第15話 北辺侯は毎朝最初の蕾を見せる
王都行きの出立が決まってから、温室の朝は妙に静かだった。
嵐の前だからかもしれない。あるいは私の方が、胸の内側を騒がせすぎて、外の音を拾えなくなっていたのかもしれない。
そんな朝でも、レオンハルトは変わらず最初の蕾を見せに来る。
今日は白冠系の試験株ではなく、北辺の古い品種《霜灯椿》だった。雪の中でだけ開く赤い花だ。
「王都にはない」
「北辺にも、王都にないものがたくさんありますね」
「だから、君に見せておきたい」
私は椿の蕾を受け取り、少しだけ笑った。
「私、最初は北辺侯家に押しつけられたんだと思っていました」
「その通りだ。王都は押しつけた」
「でも、あなたは違った」
彼はすぐには答えなかった。温室のガラスに朝日が射して、横顔の輪郭だけが明るくなる。
「君の母上の書簡を読んだことがある」
「え?」
「北辺の土で白冠系を残したい、と何度も書いていた。だが王都は見栄えのいい年しか予算を出さなかった」
彼は椿の鉢を台へ置いた。
「君が王都から外されたと聞いた時、たぶん今しかないと思った。記録を守る人が北辺へ来れば、残っているものをつなげられるかもしれないと」
私は言葉を失った。北辺へ来たのは左遷だった。でも同時に、誰かがこちらへ手を伸ばしていたのだ。
「期待外れではありませんでしたか」
「逆だ」
短い返答なのに、胸が大きく鳴った。
「君が来てから、温室番も庭師も自分の仕事を誇らしげに話すようになった」
「それは皆が頑張ったからです」
「君が数字で示したからだ」
私は俯いた。褒め言葉に慣れていない。王都では、きちんとしていて当然だとしか言われなかったから。
その時、レオンハルトが少しだけ身を屈めた。
「王都で何を選ぶかは、君が決めろ」
「証拠を突きつけること以外に、ですか」
「戻る席を差し出されても」
私はすぐ答えられた。
「戻りません」
驚くほど簡単だった。自分でも可笑しくなる。
「もう、誰かに咲かせてもらう花にはなりたくないので」
レオンハルトはゆっくり頷いた。
「なら、帰ってきた時の席を空けておく」
席。温室の中で、仕事の席をそう言ってくれる人は少ない。
私は椿の蕾を掌で温めながら思った。王都へ行く前に、ひとつだけ怖くなくなったことがある。帰る場所が、もうある。




