密着四日目(2)
歴戦のサメハンター・うみんちゅ隊員を欠いた探検隊。彼が愛用していた必殺の銛は、騒ぎに紛れ海の彼方へ流れてしまった。仮に今、ジョーデッドが姿を見せたとしても我々には戦える人員も、戦うための手段もない。河丘はサバイバルナイフを所持しているが、武器としてはあまりにも頼りない。これでジョーデッドと戦うならば、水中戦になる。人喰いザメを水中で仕留めることなど、さすがの河丘といえど難しい。うみんちゅ隊員の二の舞になりかねない。
それでもクルーザーは海上を走る。操縦する河丘の隣でレーダー隊員が魚群探知機を使って、船首ではわかめクンが目視でジョーデッドを探す。レーダー隊員もわかめクンも表情は暗く、強い不安を感じていることは明らかだ。「ジョーデッドを生け捕りになんてできるのか」「次は自分が餌食になってしまうのではないか」。そういう感情に支配されているのだろう。
しかし、河丘にはとっておきの秘策があった。
河丘「マグロなんかを釣るために使う、大型の釣り竿を用意しておいた。こいつでジョーデッドを一本釣りする」
船尾に取り付けられた巨大な釣り竿。河丘はこれでジョーデッドを釣り上げようというのである。漢・河丘、ジョーデッドと一対一の勝負に臨む。頼れるのは一本の釣り竿と、二本の己の腕のみ。
だが、河丘の思いどおり釣り上げられるものなのだろうか。ジョーデッドは体長十メートル超の巨体。その体重も尋常ではないはずだ。同じく体長十メートル以上のジンベエザメの体重は、平均二十トン。ジョーデッドもそれくらいの体重である可能性が高い。二十トンもの獲物を人間のパワーで釣り上げるなど、あまりにも現実離れしている。いかに河丘が力自慢といえど無謀だ。
それでも、やってみる前から諦めない。河丘の座右の銘だ。船首にいたわかめクンを操縦室に呼び寄せた河丘は、運転を代わるように言う。わかめクンも一級船舶免許を持っている。「しばらく運転していないから自信がない」と弱気だった彼だが、河丘のサポートを受けることなくクルーザーを前に進めてみせた。大きく揺れることも、エンジンが止まるようなこともない。わかめクンに操縦を任せても問題なさそうである。
運転を代わってもらった河丘はというと、操縦室を出て船尾に向かい、その場で腕立て伏せを始めた。
河丘「ここからはジョーデッドとのパワー勝負になる。こうやって運動をして、筋肉を目覚めさせる。フルパワーを発揮できるようにな」
今さら筋トレをやったところで意味がない。そう思わされる。しかし、河丘が腕立て伏せをする狙いは、単に筋力を発揮するためだけではない。精神統一をすることにもあるのだ。体に負荷をかけることで雑念を捨てる。ジョーデッドとの戦いに集中するための、河丘なりの儀式。それこそが、この腕立て伏せなのである。
およそ三十回の腕立て伏せを終えた河丘は、すくっと立ち上がった。そして、側にあったクーラーボックスから、あの異臭を放つ内臓を取り出す。心臓のような部位を釣り針に突き刺し、海に放り込んだ。ジョーデッドの一本釣り、開始である。
河丘「わかめクンはそのまま操縦を続けろ! レーダーは魚群探知機で海中を捜索! もし巨大な魚影を見つけたら、その都度報告しろ!」
操縦室の中にいる二人に、河丘の指示が飛ぶ。レーダー隊員とわかめクンは、同時に「はい!」と応えた。今、探検隊がやろうとしているのは、まさに苦肉の策。河丘がジョーデッドを釣り上げられる確率は、万に一つもないだろう。だとしても、〇・〇〇〇一パーセントでも成功する可能性が残っているのなら、それに賭ける。良く言えば粘り強い、悪く言えば往生際が悪い、それが河丘寛探検隊なのだ。
ジョーデッドどころか、小魚の一匹すら釣れないまま、無情にも時間だけが過ぎていく。河丘が時折リールを巻いてみるが、海中から上がってくるのは餌が奪われた釣り針だけ。その度に臭いクーラーボックスを開けて餌をつけ直すものの、それもまた十数分後には海に消えていく。
何の手応えもないまま日が沈み、夜がやって来た。だが、河丘はまだ諦めていない。わかめクンに、クルーザーに設置してあるライトをすべて点灯させるよう言い、再び海に向けて竿を振る。
昼間は青く見えた海が、今は漆黒だ。古くは海をあの世とこの世の境界線だと考える人々が大勢いたそうだが、この漆黒の海を見ると、そう考えるのも頷ける。見つめていると引き込まれそうだ。もし落ちれば、そのまま深い闇の中から抜け出せず溺れ死んでしまいそうである。クルーザーの上を照らすライト、この光が届く範囲から一歩でも出れば、闇と死が待っている。そう感じずにはいられない。
命が惜しければ、このクルーザーに根を張るように足の裏をつけて、絶対に離れてはならない。河丘が口にするまでもなく、船上にいる全員が自然にそう理解した。
だが我々は、この理解がいかに甘いものだったのかをすぐに痛感することになる。暗い海の中から、ぱちゃぱちゃと何かが跳ねるような音がし始めた。一つではない。たくさんの何かがクルーザーの周りで跳ねている。
異変を感じ取った河丘は、竿から手を離して操縦室に向かった。
河丘「レーダー、探知機に何か映っていないか? ものすごい数の何かがいるようなんだが、こう暗くては見えん」
レーダー「……魚の群れのようです。数は多くありませんが……数十匹の魚が──」
片膝をついて探知機の画面を確認しながら報告するレーダー隊員。その言葉に重なるように、ぱきん、という音がした。直後、レーダー隊員の声が止まる。
河丘「どうしたレー……何だこれは!?」
驚愕する河丘。二人を背にして正面を向きクルーザーを操縦していたわかめクンが、河丘の声を聞いて振り返る。
倒れ込んだレーダー隊員の左側頭部、こめかみのあたりに一匹の魚が突き刺さっていた。細長い銀色の魚。その先端、口の部分が長く、鋭く尖っていたようで、レーダー隊員の反対側のこめかみからわずかに飛び出している。
わかめクン「こ、これは……ダツです! ダツぅ!」
わかめクンは激しく動揺しながらも、レーダー隊員の頭を貫いた魚を特定した。
ダツ。鋭く伸びたクチバシが特徴的な魚で、水中を時速六十キロもの高速で泳ぐ。その勢いのまま突進してくることがあり、尖ったクチバシは凶器と化す。ダツが首や眼球に刺さったことによる死亡事故は多数あり、漁師やダイバーの間ではサメ以上に危険な魚として恐れられている。
我々が乗るクルーザーを取り囲んでいたのは、ダツの群れだったのだ。
わかめクン「ダツは光に反応するんです! 水面で跳ねて、船の上まで飛んでくることもありま……うわぁぁぁ!」
わかめクンの解説を遮るように操縦室を囲むガラスが次々に割れ、ダツが飛び込んでくる。ハンドルのすぐ下で頭を両手で押さえ、うずくまったわかめクン。頭上を飛び交うダツを避けるには、こうするほかない。一方、河丘は両膝をついて上半身を起こしたまま、レーダー隊員の肩を揺さぶっている。ダツが飛ぶ射線上に、河丘の頭は残ったままだ。
河丘「しっかりしろレーダー! レーダー!」
わかめクン「隊長! レーダー隊員は……もう無理です! 頭を下げてください!」
ガラスの破片とダツが、操縦室の床を埋める。まるでマシンガンによる銃撃を受けているかのようだ。わかめクンが必死で河丘に体勢を低くするよう呼びかけるが、まだ息をしているレーダー隊員を、河丘は見殺しにできない。
河丘「レーダーはまだ生きている! 助けられる!」
わかめクン「ここじゃ治療できませんよ!」
河丘「隊員を見捨てて自分を守れというのか……このサイコ野郎が!」
わかめクン「あなたに言われたくありませんよ! いいから早く伏せて!」
わかめクンの「伏せて!」という言葉とほぼ同時に、ダツが河丘の鼻先すれすれを高速で通過した。これには河丘も身の危険を感じたのだろう、即座に腹這いになる。
不幸中の幸いなのは、レーダー隊員が最後に口にした報告によるとダツの数はそう多くないこと。身を低くしたまま耐え続ければ、やがてこの襲撃は終わる。
飛び散るガラス。床を跳ねるダツ。およそ二分後、ダツは飛んでこなくなった。ゆっくりと体を起こす河丘とわかめクン。脅威は去ったようである。
河丘は急いでレーダー隊員の首に指を当てて脈を確認する。しかし、すでに事切れていた。




