第27話 山精酒
医者の一人が前へ出た。
「侍女長様は胸に深い傷を負っておられる。出血はどうにか止めましたが、熱も高く、脈も弱い。このまま夜を越えられるかも分からない状態です」
侍女長――ストラさんと言ったかな。
白髪を綺麗に結った、上品な雰囲気の年配の女性だ。
だが顔色は青ざめ、呼吸しているのかも分からないぐらい生気がない。
俺はセレスティアに尋ねてみた。
「では、他の方で試してからではどうですか? いきなりその人に使うのが不安なら、別の負傷者に少しだけ試してからでも――」
「ふざけるな」
俺の提案は一蹴される。
「誰であろうと、正体不明の薬の実験台にはできん」
正論だ。
言っていることは完全に正しい。
ぐうの音も出ない。
口惜しいが、ここは一旦引き下がったほうがいいかもな。
「では、お前が飲んでみろ」
セレスティアが小卓の上に置かれた山精酒を指さして言った。
「自分で安全を証明するなら、少しは話を聞く余地もある」
これは……もしかしてチャンスを与えてくれたのか?
信用できないと拒絶すれば終わりのところ、あえて救いの手を差し伸べる。
それほどまでに、山精酒の可能性に賭けたいのだろう。
ストラという女性を、どうしても死なせたくないのだ。
だが――
「いや、それはちょっと……」
「なぜだ!」
セレスティアが目を剥いて身を乗り出してくる。
「母に、『マタタビだけはやってくれるな』と言われているので」
「は?」
「山精酒に使われている材料に種族的な制約があってですね。皆さんが飲む分には問題ありませんが、俺が飲むと無様を晒すことになるので……」
「つまり、自分でも試せないものを、私に薦めたのか?」
正直に言ったのに、ますます疑いの目が強くなった。
「や、だから、俺に効くかどうかと、他の人に効くかは別というか……」
「黙れ」
空気が張り詰める。
護衛たちの剣先がわずかに上がった。
侍女と医者の視線も厳しいものになる。
全員が、その全身全霊で俺を糾弾している。
どうする。
いっそのこと窓から飛び降りてスーパーヒーロー着地で逃げるか。
山精酒はダリアに頼まれたものだが、一応届けることには成功したんだし。
でも、置き去りにして『届けた』って言い張るのも無責任だよなぁ。
そう考えているときだった。
こぽ、と。
小さな音がした。
俺の耳がぴくりと動く。
同時に、鼻先にかすめる独特でスパイシーな匂い。
脳が痺れるようなこの感じは、マタタビを嗅いだときに来るやつだ。
まさか。
俺は反射的に山精酒の方を見た。
ない。
小卓の上に置かれていた瓶がなくなっている。
「あっ」
いつの間にか、寝ていたストラが細い腕を伸ばして瓶を掴んでおり、そのまま栓を抜き、口をつける。
「ストラ様!?」
侍女が悲鳴を上げた。
セレスティアは呆気に取られて目を見開いていた。
ストラは止める間もなく、一気に瓶を飲み干した。
震える喉が、ごくりと上下する。
「ス、ストラ!」
セレスティアが駆け寄る。
だがその前に、ストラの手から空になった瓶が滑り落ちた。
鈍い音を立てて床を転がる。
ストラは荒い息のまま、かすれた声を絞り出した。
「……毒でも、構いません。陛下が……私を案じて傍にいてくれたことはありがたく存じます。けれど、この身が陛下の足手まといになるくらいなら……ここで終わる方が良いのです」
「何を言う!」
セレスティアの声が涙で滲む。
「そんなことを、私が、望むと思うのか……!」
「陛下は見違えるほど立派になられて。もう、思い残すことはありません」
セレスティアはストラのベッドの前に膝をつき、その青白い手に頬を寄せた。
「うっ……、う……」
声を殺して泣くセレスティアの頭を、ストラは優しく撫でながら、穏やかに笑みを浮かべていた。
部屋に沈黙が落ちた。
「……え?」
誰かが、ぽつりと呟いた。
「うそ……」
誰もが息を呑む。
本人たちの知らぬ間に、ストラの身体には劇的な変化が訪れていた。
青白かった頬に、じわりと血色が戻っていく。
まるで時が戻るかのように、肌は内側から艷やかな輝きを帯び、深く刻まれていた皺が、滑らかに消えていく。
それだけではない。
死を目前にして枯れ木のようにやせ細っていたその輪郭が、みるみるうちにふっくらとした、豊かな張りを帯びていく。
白かった髪は、根本から黒髪へと染まっていく。
それは単に治ったという言葉では片付けられない変貌だった。
胸の傷から流れ出ていた死の気配は霧散し、代わりに豊かな生命力が彼女の身体を満たしていく。
――飲めばどんな怪我も治り、体の底から力が溢れて元気になる――
元気になるって……若返りって意味なのか。
「そんな……」
「ありえん……」
さっきまで俺に剣を向けていた護衛たちも、半端な姿勢のまま硬直している。
医者は口を開けたまま見つめ、侍女は両手で口元を押さえていた。
いや、効くかどうか俺も知らなかったんだけど。
「結果オーライ……ってことでいいよな」
セレスティアの頭を優しく撫でるストラは、まるで慈愛に満ちた聖母そのものだった。
「陛下……」
「あの……」
今もなお悲しみに暮れるセレスティアに、侍女と医者が声をかけている。
しかしなんと言えばいいのか分からないようで、手を宙に彷徨わせておろおろしているばかりだ。
早く言ってやれよ。
もう大丈夫だって。
◯
「疑ってすまなかった」
セレスティアはまっすぐ俺を見て言った。
さっぱりとした表情で、涙の跡を拭う。
「ストラを救ってくれた恩に、どう報いればよい」
俺は首を振る。
「報いるなど、とんでもない。さっきも言いましたが、俺は商業ギルドから遣わされてきた、ただの配達人です。山精酒が役に立ったというなら、ソシアリス商業ギルドのマスターであるダリアにお伝えください。きっと喜びますよ」
だがセレスティアは引き下がらなかった。
「秘薬を届けるためだけに、単身でここまでやって来たその胆力。見事と言う他ない。そなたがいなければ、なし得なかっただろう」
そこまで言われると、俺のおかげな気がしてきた。
確かに結構頑張ったよな、俺。
「私からもお礼を申し上げます」
ベッドの上からストラが上体を起こし、朗らかに言った。
「見ず知らずの私のために、貴重な薬を差し出してくださったのでしょう?」
「まあ、結果的にそうなったというか……」
「じゃあ、私が助かったのは偶然なのかしら」
「え? いやそういう意味では」
「ではあなたのお陰ですね?」
「そ、そうですね」
俺が戸惑っていると、ストラはクスクスと笑った。
この人も大分変わったな。
最初見たときは臥せっていたせいか、五十代にも、六十代のようにも見えたが、今は三十代後半ってところだ。
肌はうるツヤ卵肌で、体型もなんていうか、今が全盛期って感じだ。
さっきまで死にかけていた人とは思えない。
「陛下」
そのとき、扉の向こうから慌ただしい声がした。
続いて、ノックもそこそこに一人の兵士が飛び込んできた。
「ご報告します! 教会前に、ゴーグルとフード姿の悪魔が現れたとの報せが――」
室内の視線が、一斉に俺へ集まった。
やめろやめろ!
俺のことだって言いたいのか!
「ち、違いますよ?」
だがその直後、再び別の兵士が飛び込んできた。
「失礼いたします、陛下」
入ってきたのは、年嵩の兵士だった。
顔に見覚えがある。
確か、城壁で防衛を指揮していた兵士だ。
鎧にはまだ戦いの跡が残り、顔にも疲労の色が濃い。
だが、どこか高揚したような雰囲気があった。
「先ほどの報告、訂正を」
「訂正? どうしたというのだ、兵士長」
兵士長と言われたその人は、室内を見回し、俺の姿を認める。
そしてすぐに片膝をついた。
「その者です」
「何?」
セレスティアが眉を上げる。
「城壁に現れた謎の人物――いえ、この方の加勢があったおかげで、西側の防衛線は持ちこたえました。もしあの場にこの方がいなければ、突破されていた可能性が高いかと」
護衛たちがざわめく。
さっき俺を悪魔扱いした兵士も、ぽかんとしていた。
「そうなのか?」
セレスティアが俺を見る。
「少し手伝いましたが、頑張ったのは兵士の人たちですよ」
「手伝いなどと、それで済む話ではありません」
兵士長がきっぱりと言った。
「背後からの奇襲により敵の群れを引きつけ、押し込まれて混乱した戦線を立て直し、崩れた城壁の穴まで塞いでくださった。前線に立つ者の間では、正体不明の援軍が現れたと騒ぎになっております」
自分のことを聞いている間、俺はむず痒さをこらえるのに必死だった。
そういう真面目な話に耐えられるように出来てないんだ、猫の体は。
「これは……勲章を渡さねばならないようだな」
セレスティアはそう言って、改めて俺に向き直った。
「第一級武功勲章、至高救命章、そして国を救った者にしか贈られぬ最高名誉勲章。少なくとも三つは確定だ」
「こ、光栄です」
そう言うと、セレスティアは小さく笑った。
「全然嬉しくなさそうだ」
「そんなことないですけど……」
「どこまでも型破りな男だな。だが、兵たちの気持ちも汲んでやってくれ」
セレスティアが視線で促した先――。
直立不動の姿勢を取った兵士長が、胸に拳を当て、部屋中に響き渡る声で叫んだ。
「――全軍、英雄に敬礼ッ!!」
その号令とともに、部屋にいた護衛の騎士たち、医者、そして侍女までもが、背筋を伸ばして左胸を右手で打つ。
おろろろろ。
俺はどうしたらいいか分からないので、とりあえずダブポーズを決めておいた。




