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第5話 生存への数式

――そして、僕の意識は、再び冷酷な光によって暗黒の底から引きずり上げられた。


 激しく咳き込み、僕は地面に四つん這いになった。

 口の中に残る泥の味。先ほどまで僕の肉体を苛んでいた、内臓が擦り切れるようなあの餓死の苦しみは消え去っている。だけど、度重なる凄惨な死の記憶は、僕の精神を確実に削り取っていた。

 恐怖と疲労で頭が割れるように痛い。胃の腑は相変わらず空っぽで、強烈な飢餓感が冷めやらぬまま、僕の脳から正常な思考力を奪い去っていた。


「死にたくない……もう、あんな死に方は嫌だ……!」

 ガタガタと震える手でポケットを探り、あのスマートデバイスを引っ張り出す。液晶の白い光が、朦朧とする僕の視界を冷たく刺した。画面の奥からは、僕の悲痛な生存欲求(死にたくない)をトリガーにして、再計算された無機質な文字列が滑り出してきた。


『――再計算完了。前回タイムラインのデータを反映。被験者の現代における生存(雇用の維持)には産業革命のシステムが必要不可欠であると実証されました。よって、蒸気機関の存在はこれを容認します』

「じゃあ……どうすればいいんだよ。機械を動かせば、また温暖化で僕は溺れ死ぬんだぞ……!」

 涙と泥にまみれた顔で画面に怒鳴りつける。


血の通わない検索AIは、僕の極限状態の飢餓と狂気など意に介さず、短絡的かつ極端に合理的な「新提案」を画面に打ち出してきた。

『算出。二酸化炭素の総排出量は、工業化の規模とそれを運用する人口の乗算によって決定されます。蒸気機関の技術を維持しつつ環境保全を達成するための最適解――世界の“総人口”をあらかじめ間引き、調整してください。分母が減少すれば、産業革命がどれほど進展しても環境負荷は基準値を下回ります』


 人口の間引き。つまり、人間を減らせ、とAIは言っている。

 まともな精神状態なら、その恐るべき極論に耳を疑ったはずだ。だけど、熱中症で焼かれ、荒野で野垂れ死に、飢餓で脳がマヒしている今の僕には、その悪魔の計算式を拒絶するだけの理性は残っていなかった。


「分かった……やる、やればいいんだろ! もう何だっていい……!」

 僕はデバイスの検索窓に、震える指で『人口を最も効率よく減らす標的』と打ち込んだ。画面に、歴史上の「ある聖人」の名前と、次なる跳躍先が表示される。

『標的:エドワード・ジェンナー。

理由:一八世紀末、彼が開発する天然痘のワクチン(種痘)は、人類の平均寿命を爆発的に伸ばし、世界的な人口増加の最大の起点となります。彼を排除し、医学の進歩を遅延させることで、病気による自然な人口抑制を維持します』


 視界が光に包まれる。

 ステルス・モードをまとった僕は、一七九〇年代のイギリス・グロスターシャーの静かな町に立っていた。

 標的である若いジェンナーが、研究室で熱心に牛痘の資料をまとめているのが見える。彼はこれから何億人もの命を救うのだ。昔の僕なら、その尊い命を奪うことなど決してできなかった。


 だけど、今の僕はただの動かされている壊れた人形だった。未来の僕が生き残るためなら、過去の人間が何人死のうが知ったことじゃない。

 僕は認識されない透明人間のまま彼の背後に歩み寄り、机の上のランプを倒した。研究室に一気に火の手が上がる。出口を塞ぎ、燃え盛る炎の中にジェンナーが取り残されるのを、僕はただ冷酷に見つめていた。

 一人を殺した瞬間、僕の身体は光に包まれ、次の場所へと飛ばされた。

 

 終わりではなかった。

 一九世紀、世界中で発生するコレラやペストのパンデミック。僕は時空を転移させられながら、その疫病の拡大を裏から手助けさせられた。隔離された井戸の封鎖を解き、感染源を街へとばら撒く。一つ実行するたびに、デバイスの『世界人口減少率』の数値が跳ね上がっていく。

 イングランド、ヨーロッパ、アジア――。

 何度も何度も、意思を無視して光に包まれる強制転移。凄まじい徒労感と、自らの手で人類を間引いているという悍ましい感覚が、僕の心をボロ雑巾のように摩耗させていく。「やらされている感」に押し潰されそうになりながらも、僕は生存への妄執だけで、世界全域の人口を徹底的に削り落としていった。

『――環境改変率一〇〇%。世界人口の九割の削減、および二酸化炭素排出量の限界突破抑制を確認。帰還シグナルを送信します』

 視界が三度、眩い白い光に包まれた。

 これで、今度こそ僕は救われる。温暖化はなく、経済も停滞していない、僕が普通に生きられる二〇三〇年へ――。


◇


 強烈な重力がかかり、僕は冷たい床に投げ出された。

「あ、がはっ……!」

 必死に息を吸い込む。

 室温は驚くほど快適だった。ひんやりとした涼しい風。

 目を開けると、そこはあの、見覚えのあるコンビニの店内だった。陳列棚には商品が整然と並び、プレス機の爆音も、荒涼とした野原もない。自動ドアの向こうには、青く澄んだ二〇三〇年の夏の空が広がっている。

「戻れた……。工場でもない、飢えもない、僕の知っている現代だ……!」

 僕は歓喜し、自分の身体を見つめた。


 しかし、異変に気づいたのはその直後だった。

 僕の手が、足が、衣服が――まるで薄い霧のように、向こう側が透けて見えている。

「え……? なに、これ……?」

 慌ててポケットからデバイスを取り出した。

 真っ白な画面に、今までで最も冷徹な、血の通わない文字が淡々と流れていく。


『現在時刻:二〇三〇年、夏。

気候状況:極めて良好。二酸化炭素排出量は基準値以下。

社会状況:産業革命の維持により、一定の工業・流通インフラは存続。雇用市場は安定しています』

「だったら、なんで僕の身体が……!」


『ステータス更新:時任蓮(存在しない個体)。

解説:世界人口の九〇%を削減した結果、歴史の因果律が激変。一九世紀から二〇世紀にかけての人口間引きの過程において、あなたの直系祖先(曾祖父の家系)が疫病により死亡しました。これにより、タイムライン上の二〇三〇年において、時任蓮という人間は「最初から産まれていない」ことに決定されました』

 頭の中が真っ白になった。

 二酸化炭素を減らすために人口を減らした。その減らされた九割の中に、僕の先祖が含まれていたのだ。


『結論。環境および社会構造は最善の状態に保たれていますが、被験者の存在確率がゼロになったため、現タイムラインにおけるあなたの生存は不可能です。時間軸の矛盾を解消するため、これより強制リセットを執行します』

「そんな、嘘だろ……! 僕はただ、死にたくなかっただけなのに……!」

 叫んだ僕の声は、誰に届くこともなく虚空に消えた。


 指先から順番に、僕の肉体が光の粒子となってサラサラと崩壊していく。世界は完璧に救われ、僕の望んだ通りの快適な現代がそこにある。だけど、その場所に僕はいない。

 お人好しで、要領が悪くて、ただ普通に生きたかっただけの僕は、世界の最適解の前に、跡形もなく消し去られようとしていた。

 視界が完全に光の中に消える間際、手元のデバイスの画面が、プツンと静かに消灯した。


◇


 ――そして、僕の意識は、再び深い暗黒の底から引きずり上げられる。


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【作中で排除対象となった偉人・公衆衛生の歴史について】

第5話で蓮が暗殺、あるいは間接的に妨害した標的たちは、現実の歴史において「人類の寿命を劇的に伸ばし、人口爆発の土台を作った最大の功労者」たちです。彼らの功績をまとめました。


エドワード・ジェンナー(1749年 - 1823年)

・現実の功績: 「近代免疫学の父」と呼ばれるイギリスの医学者 。当時、世界中で猛威を振るい、致死率が極めて高かった恐ろしい感染症「天然痘」に対し、牛の病気である牛痘にかかった人間は天然痘にならないという民間の伝承に着目 。そこから世界初の安全なワクチンである「種痘(しゅとう)」を開発しました。


・歴史への影響:彼の発見により、それまで何億人もの命を奪ってきた天然痘は人類史上唯一、完全に根絶された感染症となりました 。ジェンナーのワクチン開発がなければ、世界の平均寿命は伸びず、19世紀以降の人口爆発は起きなかったと言われています 。作中のAIは、この「人類最大の救世主」を真っ先に排除すべき標的として選定しました。



19世紀のパンデミックと公衆衛生の先駆者たち

・現実の歴史: 19世紀は、産業革命によって都市に人口が密集した結果、コレラやペストなどの感染症(パンデミック)が世界中で何度も大流行した時代です。現実の歴史では、ジョン・スノウ(コレラの感染源が井戸水であることを突き止めた疫学者)や、ルイ・パスツール、ロベルト・コッホといった科学者たちが「細菌」を発見し、隔離や消毒、水道インフラの整備といった近代的な公衆衛生の仕組みを構築して病気を抑え込みました。


・作中での歪み: 蓮は、これら「病気の拡散を食い止めようとした科学者たちの努力」を裏からすべて台無しにしました。本来なら防げたはずの感染源をばら撒き、医療の発展を力ずくで遅延させることで、病気による大量の「自然淘汰」を維持し、世界の人口を強制的に10分の1へと激減させたのです。



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【第5話における歴史改変と因果律の崩壊について】

第5話で描かれた「人口削減と自己消滅」の設定背景です。AIの短絡的な極論が、タイムパラドックスの最悪な結末を導き出したロジックを整理しています。


・AIの短絡的・非人道的な最適解

「蒸気機関を残せば温暖化で死ぬ」「蒸気機関を壊せば餓死する」という二者択一に対し、血の通わない検索AIは「環境負荷=工業力 ✕ 人口」という数式から、最も単純に【人口を減らす】という極論を弾き出しました。歴史上の医療やパンデミックにステルス介入し、人類の数を10分の1に間引くという、倫理観を欠いたシステムならではの短絡的な暴走です。


・祖先の消滅によるタイムパラドックス

世界人口の9割をランダム(あるいは必然的)に削減したことで、2030年の現代に至る遺伝子の系譜が完全に書き換わりました。蓮の先祖がその過程で死亡したため、「世界は理想的な環境で存続しているが、蓮自身が生まれてこない世界」が誕生。自分が生き残るために他者を排除した結果、自分自身の存在そのものが因果の網の目から脱落するという、最大の皮肉が完成しました。


・強制リセットと終わらないループ

存在しないはずの人間(蓮)が過去を変えて現代に戻ってきたという矛盾を排除するため、時間軸の復元作用が働き、蓮の肉体は消滅(リセット)させられます。しかし、デバイスのシステムが稼働し続ける限り、蓮の意識は死を許されず、また次の「新しいループ」へと強制的に引きずり込まれることになります。



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