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      その三十


 あらゆる修羅場をくぐっている内府でも意表をつかれたタイミングで本妻から口紅のついたワイシャツ等をみせられると、


「うっ!」


 と一瞬顔に出てしまうというし、発音のいい例の幕臣に、中森明菜の曲で、


「♪ ゲラ、ゲラ、ゲラ、ゲラ、バーニラ~」


 と対抗したときも、


「うっ!」


 とその威嚇に一瞬負けたという表情をみせていた。


 だから男の事務員さんをわれわれは子ども用タンスを保管してある母屋にまず招き、意表をつくかたちで、


「これに見覚えはないか?」


 とブツをみせてかれに揺さぶりをかけることにした。名目上は吉野さんのディナーショーである。


 アパートの住民なども一種のサクラとして、てきとうに呼んでおいた。このカムフラージュは、


「こんなに大勢のファンが来てくれるなんて。わたし、なんだか二時間程度の歌謡ショーでは、申し訳ないような気がしてきました」


 と吉野さんのお目目をもうるうるさせるほどの効果があった。


 上座に用意したタンスは吉野さんの例の長い長いウェディングドレスのすそで隠すことにした。


 疑いは晴れたとすっかり思い込んでいる男の事務員さんは、となりにすわっていた山城さんにだけでなく、斜向かいのさおりさんにまで、いま交際している性格のわるそうな女性の写真をみせていた。のん気な奴である。


 普段は地味にしているが、白いマイクをまえにするとがらりと人が変わる吉野さんは、このたびも、


「そして舞香は、広い空に羽ばたくことになったのです!」


 とひとりで悦に入っていたわけだが、今回のディナーショーはアンコールのさいにあのウェディングドレスを脱いで、セーラー服に着替えるという演出だったので、最後の曲を終えると吉野さんは控え室あつかいにしてある古書店まですそを引きずりながらいったんさがっていくことになっていた。


 すそがスルスルスルスルすこしずつ引っ張られていくのを横目で確認しながら、ぼくたちは男の事務員さんの表情が変わる瞬間を見逃すまいと、十手片手に凝視する。


 最後のすそがするりと落ちた。


 ゴレンジャーのシールがバランスおかまいなしに貼られてある子ども用タンスが眼前にあらわれる。


 胸が高鳴った。いよいよである。しかしこれには男の事務員さんではなく、本橋夫妻が、


「あっ!」


 と衝撃を受けていた。


 本橋夫妻は例によってお互いのお尻を激しくさすり合いながら、上座のタンスに一歩一歩ちかづいていった。


「うん、やっぱりそうだ! お真亜姫。これは、ぼくのたいせつなタンスだよ!」


「ほんと? パピパピ。もっとよく確認してみて」


「わかったよ、お真亜姫。心配なんだね。よし、消しカスもある! うん、ちびちび鉛筆が満杯のブリキ缶もある! うんうん! 凡庸パンチもある! まちがいない! これは宝箱だ! ぼくの宝箱だ!」


「パピパピ。わたしのせいで、わたしのせいでぇぇぇ!」


「いいんだよ、お真亜姫。あの荷降ろしは当然さ」


「怒ってないの? パピパピ」


「ああ、一瞬たりとも、怒ったことはないよ、お真亜姫」


「やーん、パピパピ」


「お真亜姫、愛してるよ」


「パピパピ。わたしもよ」


「お真亜姫」


「パピパピ」


「お真亜姫」


「パピパピィィィ」


 より激しくお尻をさわり合っていた本橋夫妻に、


「このタンスは、畑に不法投棄されてあったんですけど――」


 と事情をたずねると、夫妻はお互いをかばい合いながらこうなってしまった経緯を、


「お真亜姫」


「パピパピ」


 と要所要所で粘着質の接吻もはさみつつ説明してくれた。


 二ヶ月ほどまえにウチのアパートに引っ越してきた本橋夫妻は、小型トラックで荷物を運んでいる道すがらで、


「そろそろお昼だね。お真亜姫がつくってくれたおいしいお弁当を、あのへんの畑にブルーシートでも敷いて食べようよ!」


「うん、パピパピ」


 となって、たまたま目についた英光ご老公の畑にてピクニック気分で昼食をとることにした。


 しかし、お真亜姫がつくったお弁当はトラックの荷台にいちばん最初に積んでしまっていたので、お真亜姫の愛情のこもったお弁当を食べるには、いったん荷物をぜんぶ降ろさなければならなかった。


 それでも、とうぜんパピパピはこんな感じなのだから、


「お真亜姫がせっかくつくってくれたんだ。こんなものは、また積み直せばいい」


 と荷物をあらかた降ろして、お弁当を取り出し、


「あーんして、パピパピ」


「あーん――うん、とってもおいしいよ、お真亜姫」


「やーん、ご飯粒つけてるパピパピィィィ」


 とお弁当を味わった。


 ふたたび荷物を積み込む。実質一人作業である。臀部もさわらなければならない。パピパピをもってしてもたしょう注意力が散漫になっていた。


 つまりパピパピは、長年宝箱としてもちいてきたこの子ども用タンスだけ積みわすれてしまったのである。


「このような機会をあたえてくれた倉間さんのために、ふたたび舞香は羽ばたいてきました。アンコールはその倉間さんの好きな曲、天地小巻さんの『ミモザの花の咲く頃』をうたいま、あれ? 倉間さん、お口をあんぐりさせて、どうしたんですか? 倉間さん? 倉間さん? わたしのセーラー服にシビれて、放心状態になっちゃってるのかも……」


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