第4話 産業革命を止めた世界
気がつくと僕は、再び一八世紀から一九世紀へと続く、過去のイギリスにいた。
周囲の人間から一切認識されない僕は、ただの破壊者として、煤煙の立ち込める街を冷徹に歩いていた。
標的は人間ではない。僕を熱中症で殺そうとした、あの最悪な世界を形作る「システム」そのものだ。
僕はデバイスのマップに示されるまま、蒸気機関を使って稼働する大規模な紡績工場や鉄工所へ、幽霊のように侵入した。誰も僕に気づかない。作業員たちが煤にまみれて働くすぐ脇を通り抜け、僕はボイラーの圧力弁を固定し、燃料の石炭を異常に積み上げ、あるいは機構の根幹を力任せに破壊して回った。
背後で凄まじい大爆発が起き、工場が炎に包まれる。悲鳴を上げて逃げ惑う人々の姿を見ても、僕の心は微塵も痛まなかった。一つの工場を壊せば、デバイスの画面に『歴史改変率上昇』の文字が淡々と刻まれる。
イングランド中に散らばる標的へ、僕は何度も何度も、意思を無視して光に包まれる転移を強制された。
バーミンガムの次はマンチェスター、その次はロンドン。やることはいつも同じ。隠れて、ボイラーを細工して、爆発させる。ただそれだけだ。
だが、デバイスの要求はイギリス国内だけにとどまらなかった。
光が弾けるたびに、僕は海を越え、大陸の別の国へと強制的に引きずり回された。
一九世紀初頭、イギリスから技術を導入して蒸気機関を回し始めていたフランスやベルギー、さらにはプロイセンの炭鉱や黎明期の新興工場。産業革命の炎が燃え広がろうとしている世界のあちこちへ、僕は幽霊のように現れては、その心臓部を徹底的に爆破していった。
何十回目かも分からない転移の最中、僕の胸を支配していたのは、達成感などではなく果てしない徒労だった。
一つ壊せば、また別の場所で新しい煙突が煙を上げ始める。まるで終わりのないモグラ叩きだ。僕は自分の意志で動いているのではなく、この冷徹なデバイスにただ酷使され、歴史を削る作業をさせられているだけなのではないか。そんな強烈な違和感が、煤煙よりも重く僕の心を摩耗させていった。
それでも、引き返す道はなかった。
『――環境改変率一〇〇%。世界全域における工業化システムの永久停止、および二酸化炭素排出源の完全な根絶を確認。これより、帰還シグナルを送信します』
視界が再び、あの眩い白い光に包まれた。
これで今度こそ、僕の苦しみは終わる。過酷な工場労働も、熱中症の苦しみもない、本当に安全な現代に戻れるんだ。そう信じて、僕は光の中に身を委ねた。
◇
ドサリ、と冷たい地面に身体が落ちた。
「はっ……! げほっ、ごほっ!」
慌てて呼吸をする。
喉を焼くオイルの臭いはなかった。熱中症のあの狂いそうな熱気もない。
ひどく涼しい、いや、むしろ肌寒いくらいの空気が肺を満たした。
僕はゆっくりと目を開けた。
そこは、見覚えのあるアパートの部屋ではなかった。フローリングの床も、天井のシーリングライトも、壁のアニメのポスターもない。それらは「最初から建設されていなかった」。
僕が横たわっていたのは、ただの泥と雑草に覆われた、荒涼とした原野だった。
「……え?」
立ち上がり、周囲を見回す。ビルも、マンションも、アスファルトの道路も、信号機も、影も形もない。どこまでも続く緑の丘と、遠くに見える小さな茅葺き屋根の集落。二〇三〇年の夏だというのに、四十℃の地獄は消え去り、風はどこまでも澄んで涼しかった。
本当に、地球温暖化は完全にストップしていた。
けれど、僕たちの文明そのものも、最初から存在しない世界になっていた。
ガタガタと震える手でポケットを探り、唯一残ったデバイスを取り出した。
白い画面に、血の通わない文字が淡々と流れる。
『現在時刻:二〇三〇年、夏。
気候状況:極めて良好。
解説:世界各地の先端工場で同時多発的に起きた、原因不明のボイラー大爆発により、既存のキリスト教会をはじめとする宗教組織が「機械技術は神の調和を乱す傲慢の象徴であり、神への反逆だ」と断罪。さらに、そのエネルギー源である石炭は「地獄の底から掘り出された呪われた煤、悪魔の産物」として世界的に強く認識されるに至りました。信仰に基づく民衆の圧倒的な支持により、科学技術の排斥と石炭採掘の永久禁止が法制化され、世界の工業化は根絶。文明は中世の農耕段階で完全に停滞しました』
言葉が出なかった。
『続いて、被験者「時任蓮」の個人ステータスを表示します』
『時任蓮(二十一歳)。
現在の状況:貧困農民の三男。
解説:日々の食事にも事欠く実家の過酷な暮らしに耐えかね、飢えから逃れようとして数日前に故郷の村を飛び出しました』
お腹が、ぐう、と情けない音を立てた。
第3話の工場で飢えていた、あの強烈な空腹感が、そのまま僕の胃袋を締め付けている。
財布なんて持っていない。持っていたところで、この世界にはお金で買える食べ物も、それを売るコンビニもスーパーも、最初から作られていないのだ。あるのは、宗教的な禁欲に支配された終わりのない荒れ地と、自給自足の過酷な飢えだけだった。
僕はふらふらと、どこへ続くかも分からない土の道を歩き始めた。
次の街がどこにあるのかすら分からない。歩くたびに足の力が抜け、視界が急速に狭まっていく。栄養失調と疲労で、もう一歩も進めそうになかった。
ドサッ、と僕は土の道端に膝から崩れ落ち、そのまま横たわった。
あの熱中症の地獄から逃れたくて、自分を救うために、産業革命を止めろと願って全部を壊したのに。
待っていたのは、ただの緩やかな、理不尽な飢えだった。
誰も僕を助けてくれない。誰もいない美しい荒野の道端で、僕は一人、行き倒れた。ゆっくりと、だけど確実に訪れる餓死の苦しみを感じながら、視界が完全に闇に染まっていく。
「死にたくない……」
消え入りそうな声でそう呟いた瞬間、僕の意識は完全に途切れた。
手元で虚しく発光していたスマートデバイスの画面が、プツンと静かに消灯した。
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【第4話における歴史改変とキリスト教による技術排斥について】
第4話の結末に導入された「キリスト教による科学・石炭の排斥」は、当時の史実をベースにしています。
・当時のキリスト教と産業革命の「史実の対立」
現実の18〜19世紀のイギリスでも、産業革命による「自然の破壊」「過酷な児童労働」「伝統的な家族共同体の崩壊」は、教会の聖職者たちから道徳的・宗教的退廃として激しく批判されていました。つまり、「機械文明に対する宗教的な警戒感」は最初から土壌として存在していました。
・ステルス爆破による「神の奇跡・警告」の証明
蓮が完璧なステルス状態で工場を爆破し続けた結果、当時の社会には「誰も侵入していないのに、石炭を燃やす機械だけが世界中で突如爆発する」という超常現象として記録されました。これにより、既存のキリスト教会が「これは人間の傲慢と強欲に対する神の怒り(奇跡)である」と主張した際、民衆への説得力が爆発的なものとなりました。
・「悪魔の産物」としての石炭の永久封印
教会の主導により、大地から掘り出される「石炭」は人を地獄へと誘う【悪魔の煤】と再定義され、採掘も使用も神への大罪とされました。この強固な宗教的禁忌が地球規模で根付いたため、人類は化石燃料に依存する工業化のステップを完全に失い、二〇三〇年になっても温暖化のない、しかし文明も失われた中世農耕社会のまま停滞することになりました。




