第3話 ワットが排除された世界
僕の足元の床が、空間そのものが、ひび割れるようにして眩い光を放ち始めた。
網の目のように走る光の亀裂は、燃え盛る工場の研究室を、ワットたちの遺体を、そして煤煙に汚れた一七七〇年代のイギリスの光景を粉々に砕いていく。視界が真っ白な光に塗りつぶされ、強烈な浮遊感が僕を襲った。
耳を突き抜けるような金属音が鳴り響く。やがて浮遊感が唐突な重力へと変わり、僕は激しく床に尻餅をついた。
「がはっ……! げほっ、ごほっ!」
肺が激しく空気を求める。吸い込んだ瞬間、喉が焼けるような痛みに襲われた。
重苦しい、錆びた鉄とオイルの焦げるような臭い。政治や環境のことなんてどうでもよくなるほどの、耳を塞ぎたくなるような、ガシャン、ガシャンという巨大なプレス機の金属音が頭上から激しく降り注ぐ。
恐る恐る目を開けると、そこは古びた工場の片隅だった。僕自身もまた、煤と油で真っ黒に汚れた安物の作業着を着て、プレス機の前に立たされていた。
(ここは……どこだ? 僕は、現代の二〇三〇年に戻れたんじゃないのか……?)
めまいがして視界が激しく揺れる。胃の中は空っぽで、強烈な飢えと疲労感が全身を支配していた。低賃金での過酷な単純労働を何ヶ月も続けさせられているような、そんな肉体の記憶が頭に直接流れ込んでくる。碌なものを食べていないせいで、身体の芯から力が抜けていくようだった。
僕は怯えながら、作業着の深いポケットを探った。指先に触れた冷たい質感。あのロゴもメーカー名もないスマートデバイスを取り出し、コンプレッサーの影に隠れて画面を覗き込んだ。画面は静かに点灯し、無機質な文字を淡々とスクロールさせていく。
『――環境改変結果。現在時刻、二〇三〇年、夏。被験者「時任蓮」の立場・環境の更新完了』
文字を追う僕の指が、恐怖と混乱で細かく震えた。
『歴史改変(ジェームズ・ワットの排除)により、ワットおよび彼を囲む資本家たちが出願予定だった強力な「分離凝縮器」の特許は消滅。結果として、特定の技術独占は発生しませんでした』
「じゃあ、温暖化は止まったの?」
『否定。特許という技術的・法的障壁が失われたことで、当時のライバルたちが安全性を無視した非効率な蒸気機関を乱立させ、世界中で粗製濫造しました。結果として産業革命はなし崩し的に再始動。技術は「安全性を犠牲にした単純労働の積み重ね」に依存する、より歪で凶悪な形で普及しました』
画面の文字は、僕の希望を冷酷に打ち砕いていく。
『効率の悪い劣悪な装置の乱立により、二酸化炭素排出量は史実を遥かに上回り、二〇三〇年現在の環境破壊および温暖化はさらに悪化。現在、時任蓮は自動車部品製造の最下層下請け工場における、低賃金の単純労働者として配置されています』
窓の外に目をやると、どんよりとした灰色の空から、化学物質を含んだ不気味な色の雨が降り注じでいた。
工場内の気温はすでに四十℃を優に超えている。エアコンなど存在せず、スポットクーラーからはぬるい風が微かに吹き出すだけだ。床には粉塵と鉄粉が積もり、プレス機が動くたびに焦げたオイルの臭いが肺を塞ぐ。
「おい蓮! 何ボーッとしてんだ、もうすぐ休憩は終わるぞ!気合い入れろ!」
怒号を飛ばしてきたのは、油まみれの作業着を着た見知らぬ職長だった。
ガシャン! とすぐ目の前でプレス機が火花を散らす。一分間に何十回と繰り返される一連の動作。一秒の遅れも許されない、ライン作業の地獄。秒単位で監視され、水分補給すら自由にできない。
めまいが、さらにひどくなる。視界の端が急速に暗くなっていった。
全身から嫌な汗が吹き出し、自分の呼吸の音が耳の奥でうるさいほどに響く。熱中症だ。過労と栄養失調で悲鳴を上げていた僕の身体は、この劣悪な工場の熱気に、もう耐えられる限界を超えていた。
(あ……熱い……息が、できない……)
足の感覚が消え、膝から崩れ落ちる。
床に叩きつけられる視界の中で、職長が何かを叫んでいるのが見えたが、もうその声は届かなかった。
ワットさんを殺してまで願った世界が、これなのか。
ワットさんという天才が、安全に、効率よく制御しようとした怪物を、強欲な他の人間たちが未熟なまま解き放ってしまった。結局、人類の強欲は止まらない。誰かを一人消したところで、次から次へと別の強欲な奴らが現れて、世界を食い荒らし、そのツケを僕のような弱者に押し付けるのだ。
工場の床に倒れ伏し、熱中症で意識が途絶えゆく中で、僕の心の奥底でドス黒い怒りが激しく沸騰し始めた。
全部、あいつらのせいだ。この熱気も、僕が熱中症で死にかけているのも、すべては人類の強欲が生み出した産業革命のせいだ。僕の人生を、この世界をめちゃくちゃにし続ける産業革命の歴史そのものが、心の底から憎かった。
頭の中で吹き荒れる猛烈な憎悪。だが、熱でマヒしていく指先は、もう長い文章を打つことを拒否していた。僕は薄れゆく意識の底で、震える親指を画面の検索窓に押し付け、掠れるような、短い言葉を叩きつけた。
『産業革命を止めろ』
デバイスの画面が、僕の怒りに呼応するように不気味な赤色に明滅する。
『――了解。産業革命の進展を恒久的に停止するための最適解を算出。基盤となるすべての蒸気機関工場群の物理的破壊を実行できるようにします』
熱中症で完全に僕の意識が途切れると同時に、ノイズ混じりの画面の奥から、次なる破壊の舞台へと時空を超える光が広がり始めていた。
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【第3話における自動車部品下請け工場の環境について】
第3話で蓮が配置された自動車部品下請け工場は、現代の産業構造について記された著書や記事、インターネットの匿名掲示板(5ちゃんねる等)に書き込まれた内容をベースに、さらに「歪んだ産業革命」の影響を加えて最悪な環境として構築されています。
・スポットクーラーのみの四十℃超えの室内
大規模な工場や古い下請け工場では、全体空調が効かず、夏場は室温が40℃から50℃近くに達することが珍しくありません。労働者の頭上に配置されたスポットクーラーからは「外気よりはマシな程度のぬるい風」が出るだけで、プレス機や溶接の排熱によって室内は完全なサウナ状態となります。
・秒単位のライン・タスクの呪縛
「今日中にあと三千個」というノルマに代表されるように、組み立てやプレスのライン作業は秒単位での正確性が求められます。匿名掲示板でもよく愚痴られるように、「一瞬でも遅れればラインが止まり、職長から怒号が飛ぶ」「ロボットになったかのような単純作業の繰り返しで精神が摩耗する」という、人間を人間として扱わない単純労働のシステムを描写しています。
・水分補給もままならない監視体制
熱中症リスクが高い環境でありながら、要領が悪い蓮のような最底辺の労働者は、作業の手を止めることができず、自由に水分補給や休憩を取ることも許されません。低賃金ゆえに碌な食事(炭水化物のみの安い弁当や即席麺など)しか摂れておらず、栄養失調と過労が重なった結果、現場で熱中症を引き起こして倒れるという、構造的な二次加害のリアリティを持たせています。




