あの夏の代償
母に頼る。
それは、瑠璃にとって負けを意味する選択肢だった。
幼い頃から、両親の力に頼らず自分の足で立つこと。それが兄と交わした、言葉にせずとも共有されていた無言の約束のようなものだった。二人とも、両親の言いなりになるのが嫌だったから。自分たちの人生を自分で決めたかったから。
でも今の瑠璃には、その矜持を貫く余裕などなかった。
あの女は、大切な友達を傷付けた。仲間を、家族を、笑顔を、積み上げてきた全てを。
許せるはずがない。許していいはずがない。
だから――。
「瑠璃お嬢様、奥様にお繋ぎしました。お電話口へどうぞ」
スマホを両手で握り締めたまま、瑠璃は手荒にメイドから別のスマホを受け取った。実家の固定回線から母の個人用回線へと繋いだ、特殊な通話のようだ。相変わらず、娘にすら直通の番号を教えない徹底振りだった。
『あらぁ? るーちゃんからママにかけてくるなんて珍し――』
「ママ! 今すぐ社会的に抹殺して欲しいヤツがいるんだけど!」
挨拶もなにも飛ばして、瑠璃は叫んだ。
スピーカーを通して聞こえてきた母の声が、一瞬、間を置く。
そしてその直後には、いつも通りの軽薄な笑いが返って来た。
『抹殺ぅ? るーちゃん、ママのことターミネーターか何かと勘違いしてる?』
「ママなら出来るでしょ!? 私の電話にかかってきた番号! 追跡して、早く特定してよ!!」
『あらあら』
まるで庭先の小鳥のさえずりでも聞いているかのように、母は呑気に相槌を打つ。
『るーちゃんがこんなに荒ぶってるのって、いつ以来かしら? るーくんを一人暮らしさせるって、ママとパパが決めた時以来かしらね』
「ママ!!」
どうでもいい思い出話など聞きたくない。今すぐに、この怒りをぶつけられる先が欲しいのだ。この女が何者なのか、どこの誰なのか、どんな顔をしているのか。
全部教えてもらって、母の持つあらゆる権力と財力と人脈を総動員して、徹底的に、社会の底の底まで叩き落としてもらう。それだけが、今の瑠璃の望みだった。
『はいはい、仕方ないわねぇ』
根負けしたように母が溜息を吐く。
もっとも、本気で根負けしているわけでないことは瑠璃にも分かっていた。どうせ最初から、娘の頼みを聞いてやるつもりだったのだ。そうでなければ、ここまで会話に付き合ってやる理由がない。
『るーちゃんをここまで怒らせる子にも興味あるし、調べたげるわ。ただ、本当にいいの?』
「なにが!?」
『こんなお願いをママにしちゃって』
「……っ!」
釘を刺された気がした。
瑠璃が突かれたくない部分を、正確に突いてくる。それが母のやり方だ。
両親とは距離を置く。自分の力で生きる。その信条を、今、瑠璃は自ら踏み折っている。それを承知の上で『本当にいいの?』と問うている。
ここで引き返すという選択肢はない。けれど、こうして明確に言語化されると、確かに胸がちくりとした。
「そんなこと今はどうでもいいの!」
『くすくす』
母は笑った。
その笑い方がいつも通り陰湿で、でも瑠璃にとっては馴染み深いもので、どうしようもないほどに自分の母親だった。
『分かったわ、ちょっと待っててね?』
通話が切れる。
瑠璃はスマホを手にしたまま、自室の中央に仁王立ちのようにして佇んでいた。
傍で控えていたメイドが、無言でもう一杯の紅茶を淹れる準備を始める。どうやらそれなりに時間が掛かると踏んでいるらしい。
瑠璃も、腰を下ろす気にはなれなかった。
■
母からの折り返しは、案外早かった。
ほんの小一時間。時計の針が一周もしないうちに、再びメイドが部屋に入ってくる。
「瑠璃お嬢様、奥様からです」
「貸して!」
引ったくるように受話器を取る。
「ママ!」
『るーちゃん』
電話の向こう側の母の声音は、先ほどまでと微妙に違っていた。
冷やかすような色は消えていないが、そこに僅かな、けれど確かな――面白がるような調子が加わっている。
『悪い報せと良い報せ、どっちを先に聞きたい?』
「あの女はどうなったの!?」
『もー』
咎めるような、まるで聞き分けのない子供を諭すような声で、母が言う。
『質問に質問で返さないの』
「そういうのはいいから!」
『はいはい。じゃあ良い報せからね? るーちゃんに電話を掛けてきた子は特定出来たわ』
「……! それで!?」
瑠璃の心臓が跳ねた。
特定。つまり、相手が誰なのか、判明したということだ。
住所も、顔も、名前も、何もかも。全部あの女の情報が、今まさに母の手の中にある。
『それでね?』
母は勿体ぶるように溜めた。
『ママはたっぷり熟慮した結果――その子に何もしないことにした。これがるーちゃんにとっての悪い報せよん』
「は!?」
一瞬、瑠璃は自分の耳を疑った。
何もしない? 何もしないって、どういう意味だ。あれだけ頼んだのに。社会的に抹殺してと、あんなにも強く訴えたのに。
「なんで!!」
『理由は――』
母が言い終える前に。
瑠璃の手の中で、スマホが震えた。もう片方の、自分のスマホが。反射的に画面を見る。
着信。
同じ番号。さっきの、あの女からの着信だった。
瑠璃の体が、氷水を浴びせられたように冷えていく。
タイミングが、あまりにも出来すぎていた。母が『何もしない』と言ったその瞬間に、あの女からの着信。まるで示し合わせでもしていたかのような。
『あら』
固定電話の向こうで、母が反応した。
何かを察したような、あるいは既に察していたことが裏付けられたような、そんな声色。
『理由はその子に聞くのが早いかもね』
「……」
『出てあげなさい、るーちゃん』
母は意味深にそう言って、それからくすりと笑った。
瑠璃は立ち尽くしたまま、両手にそれぞれスマホを持っている自分の姿を自覚する。片方は母との通話。片方は、あの女。
スピーカー状態にしたまま、瑠璃は、震える指で自分のスマホの応答ボタンに触れた。
『もしもしぃ?』
あの女の声。
相変わらず、どこか人を舐めたような、飄々とした口調。
『さっき言い忘れたんだけど』
世間話でもするかのように女は続ける。
『もし私の身に何かあったら、その時はFMKのスキャンダルが全世界にばら撒かれることになるから』
「……っ」
『あ、先に言っとくね。お母さんに頼んで私のこと潰そうとか、そういうの無駄だから。もう手は打ってあるの』
「……何、言ってんの」
声が掠れる。
意味が分からない。スキャンダル? そんなものはない。FMKには。そりゃ色々と変なことはあったけれど、具体的な致命傷になるような――何一つ、公にされて困るような、そんな致命的な瑕疵は。
「スキャンダルなんて、ない」
『あるよ?』
「ないって言ってるでしょ!」
怒りと焦燥がない交ぜになって、声が裏返る。
「私の友達に手を出したのはもう許さない。これ以上、みんなに何かしようとしたら、私、本気で――」
『うん、だからね?』
瑠璃の言葉を、女は興味なさげに遮った。
『百聞は一見に如かずって言うでしょ。ほら、画像送っとくね』
通話はそのままに、スマホにメッセージの通知が降ってくる。
添付ファイル。一枚の画像。
瑠璃は、ほとんど惰性で、それをタップした。
そして――息が、止まった。
■
画像の中に映っていたのは、夏祭りの夜だった。
背景には提灯の橙色の灯り。どこかの堤防、もしくは土手。遠景で、打ち上げ花火の光の名残がほんの僅かに滲んでいる。
画像の中央には、二人の人物。
白百合柄の浴衣を纏った、長い白髪の少女。
そして、そのすぐ隣に。
彼女の肩に手を添えるようにして、顔を寄せている、一人の男。
――兄だ。
そして、幽名だ。
そのロケーションは、瑠璃にも覚えがあった。いつか幽名から聞いた、兄と二人で行った納涼祭。シチュエーションボイスの取材のためだと言っていた、あの夜だ。だが、ただの取材と言うには、あまりにも二人の距離感が……。
二人の顔は、今にも触れ合いそうなほどに近い。
幽名の頬はほんのり赤く染まり、瞳は潤んだように兄を見上げている。兄の方はというと、こちらもどこか呆けたような、あるいは何かに強く惹きつけられているような表情で、幽名を見下ろしている。
唇と唇の間の距離は、僅か数センチ。
この一瞬後に、何が起きようとしていたのか。あるいは、実際に何が起きたのか。
その答えを、想像させるには、あまりにも雄弁すぎる一枚だった。
「――」
瑠璃は、言葉を失った。
兄と、友達。
兄と、幽名。
ふたりの、そういう瞬間。
そんなバカな、と最初に思った。
兄はそういうのには疎いというか、所属タレントに手を出すなどということを一番気にする性格のはずで、幽名もまた、そういう下世話な噂を立てられるような関係を兄と築いているわけでは――いや、違う。違うのだ、そうじゃない。
この画像の真偽はどうでもいい。
瑠璃が一瞬でも『そんなバカな』と思ってしまった、その事実自体が、この画像の持つ威力を物語っている。
事務所の代表と、所属ライバー。
しかも、幽名のような看板級のカリスマ性を持った少女と、その代表。
そういう関係にあると、もしリークされれば。
たとえそれが勘違いであっても、たとえその瞬間だけを切り取った偶然の産物であっても、この画像一枚で、言い逃れは――難しい。
FMKは、終わる。
単なる炎上では済まない。幽名のファンの一部は、狂信的なまでに彼女を崇拝している。兄のスキャンダルと受け止められれば、兄個人どころか、FMK全体への不信感に直結する。小槌のファンも、☆ちゃんのリスナーも、ナキのリスナーも、全員が裏切られたと感じる。事務所を挙げて築き上げてきた信頼が、根こそぎ砕け散る。
そして何より――幽名自身が。
これを出されて無傷で済むはずがない。
兄と関係を持ったと疑われた女性Vという烙印は、これから先、どこの事務所に移ろうと、どんな活動をしようと、幽名についてまわる。
瑠璃の脳裏を、ありとあらゆる最悪の未来が駆け巡った。
そのどれもが、現実に起こり得るものとして、恐ろしいほどの質量を持って迫ってくる。
――やられた。
そう理解した瞬間、瑠璃の手から力が抜けかけた。
慌てて両手にもう一度力を込めて、スマホを握り直す。
『……はい、沈黙は何より雄弁。理解してくれたみたいで、よかった』
長い沈黙の間、女はずっと待っていたらしい。
瑠璃の思考が追いつくのを、じっくりとなぞるように。
『もう分かるよね? 私の身に何かあったら――怪我でも、逮捕でも、どこかの権力者に消されるでも、何でもいいけど。とにかく私がおかしなことになったら、この画像は自動的に拡散されるようになってるの。予約投稿って言うのかな、そういう感じで。アナログな手も使ってるから、ハッカーだろうがエンジニアだろうがスーパーAIだろうが、対策しようがない方法でね。言ってる意味分かる?』
「…………」
『だから、瑠璃ちゃんの側から私に手出しは出来ない。瑠璃ちゃんのこわーいお母さんにだって、私には触れない。うん、そういうことだよ』
ハッタリじゃない。
この女はそれくらい平気でやる。
トレちゃんとbdを休止に追い込んだのも自分だと、前回の電話で言っていた。恐らくは似たような手口で、相手の弱みをクリティカルに抉ったのだろう。
だから母は、何もしないと言ったのだ。
瑠璃は遅れてそれを理解する。
母は既に、この女の仕掛けを知っていた。だから『悪い報せ』として、何もしないことを伝えてきた。そして直後の着信で、女自身に説明させた。あの母のことだ。きっと面白がっていたのだろう。娘が絶望する瞬間を、電話越しに聴きながら。
瑠璃は、固定電話越しに繋がったままの母へと意識を向ける。
母は何も言わない。ただ、こちらの反応を静かに待っている。その沈黙が、肯定そのものだった。
■
「要求はなんなの」
瑠璃は、やっとのことで声を絞り出した。
怒鳴ることも、叫ぶことも、もう出来なかった。
ただ、淡々と。感情を押し込めて。
「なんで、こんなことを」
『あはっ、やっと本題に入れるね』
女の声は、相変わらずの軽さだった。
勝ち誇るでもなく、高笑いするでもなく、ただ楽しそうに。日常会話の続きでもしているかのように。
『でも、“なんで”の方には答える気ないよ。それは私の個人的な事情だから。瑠璃ちゃんが知る必要のないことだもの』
「……要求は」
『あぁ、うん』
一拍。
電話の向こうで、女が微笑んだ気配がした。
『ひとつだけ』
息を呑む。
瑠璃は祈るように目を閉じた。
お金なら、家から持ち出してでも払う。土下座でも、謝罪でも、世間への何らかのアナウンスでも、出来ることなら何でもする。
だから、どうか――。
『瑠璃ちゃんの、卒業』
その願いは、届かなかった。
『薙切ナキを――FMKから、卒業させて』




