや、間に合ったよ。ありがとう」
「ロスマン君、こちらは?」
「え、サン殿?」
ごちゃごちゃしてきたな。
「説明は後です。雰囲気で理解してください」
俺が目配せすると、二人が万魔の主の視線に気づいた。
『光……忌々しい……』
「あー……そうですね」
「うむ。まずはこのデカブツを処理しよう」
俺は気配を消して左へ。
ルークは槍を構えながら歩いていく。
メルキオールは後方で魔法の詠唱に入った。
万魔の主がルークへ腕を振るう。
だがルークは、以前とは別人みたいな動きでそれを躱した。
槍が光を帯び、灰色の外殻を切り裂く。
『グッ……これほどとは……!』
万魔の主がよろめいた。
カチ。
どんっ!
『ハアアッ!!?』
こっそり敷設した地雷が爆発し、奴が空中に跳ね上げられた。
でも――
「これ、あんまり威力はないな」
ごめん、ただの嫌がらせだったわ。
万魔の主は空中で翼を広げ、体勢を立て直した。
そこへ、メルキオールが激しく畳み掛けた。
「百連――【ライトニングボルト】!!!」
嘘だろ、百連って言ったぞこの人。
無数の雷光が、鞭のように、剣のように、矢のように、万魔の主へ襲いかかる。
頭を打ち、翼を裂き、脚を穿つ。
その雷の檻の中へ、ルークが飛び込んだ。
槍が、太陽みたいに輝く。
「これで――終わりだあああああっ!!」
聖なる一撃が、万魔の主の胸を貫いた。
『オオオオオオオオオオオオオッ!!』
巨体がぐらりと傾き、胸から腹にかけて、大きく裂ける。
胴体が千切れかけたまま、それでもなお奴は倒れない。
「閉じ込められますよ! 脱出してください!」
クレーターの上から、神官の声が響く。
見上げれば、三つの結界石を結ぶ光が、ついにクレーター全体を覆い始めていた。
地獄の釜の蓋が、閉じようとしている。
「逃げるぞ!」
俺たちは一斉に駆け出した。
だが、その瞬間。
死にかけの万魔の主が、最後の力で腕を伸ばした。
灰色の巨大な手が俺の足を掴む。
「うおっ!?」
引きずられる。
『逃さんッ! お前だけはッ!』
俺、なんかしたっけなあ!?
「サン殿!」
ルークが振り返り、光の槍を一閃した。
万魔の主の腕が、肘から先ごと斬られて飛ぶ。
俺は転がるように脱出した。
その直後、メルキオールが振り向きざまに指を向ける。
「往生際が悪いぞ――【ライトニングボルト】!」
雷光が、胴体の千切れた万魔の主を撃ち抜いた。
そのまま奴の体は、壊れた魔法陣の穴へ叩き落とされていく。
『オ、オオオオオ――』
断末魔が、地の底へ吸い込まれていった。
◯
――はぁ……はぁ……――
全速力で駆け上がる俺たちの後ろで、結界が閉じていく。
クレーター全体を覆う光の蓋が完成し、壊れた魔法陣ごと、地獄との接続を遮断する。
吹き上がっていた熱風が止まり、硫黄臭さが薄れていく。
静かだった。
あれほど騒がしかった戦場の最後は、あっけないほど平穏だった。
俺は唾を飲み、息を吸うと呟いた。
「……終わった?」
土の上にへたり込んだルークが噛みしめるように漏らす。
「やった……俺たち……やったんですね……!」
クレーターの縁では、決死隊の兵士たちが互いの無事を確かめ合っていた。
兵士長も生きている。
神官たちは泣きながら何度も印を切って祈っていた。
そこで、ようやく一息ついた。
「いやあ、死ぬかと思いました」
「君は実際、かなり死にかけていたね」
「学園長こそ、なんで地獄から生還してるんですか? てっきり死んだものだと思ってましたよ」
俺が聞くと、メルキオールは顎に手をやって考え込んだ。
「ふむ。あれから何日経ったのだろう。時間の感覚がないのだ」
「四年ですよ」
「そんなに」
メルキオールは目を白黒させていた。
今度はルークに声をかけた。
「勇者ルーク。いいとこ全部持っていったな」
「ええ? 勇者ですか……参ったな……」
「なあ、どうやって覚醒したんだ?」
俺が尋ねると、ルークは笑った。
「なんでなのかは分かりませんが、きっと神様のおかげですよ」
「神様ねぇ……」
「信じてないんですか?」
信じてるさ。
嫌というほどな。
「サン殿、ルーク、おお、そちらのご老人も。見事な戦いぶりでした」
兵士長が近づいてきて、深く頭を下げた。
「皆のおかげで、王都は救われました」
「まだまだこれからですよ」
「それでも、大きな一歩です」
そう言って、彼は珍しく笑った。
決死隊の兵士たちも、神官たちも、疲れ果てた顔で、それでも笑っていた。
奇跡は起こらないから奇跡という。
俺たちの勝利は、奇跡なんかじゃない。
自力で掴み取った結果なんだ。
かつん――
何かが地面に落ちる音がした。
見ると、俺の懐から、セレスティアに貰った万年筆が転がり落ちていた。
戦いの最中に服が破れたせいだろう。
「あっ」
俺は万年筆を追いかけて手を伸ばした。
そのとき。
世界が止まった。
風が止む。
兵士たちの笑顔が止まる。
神官の涙も、ルークの瞬きも、全部がぴたりと止まる。
俺の身体も止まっていた。
かがんだ姿勢のまま、指先だけが万年筆に届かない。
「……なにこれ」
ちょこ、ちょこ、ちょこ。
小さな足音がした。
視線だけ動かすと、そこにいたのは一匹の猫だった。
左手を上げた、招き猫。
なんで?
『下らない理由で死にそうだにゃあ』
口は動いていない。
なのに声が頭の中に響いてくる。
「だれ?」
招き猫は胸を張った。
『我はケットシーの神、ミュー様なのにゃ』
その名を聞いて脳裏に浮かんだのは、ケットシー村の入り口に描かれた招き猫。
俺がセレスを連れて村に帰ったとき、くぐり穴を魔力鏡に通してみたら、落書きみたいな光の線が見えたんだ。
あれにそっくりだ。
『サン、お前をずっと見ていたにゃあ。危なっかしくてミューの寿命は縮んだにゃあ』
「と、言われても……」
ミューは左手を上げたまま、俺を見上げた。
『同族のよしみにゃ。一度だけ、死を回避させてやるにゃ』
ふいに、俺だけ時間が動いた。
「っと、と……」
姿勢を立て直す。
だけど周囲はまだ止まったままだ。
『さ、雷から離れるにゃ』
雷?
ミューのその言葉で、俺は空を見た。
雲の間に、青白い光が渦巻いている。
見覚えがあった。
あれだ。
最初にメルキオールがぶっ放して、上空へ逸れていったライトニングボルト。
帰ってきたのかよ。
ツバメじゃねーんだぞ。
しかも、落ちる先は。
目の前に転がっている、万年筆。
俺はもう一度、万年筆を拾おうとして手を伸ばした。
だけど届かない。
なにか見えない壁でもあるみたいに、指先が弾かれる。
『動けるのはお前だけにゃ』
ミューが言った。
『願いは一つまでと相場は決まってるにゃ』
俺は少しだけ考えた。
『どうしたにゃ? 早くどくにゃ』
――やるべきことはやりきった。
自分の命に、もう未練はない。
「俺より、万年筆を守ってくれ」
ミューが目を丸くした。
『にゃおん! それじゃお前が死ぬにゃ』
「大切なものなんだ」
『命よりもかにゃ?』
「そうかもな」
ミューは無言で俺を見ていたが、やがて上げていた左手を下ろし、代わりに右手を上げた。
『変なやつにゃ』
すぐに見えない壁は消えた。
俺は万年筆を拾い上げ、しっかりと握る。
ミューが、ちょこんと首を傾げた。
『バイバイにゃ』
時間が動き出した。
風が吹く。
そして俺は、万年筆を握ったまま顔を上げた。
ただ視界が真っ白になって、次の瞬間には全部が消えた。
◯
気づけば、あの場所に倒れていた。
天国の手前。
白くて何もない場所。
――万年筆はあった。
「ありゃ!? 順調そうじゃったのに、何で死んだんじゃ?」
白いひげ。白いローブ。邪神エントロピアが俺を覗き込んでいた。




