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第2話 1770年代のバーミンガムにて…最初の改変

 煤煙の匂いが立ち込める狭い路地裏で、僕は震える指先を再びポケットに突っ込み、あの不気味なデバイスを取り出した。液晶の白い光が、薄暗い空間に冷たく浮かび上がる。


 僕は検索窓をタップし、縋るような思いで言葉を打ち込んだ。

『僕はここでなにをしなければいけないのか?』

 一瞬のタイムラグもなく、無機質な文字が画面を滑るように表示されていく。

『――回答。標的であるジェームズ・ワットの暗殺を推奨します。当該個体を排除することにより、歴史の改変率が基準値に達します。それに伴い発生する時空の歪み、すなわち異空間を通じて、あなたの本来の時間軸である現代(2030年)への帰還が可能となります』


 暗殺。現代の日本で生きてきた僕にとって、あまりにも生々しく、悍ましい響きだった。いくら未来をめちゃくちゃにした原因の一つだとしても、目の前の人間を殺すなんて、僕にできるわけがない。恐怖でデバイスを落としそうになった僕の思考を見透かすように、画面に新たな文字列が追加された。

『補足。タイムリープの初期設定として、現在のあなたは周囲の人間から一切認識されない状態(ステルス・モード)に制御されています。物理的な干渉は可能ですが、視覚、聴覚、精神的知覚において、この時代の人間があなたを認識することは不可能です。隠密行動による標的の暗殺は極めて容易であると算出されます』


 誰も僕を見ることができない。つまり、誰にも見つからずに、一方的に人を殺せるということか。血の通わないシステムの説明に、背筋が凍りつくのを感じた。

 しかし、ここに突っ立っていても何も始まらない。僕はデバイスを強く握り締め、意を決して路地裏から表通りへと足を踏み出した。


 本当に、誰も僕を見ていなかった。

 すれ違う馬車も、汚れた顔で荷物を運ぶ労働者たちも、僕を避けることなく、まるでそこに誰もいないかのように通り過ぎていく。すれ違いざまに肩が触れそうになっても、彼らは何一つ違和感を覚えないようだった。本当に僕は、この世界から隔離された透明人間になっている。


 僕はデバイスの検索窓に『ジェームズ・ワットの現在地と侵入経路』と打ち込んだ。画面には、1770年代のバーミンガムの簡素な地図と、赤い点、そしてそこへ至る最適なルートが淡々と表示された。ワットは現在、実業家マシュー・ボールトンと手を組み、ソーホー工場の一角にある研究室に籠もっているらしい。


 地図に従い、僕はバーミンガムの街を移動し始めた。

 通りは活気と、それ以上の劣悪な熱気に満ちていた。空を覆う黒煙の主である巨大な工場群、泥まみれの道を歩く労働者たちの衣服、そして川に流される正体不明の濁った排水。これらすべてが、僕たちのいた2030年の異常気象へと繋がっているのだと思うと、妙な現実味が胸を締め付けた。


 やがて、赤レンガで囲まれた広大な工場が見えてきた。

 門番が立っていたが、認識されていない僕はその脇を堂々とすり抜けた。デバイスの画面に表示される侵入経路をなぞりながら、入り組んだ敷地内を進み、目的の研究室の重い木製の扉へとたどり着く。鍵はかかっていなかった。静かに扉を押し開け、僕は中へと滑り込んだ。


 部屋の中は、異様な熱気と金属の匂いで満ちていた。

 中央には、複雑に組み上げられた巨大な鉄の塊――開発中の分離凝縮器付き蒸気機関が鎮座している。その周囲には、無数の図面や工具が散乱していた。

「……これだ。この凝縮器さえ完全に機能すれば、熱は逃げない。無駄な石炭を貪るだけのニューコメン型とは違う、真の鉄の心臓だ」

 低く、しかし熱を帯びた声が響いた。


 机にへばりつくようにして図面を睨みつけていた男――彼こそがジェームズ・ワットだった。高校の教科書で見た穏やかな肖像画とは違い、その瞳は酷い寝不足で血走り、狂気にも似た技術者としての執念がギラギラと渦巻いている。

「ワットさん、ボイラーの圧力がまもなく限界値に達します。これ以上の稼働は危険では……」

 煤にまみれた助手の一人が恐る恐る進言するが、ワットはそれを受け付けず、むしろ取り憑かれたように首を振った。


「止められるか。この機械は、ただの金を稼ぐ道具じゃない。お前たちも見たはずだ。炭鉱の底で、冷たい泥水に浸かりながら、馬や子供たちがどれほど惨死しているかを。人間の肉体など、自然の理不尽の前にはあまりにも脆い。だが、この蒸気という無限の力を飼い慣らせば、人類はあの暗い地獄の底から解放されるんだ。大自然を、我々の知性で支配するんだよ。もっと石炭をくべろ! 圧力を上げるんだ!」


 ワットの言葉が、僕の胸に鋭く突き刺さる。

 彼が救おうとしている「地獄の底の冷たい泥水」は、僕が2030年のコンビニで味わった、あの絶望の濁流そのものではないか。

 皮肉だった。この人は、人類を過酷な自然から救おうとして、純粋な善意と使命感からこの怪物を生み出そうとしている。そしてその怪物の排熱が、260年後の僕を殺したのだ。悪意がないからこそ、この歴史の歯車はあまりにも強固で、残酷だった。

(ごめん、ワットさん。あなたは間違っていないのかもしれない。だけど……僕だって、ただ生きたかっただけなんだ)


 認識されていない僕は、静かにボイラーのすぐそばへと歩み寄った。

 僕がやるべきことは、AIに教えられるまでもなく理解できた。

 ボイラーの圧力を調整するための安全弁。そのレバーに手をかける。本来なら手動で圧力を逃がすための機構を、僕は力を込めて完全に固定し、限界まで閉じ込めた。

 要領が悪くて、いつも損ばかりしてきた僕の手が、初めて歴史の歯車を狂わせようとしていた。


 異変に気づいたのは、一人の助手だった。

「な、気圧計の針が……! 止まらない! 圧力が異常上昇しています! ワットさん、安全弁が動きません!」

「なんだと!? 馬鹿な、すぐに点検しろ!」

 研究室が一気にパニックに包まれる。だが、もう遅かった。

 限界を超えた鉄の器が、内側からの狂暴な圧力に耐えきれず、悲鳴を上げる。

 直後、鼓膜を破らんばかりの爆音とともに、ボイラーが大爆発を起こした。


 吹き飛ぶ鉄の破片と、超高温の白濁した蒸気が、一瞬にして研究室全体を飲み込んでいく。ワットと彼のチームは、言葉を発する暇さえなく、その爆風と熱線の中に消失していった。

 すぐ目の前で起きた凄惨なボイラー事故。しかし、ステルス・モードに守られている僕の身には、爆風も、引き裂かれた鉄片も、一切触れることはなかった。僕の周囲だけが、まるでガラスで隔てられたかのように静寂を保っている。

 炎上し、黒煙を上げる研究室の真ん中で、僕はただ一人、立ち尽くしていた。


 標的の死亡。

 それを証明するように、僕の足元の床が、空間そのものが、ひび割れるようにして眩い光を放ち始めた。


………………………

【質問】

ワットとそのチームが死亡したことで、世界にどのような影響が起きたと推測されますか? 代わりに蒸気機関の改良をした人がいて、ワットと似たような成果を上げていったでしょうか?


【――回答】

ワットと彼のチームが死亡した場合、歴史にどのような影響が及ぶか。世界史の事実を踏まえると、非常に興味深い展開(歴史の分岐)が予測されます。

結論から言うと、「別の人間が蒸気機関を改良して同じ成果を上げる」ことは可能ですが、それが実現するまでには数十年単位の『致命的な遅れ』が生じると考えられます。

その具体的な理由と、予測される世界への影響は以下の通りです。


1. なぜワットの死で歴史が「数十年」遅れるのか?

ワット以前にも、トーマス・ニューコメンが発明した蒸気機関(主に炭鉱の排水用)は存在していました。しかし、これは「一度温めたシリンダーを毎回水で冷やす」という仕組みだったため、信じられないほど効率が悪く、大量の石炭をドブに捨てるような機械でした。

ワットの偉大さは、シリンダーを冷やさずに蒸気を冷やす「分離凝縮器」を発明し、効率を5倍近くに跳ね上げたことにあります。

もしワットが1770年代に死亡した場合、以下の要因で産業革命は急ブレーキがかかります。

* 強力な「特許」の空白:現実のワットは、1800年まで続く非常に強力な特許をイギリスで成立させ、他人が蒸気機関を勝手に改良するのを力ずくでブロックしていました(これが技術革新を阻害していたという側面もあります)。ワットが死ねば特許は消滅し、一見、開発競争が自由化するよう思えます。

* しかし、天才と資金のセットが消える:ワットの技術は、相棒である大富豪マシュー・ボールトンの資金力と、当時の最先端の鉄工技術(ジョン・ウィルキンソンの大砲の穴あけ技術)が奇跡的に結びついて初めて量産化できました。ワットのチームが丸ごと吹き飛んだ場合、これらを再び結びつけるリーダーが長期間現れなくなります。


2. 代わりに成果を上げるライバルはいたのか?

ワットの代わりに蒸気機関を改良しそうな有力なライバルは、実在していました。


ジョン・スミートン(実在のライバル)

当時、ワットと激しい効率改善レースを繰り広げていた一流の技術者です。しかし、彼のやり方は「ニューコメン型を地道に微調整して、効率を25%上げる」という限界のあるアプローチでした。ワットの「分離凝縮器」という天才的なひらめきがなければ、スミートンの延長線上では爆発的な工業化は起きません。


リチャード・トレヴィシック(次世代の天才)

現実の歴史では、ワットが「危険だから絶対に使うな」と禁止していた「高圧蒸気機関」をのちに開発し、これが蒸気機関車の誕生へと繋がります。ワットの特許が消えれば、こうした次世代の技術者が早く台頭する可能性はあります。しかし、当時の金属加工技術では高圧ボイラーは爆発しやすく、ワットの低圧で安全な機関という「土台」がない状態では、事故が多発して開発自体が社会的に禁止・頓挫した可能性が高いです。


3. 世界に起きる推測される影響

これらを踏まえると、蓮が戻る「改変された2030年」は、以下のような世界になっている可能性が極めて高いです。

* 「温暖化の進行が30〜50年遅れている」世界蒸気機関の普及(化石燃料の爆発的消費)が数十年遅れたため、2030年時点でも、現実の1980〜1990年代くらいの気候を保っている。つまり、「平均気温40℃」や「コンビニを襲った大洪水」は発生していない(まだ回避されている)世界になっている。

* 技術が歪んだ形で進歩している世界蒸気機関による「石炭」の時代がスキップされる、あるいは未熟なまま終わったため、人類は早くから「水力」を極限まで発達させているか、あるいは少し遅れて「電気」や「石油」の時代へ直接移行している。

* イギリスではなく別の国が世界の覇権を握っている世界「世界の工場」として大英帝国が君臨できたのはワットの蒸気機関のおかげです。それが失われたことで、イギリスの国力が史実ほど伸びず、世界の勢力図(植民地歴史など)が激変している。


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