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その29



     二十九



 夜の闇が幻想郷の山々を包み込み、半分ほど欠けた月が雲間から顔を出して淡い光で地上を照らしている。


 川べりの道を流れを遡る方向へ進んでいくうちに、山からの川の流れが分岐しているところが見えてきた。その二つの流れの間にはさまる形で、大きな木が立っていて、夜目にも分かる白い花をその枝にまとっていた。


「あれが一本桜かな」


 私が言うと、妹紅は小さくうなずいた。


「それじゃ、このあたりまででいいよ。おかげで無事に辿りつけた、ありがとう」


「……お前、ある程度の恐怖は感じているんだろうな?」


「もちろんだ。こういう状況で何も感じないのは病気だよ」


「殴り合いの喧嘩とか、したことあるのか?」


「一方的にからまれたことはけっこうあるな。殴り返したことはないが……」


 たいていの場合、相手は酔っ払ってたりしていたので、本気の喧嘩というわけではない。


「まあいいや、好きにしろ。これ以上はわたしにはもう何もできないんだからな」


 妹紅はくるりときびすを返す。


「あとは、いつもの調子でやってくれ」


 そう言うと、いきなり妹紅は背中から淡い光を放ち、空中へと飛び立って行ってしまった。


 ……やはり怒っているのだろうか?


 私は歩みを進めて、川に架けられた木製の橋を渡り、ゆるやかな三角形の草地へ向かった。一本桜が生えているあたりをホームベースにすれば、野球ができそうなぐらいの広さはあった。周りを囲む林の木々はさしずめ観客席といったところだろうか……。



     **********



 この「一本桜の原」を野球場に例えるならば、右翼の外野席に相当するあたりの林の中、若葉に包まれた常緑樹の枝の上に二つの影が潜んでいた。


「ひっそりとはしてるけど、わたしたち以外にもそれなりにお客が来てるみたいね」


 レミリアは彼女から見て、反対側の方向にある林のあたりを透かして見る。


「けっこうな気配を感じるわ。数だけはね」


「そのようですね……お茶はいかがですか、お嬢様。イングリッシュ・ブレックファストですが」


「夜になって朝向きのお茶をもってくるってところがあなたらしいわよね。いただくけど」


「本来、この時間は吸血鬼にとって朝のようなものでは」


 咲夜は魔法瓶のキャップを開けて、内側に収められているプラスチック製のカップに褐色の液体を注ぐ。


「外界の書物によると、最近の吸血鬼は朝起きて夜眠るのが普通らしいわよ」


 樹の枝がふたつに分かれている部分にクッションを敷いて座っているレミリアは、ドレスの裾の下で脚をぶらぶらとさせる。


「それにしても……できればもう少し近場に陣取りたいところではあったわね。あの桜の木の上とかさ」


 咲夜は紅茶の入ったカップをレミリアに手渡すと、低い草が模様を描くように連なる平地の向こうにぽつんと立っている桜の木に視線を向ける。


「……五分咲きぐらいですね。花の影に姿を隠すにはいまひとつというところです」


「ま、あんなところにいたら、さすがに感づかれるだろうけどね。でも、わたしはいいけど、あなたは現場の様子が分かりにくいんじゃない?」


「いちおう、こういうものを持参してきました」


 咲夜は手提げから黒塗りの小型の器械らしきものを取り出した。それは双眼鏡だった。


「なるほど、オペラグラスね。演劇の鑑賞には最適というわけね」


 レミリアはにやりとした。


「しかしまあ、芝居はなかなか筋書き通りには進まないものだからね……どうなることやら」


 と、川沿いの道の方からオレンジ色の光点が近づいてきた。


「……どうやら主役登場ね。咲夜、しっかり見ておいて」


「かしこまりました」



     **********



 夜ともなると、まだ風が冷たい。暦の上ではもう初夏のはずなのだが。


「…………」


 月がときどき照らしてくれるとはいえ、かなり周囲は暗い。ある程度眼は慣れているが、この状態で戦うというのはなかなか難しそうな気がする。弾幕戦の場合はむしろ昼間のほうがお互いの攻撃の視認性が低いのかもしれないが……。


 ただ、いずれにしても相手の攻撃を眼で追っているようではかわせないだろうという気もしていた。おそらくは、ある種の触覚のようなもの……自分の身体を周囲の空間に拡げたような、そんな感覚が必要になるだろう。


 桜の木の近くまで歩みを進めるうちに、ふと、周囲からの気配を感じた。それは主に、こちらから見て奥の側の林の方からくるもので、複数、というよりかなり多くの『何か』がこちらを視ているという印象だった。つまりギャラリーがいるということか。


 考えてみると、私の側の見物人がいたっておかしくはないことになるが、そこは遠慮しておいたほうがいいという気がしたのだ。妹紅あたりがどれぐらいの格を持った者として周りから認識されているか正直分からなかったが、少なくとも不死人というだけでも妖怪からすると相手にしたくないタイプだということは明らかだ。それに加えて、かつては妖怪退治などもやっていた経歴があるというのだから……。


 いずれにしても、今回の件は相手に主導権を持ってもらったほうがうまくいくだろう。ただ、イヅナ君のあの態度からして、一方的にこちらを舐めてかかっているという印象ではない。むしろ、そこそこの交渉相手となってくれることを私に期待しているように思えた。


 とりあえず桜の木の下に立って、イヅナ君の登場を待つこととした。


 見上げると、まだ満開というほどではないが、闇の中で拡がる白い花の群れは美しかった。このあたりで夜桜見物などというのは、妖怪に囲まれた世界に住む人の身ではなかなか難しいのかもしれない。しかし、結局のところそれは人次第ではないのかという気もする……。


 現状の人と妖怪の関係は、どちらかといえば人の側の恐怖が先行しているように感じられる。そのバランスは果たして適切なのか。バランスというより、距離の問題だろうか……。


 結局のところ、人間の立ち位置は人間自身が考えなければ変化もしないし、改善もしない。単なる妖怪のための資源として扱われることに疑問を持たないようでは、対等の関係など成立し得ない。


「よう。相変わらず早いな」


 眼を上げると、少し離れた位置にイズナくんが立っていた。私が手にしているランプの光に照らされて、輪郭がはっきりと浮かび上がっている。


「こんばんは。明かりは消しておいたほうがいいか」


「ああ……ま、できればそう願いたいが。しかし、考えてみたら、人間はあんまり夜目が効かないんだよな? それで戦えるのか?」


「うん、大丈夫だ」


 私はランプの火を消して、桜の木の根元に置いた。周りは闇に包まれる。


 おそらく、人形に意識を移したあとは、人形の側の「視界」で見ることができる。あれは眼で見ているという感じではなかった。確信があるわけではないが、そんな気がする。なにしろ、人形そのものに人間のような眼があるわけではないのだから。


「いちおう、もう一度言っておくと、俺がこの勝負に勝った場合は、参道の途中のどこかに山の神を祀る社を作ること。そしてお前が勝った場合は、お前を含む里の連中の参道の行き来を邪魔をしない。これでいいな?」


「ああ。それでいい」


 私はうなずく。すくなくともイヅナ君は彼が勝った場合の条件として「参道の行き来を禁じる」とは言っていない。そこがこの勝負のポイントなのであって、暗黙の合意ができている、と私は思っている。


「よし。それじゃ、原の真ん中辺りに行こう」


「分かった。ちょっと待ってくれよ、上着を脱いでいくから」


 ついでに、腕時計をはずして上着の中に入れる。戦いの最中に壊れる可能性もなくはない。この幻想郷ではある意味貴重なアイテムだからな。


 そして、ランプをおもしにする形にして上着を置き、人形を手にして立ち上がる。


「じゃあ、行こうか」


「おう」


 私たちが移動しようとしかけたとき、ふいに強い風が吹いた。


「!」「!」


 思わず顔を伏せ、眼を閉じる。


 木々がどよめくような音を聞いて、ふたたび顔を上げた時、眼前の桜の樹の下にひとりの少女が立っていた。背は低いようだ。


 ちょうど雲間からまた月が顔を出して、彼女の姿を照らし出してくれた。


 幻想郷の人外と呼ばれる者たちを何人か見ている私にとっても、彼女の姿はずいぶんと奇妙な印象だった。


 左右の腕のそれぞれ手首の腕輪から鎖が下がっていて、その先には重りのようなものがついている。服はまあ女の子らしいと言えなくはないが、片手に下げているのは瓢箪で、さらにもう一方の手には大きな盃を手にしている。そして、何よりの特徴は、頭の左右から生えた角である。


 彼女が何者かというのは、だいたい見当がついたが、とりあえずこういう場合の基本は挨拶だと思った。


「こんばんは」


「おう、あんた度胸があるね。見たところ人間のようだが、わたしが何者か分かっているのかい」


「そうですね……間違っていたらご容赦願いたいですが、神社に砕石を奉納してくださったかたではありませんか?」


「ふむ、あれを奉納だと霊夢は言ったかい。まあ、間違いではないけどな……その通り、あの石を持ってきたのはわたしだ」


「九藤雅樹と言います。お見知りおき下さい」


「うん。まあ、あんたのことは忘れるかもしれないが、あんたの作った人形のことは忘れていないよ。それだけは確かだ」


 ちょっと微妙な反応ではあるな。しかし、こちらの事情はそれなりに知っているようだ……。


「私たちになにか御用がありますか?」


「いや、特に御用ってわけじゃない。今夜はたまたまここに来て、ちょっと夜桜を肴に一杯やろうと思っただけさ」



     **********



「とぼけやがって……絶対に今回の件を知ってたに決っているわ」


「お嬢様、わたしには音の出ていないテレビにツッコミを入れているようにしか聞こえないのですが、どういうことですか?」


 双眼鏡を覗きながら咲夜が訊ねる。


「あの鬼野郎は偶然ここに来ただけだと言ってるのよ。そんなわけがないでしょうが」


「しかし、そう言われてしまえば、そうですかと返すしかないでしょうね。とはいえ、どういう魂胆なのでしょう」


「単に見物に来ただけか、あの男にプレッシャーをかけようとしてるのか、あるいは相手の妖怪をビビらせようとしてるのか……でも、たぶんいちばん考えられるのは、真剣勝負を見せろ、という意思表示かもね」


「鬼は嘘を嫌うから……ですか?」


「そうよ。もっとも、嘘を嫌うやつっていうのはたいてい自分の強さを自覚していない強者、もしくは分かっている上で自分の正しさを押しつける馬鹿なんだけどね……なんにしても、ちょっと面倒なことになったわね」


「九藤さんは嘘をつけるタイプではなさそうですが……相手はそうでもないというところですか」


「これは一種の出来レースなのよ。つまり、力の格差は初めから分かっているわけだから、勝負のつけ方は相手の妖怪のさじ加減で決まる予定だったわけ。だけど、あの鬼が出てきちゃったから、そういうわけにはいかなくなったかも。つまり、ある程度本気の勝負をしなければならない……少なくとも、あのイタチ妖怪はそう考えているでしょう」


「しかし、それは勝負の内容の問題で、結果にはあまり関わりがないのでは?」


「それならそれでいいんだけどね」


 レミリアは難しい顔になる。


「たぶん、奴の狙いは違うところにあるんでしょう」



その30につづく

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