第32話 共犯者の帰還
神官が腹ばいになりながら、クレーターをのぞき込む。
「むう……吐き気をもよおす光景ですな」
俺も縁から身を乗り出し、目を凝らしてみる。
クレーターの表面は焼け焦げた土に覆われ、一部ガラス化した石がへばりついている。
空気は熱く、重く、硫黄臭い風が湧き上がってきていた。
「見えますか? あれが封印対象です」
俺の目には、底の方に魔法陣だったものが見えていた。
天国を探すために、俺とメルキオールが四年前に描いたものだ。
外周の補助環がねじ切れ、古代語の刻印はばらばらに砕け散っている。
そして一本の丸い線だけが残り、その内側にはぽっかりと暗い穴が口を開けていた。
「……ここからではよく見えませんが、まるで魔法陣のようですな」
「いや、魔法陣ですよ。人が描いたものです」
俺が言うと、神官たちが一斉にこちらを見た。
「どっかのイカれた研究者が暴走し、禁忌に触れたんでしょう。その結果がこれです」
「まさか、そんな……!」
神官が怒りに震えていた。
これまで王都が滅んだ理由は定かではなかった。
地獄の侵攻か、はたまた、ただの災害なのか、それすらはっきりしない。
魔王の仕業、との噂もあったし何ならそれが最有力だった。
ところがどっこい、戦犯はここにいる。
死んで詫びろというならそうするし、その準備はできている。
だが、実験を妨害し、魔法陣を地獄に繋いだ張本人を野放しにしたまま死ぬことはできない。
邪神、エントロピア。
あいつを殺すために俺は生きている。
「ですが……どうやってあそこまで行くのですか?」
神官がクレーターの底を見下ろしながら言った。
確かに。
クレーターは巨大だし、深さは二十メートルぐらいある。
あそこまで降りて魔法陣を封じる――
言うのは簡単だが、実際にやるとなるとかなり厳しい。
兵士長が鎧を脱ぎながら言った。
「私たちが背負って降ります。おい、誰か! 神官殿を運ぶ係と装備を持つ係に別れろ!」
それを聞いた神官たちの顔がサッと青ざめた。
「この穴を……背負って……?」
「なに、貴殿らは軽いですからな。問題ありません」
神官が印を切って両手を合わせる。
「神のご加護を……」
そう呟いた、そのときだった。
魔法陣から、何かが這い上がってくる気配がした。
「――しっ」
身をかがめて、息を殺す。
「なんだ、あれは……」
兵士の誰かが、かすれた声を漏らした。
それは、醜悪にして荘厳な化け物だった。
まず見えたのは、岩肌のようにひび割れた灰色の、強靭な長い腕だった。
尖った指先で地上の岩を掴み、その巨躯を引きずり出す。
続いて、巨大な角がうねる、おぞましい頭部が這い上がる。
眼は無く、眼窩からは黒いタールが流れ出している。
そして、紫の静脈が浮き出た皮翼を広げながら、禍々しい鱗に覆われた脚を縁にかけた。
悍ましい異形は、その巨躯を完全に地上へ押し上げようとしていた。
上級悪魔――いや、それ以上か。
明らかに格が違う。
俺の第六感を含めた感覚器官が、総動員で危険信号を送ってくる。
あれは、地獄の王だ。
だが、それで終わりじゃなかった。
そいつの足元――魔法陣にあいた穴から、次々と悪魔が飛び出してきた。
フィーンド。
ヘルハウンド。
ワーボア。
ゴリアテ。
黒いスライムや見たことない悪魔も混じっている。
四年前のあの日みたいに、大量の悪魔がうじゃうじゃ湧いてきた。
そして――
地獄の王は、鬱陶しそうに片腕を払った。
その仕草だけで十分だった。
配下の悪魔どもが、一斉にクレーターを駆け上がってくる。
「来るぞ!」
「迎え撃て!」
決死隊が前へ出る。
だが、俺はその光景を見下ろしながら、別のことを考えていた。
あんなところまで神官を連れて近づくことはできない。
途中で食われるのが関の山だ。
俺はすぐに神官へ向き直った。
「ここから封印を張ることは可能か?」
神官は険しい顔をして考え、それからクレーターを見渡した。
「……可能、です」
「本当か?」
「ただし、相当に大きなものになります」
神官は震える指で、三方向を示した。
「三つの結界石を、対角線上の三箇所に設置します。そこを起点に、クレーター全体を覆うような大結界を張るのです」
「つまり、丸ごと蓋をしてしまうのか」
「はい。ですが規模が大きすぎる。時間がかかります」
「他に手は?」
神官は無言で首を振った。
「分かりました」
俺は決死隊を振り返った。
「三手に分かれましょう。神官団は三組に分かれて結界石を設置。決死隊はそれぞれを護衛してください。配分は兵士長にお任せします」
「了解した」
鎧をつけ直した兵士長が返事をする。
「サン殿はどちらへ?」
「俺は、あいつ」
クレーターの底で不気味に佇む、地獄の王。
あれを止められるのは、俺しかいない――はずだ。
「サン殿……」
神官が何か言いかけたが、俺は手で制した。
「どんな犠牲を払おうと、封印を成功させれば勝ちです。踏ん張りどころですよ」
そう言ってから、俺は顔を覆っていたゴーグルに手をかけた。
外して捨てる。
次に、フードも脱ぎ捨てる。
これまで隠れていた耳が、ぴんと立った。
覆われていた目と鼻が、生暖かい空気を捉える。
視界が広がった。
音が増えた。
匂いが流れ込んできた。
これが、俺の本気だ。
初めて俺の素顔を見た決死隊の兵士たちは、目を見張った。
だけど、誰一人として嫌悪を顔に出さなかった。
驚きはあっても、それだけだ。
今さら見た目でどうこう言うような連中じゃない。
ここまで一緒に死地をくぐってきたのだ。
「行ってきます」
俺は短く告げ、クレーターの斜面を蹴った。
砕けた石を踏み、焼けた土を滑るように駆け下りる。
途中で飛びかかってきたフィーンドの脇をすり抜け、ヘルハウンドの牙を紙一重で躱し、そのまま底へ。
雑魚悪魔の間を縫うように走り抜ける。
そして――そいつの前まで辿り着いた。
「こんにちは」
いつもの調子で声をかける。
地獄の王は、ゆっくりとこちらを見下ろした。
『我が名は七つの罪を束ねる王、万魔の主、永劫の闇を纏うもの。呼んだのはお前か?』
名前多いな。
一番短いやつにしとくか。
「万魔の主さんを呼んだ覚えはないですね」
俺がそう返すと、そいつはわずかに首を傾げた。
『我は聞いた。"来い"と。今も鳴り止まない声は、お前のものだ』
来い――
その言葉で、俺はすぐに察した。
魔法陣に刻んだ術式だ。
本来は『帰れ』のはずだったものが、壊れた拍子に反転したのだろう。
だから門が閉じず、今も呼び込み続けている。
あーあ。
最悪だ。
「手違いだ。帰ってくれ」
『報酬を渡すなら、いいだろう』
なんだ?
俺の命か?
「何が欲しい」
万魔の主は両手を広げて言った。
『地上』
ダメだこいつ。
話にならん。
「じゃあ、力ずくで帰ってもらうしかないな」
『それもまた一興』
万魔の主が、ゆっくりと翼を広げた。
その瞬間、圧が来た。
空気がビリビリと震えた。
『ゆくぞ』
俺は先に動いた。
地を蹴り、一気に間合いを詰める。
懐へ潜り込み、貫手を叩き込む。
だが、硬い。
灰色の外殻に弾かれ、俺の手の方が傷ついた。
万魔の主が大口を開け、顔を俺に向けた。
『カアッ!!』
真っ赤な炎を吐き出した。
俺は反射的に魔法を唱える。
「【ウォーター】」
作り出した水の球は一瞬で蒸発した。
だがその一瞬で、俺は炎から離脱する時間を稼いだ。
一旦、距離を取る。
危なかった。
咄嗟に魔法を使わなかったら丸焦げになっていた。
基礎は鬼教官に死ぬほど練習させられたからな。
「そっちからは来ないのか?」
俺は指をクイッと動かした。
『面白い』
フッと姿が消える。
影が落ちた。
――上かッ!
拳が降ってくる。
俺は横へ跳んだ。
直後、地面が砕ける。
破片が頬をかすめた。
こいつ、でかいくせに速い。
俺は、空中で身をよじりながら四つ足で着地する。
顔を上げると、横から蹴りが飛んできた。
腕を交差させる。
衝撃。
身体が吹き飛んだ。
地面を何度も跳ね、ようやく止まる。
「いてぇ……」
口から血が流れた。
歯も何本か吐き出した。
万魔の主は、つまらなそうにこちらを見ていた。
『脆いな』
「うるせえよ」
俺はちらりと視線を外した。
クレーターの縁では、三手に分かれた決死隊と神官団が、それぞれ結界石の設置地点へ向かっている。
悪魔どもがそれを阻もうと群がり、兵士たちが必死に食い止める姿があった。
俺は手をかざし、なけなしの魔力を流した。
「【ライトニングボルト】!」
轟音とともに、稲妻が万魔の主に降り注いだ。
万魔の主は翼をはためかせ、それをまとめて跳ね返した。
なら次。
「【ストーンバレット】!」
目の前で尖った岩石が生成され、砲弾のように飛んでいく。
『ふん、脆弱な』
万魔の主は、手の甲で砲弾を叩き落とした。
「――甘い」
砲弾の影に隠れていた俺は、奴の無防備になった顔の前に躍り出す。
「喰らえ!」
顎先に三連蹴りを叩き込む。
『ぬ……』
奴はガクンと体勢を崩した。
攻撃が効いた!
「――ぐっ!?」
喜んだのも束の間、逆に奴の膝が腹にめり込んだ。
空中に跳ね上げられて、そのまま落下する。
痛みで意識はぶっ飛んでいたが、俺のアビリティが自動で発動した。
落下ダメージカット――シュタッと着地する。
「うっ……」
ゲボゲボと血混じりのものを吐き出す。
息ができない。
痛い。
全身が軋む。
遠くで、神官の祈りの声が聞こえる。
結界石が淡く光り始めているのも見えた。
まだだ。
まだ封印は終わっていない。
決死隊も戦っている。
悪魔の群れに押されながら、それでも神官を守っている。
骨が折れたか、内臓が破裂したか。
どっちでもいい。
俺だけ寝てるわけにはいかない。
「まだ、まだ……」
ふらつきながら立ち上がる。
万魔の主が、今度は本気で腕を振りかぶった。
さっきまでの遊びとは違う。
あれを食らったら終わる。
避ける。
避けるぞ。
俺はあれを避ける。
絶対、避けなきゃ。
だけど、体が、動かない――
「【ライトニングボルト】!」
突然、極太の雷光が目の前を通り過ぎた。
『ヌアッ!!?』
万魔の主に直撃した雷光は、奴を弾き飛ばすと、そのまま上空に逸れて雲の間に消えていった。
「は……へ……?」
魔法陣の中心。
開きっぱなしの地獄から、何かが這い上がってきた。
最初は、また別の悪魔かと思った。
でもそれは、人影だった。
服はボロボロ。
髪も髭も伸び放題で真っ黒に汚れている。
全身が傷だらけで、泥と煤にまみれている。
それでも、その男は地獄の裂け目に脚をかけ、ゆっくりと這い上がってきた。
俺は目を見開いた。
「……がく、えん、ちょう?」
男は顔を上げた。
やつれ果て、変わり果てても、見間違えようがない。
メルキオール・メギド。
彼は俺を見て、かすかに口元を緩めた。
「その名で呼ばれるのは、久方ぶりだね」




