第3話 北辺侯からの採種依頼
北辺侯領ノルトフェルトへ向かう馬車は、王都を離れるほどに春の色を失っていった。
窓の外では、芽吹きかけた畑が次第に霜色へ変わる。私は膝の上の木箱を抱えていた。播種記録台帳の原本と、母が遺した花名札数枚、それから種子庫の鍵の控えだ。
北辺侯から届いた手紙には、温室再建補助としか書かれていなかった。けれど末尾に一行だけ、『発芽しないはずの種がある』とあった。その言葉に、私は引っかかった。
領都へ着いた頃には、空気が痛いほど冷えていた。迎えに来たのは黒い外套の男だった。三十八歳の北辺侯、レオンハルト・ノルトフェルト本人であると名乗られた時、私は思わず荷を持ち直した。
「使いの方ではなく、ご本人が来られるとは思いませんでした」
「招いたのは私だ」
それだけ言って、彼は私の木箱に視線を落とした。台帳の角が少し見えている。
「記録を持って来てくれたのなら助かる」
馬車を降りてすぐ温室へ案内される。北辺侯家の温室は、王宮のものよりずっと質実だった。華やかな見世物ではなく、苗と薬草と冬越し用の花木を守るための建物。だが半分はガラスが曇り、北棟は霜で白く染まっている。
「先月の吹雪で温床が死んだ」
「修繕記録は?」
レオンハルトは無言で棚を指した。帳面はある。けれど綴じ紐が新しすぎる。私は一冊抜き、開いた。最初の三十頁がごっそり差し替えられている。
「これでは修繕記録ではなく作り直しです」
「だろうな」
彼は怒りもせず、ただ事実として受け止めていた。その静けさが逆に厄介だった。黙っている人は、嘘に慣れてしまっている場合がある。
「どうして私を?」
「王都の園芸局が、君を外すために私へ寄越したからだ」
ずいぶん正直だ。
「それだけでは呼びませんよね」
彼は少しだけ視線を緩めた。
「うちには、毎年春になると咲くはずの紋章花がある。だが三年続けて蕾のまま枯れた。記録を見れば、途中から同じ筆跡の綺麗すぎる帳面になっている」
「発芽しないはずの種というのは」
「凍傷で死んだとされた株から、先週ひとつだけ芽が出た」
案内された北棟の片隅。壊れた温床の脇に、青磁の鉢が置かれていた。名札は『冬星百合』。けれど葉脈の入り方が違う。これは王宮で一度だけ見た、白冠薔薇の親株に近い系統だ。
私は鉢を抱き上げ、土の匂いを確かめた。
「この土、北辺のものじゃないわ」
「わかるのか」
「王都温室の保温灰が混じっているもの」
レオンハルトは初めて、はっきりとこちらを見た。
「それを聞きたかった」
北辺へ来たのは左遷のはずだった。でも、その芽を見た瞬間に思ってしまった。ここなら、私が数えるべき種がまだ残っている。




