イクス 1.
イクス・アートリーは、伯爵家の三男として生まれた。
幼い頃から、両親には『好きな道を選びなさい』と言われ、自由に育てられた。
イクスには一つの目標があった。
——魔塔で働くこと。
王国最高の魔術師たちが集う場所。
そこでは身分ではなく、実力だけが評価される。
家を継ぐことのない自分には、これ以上ない環境だった。
実力が必要なら、誰よりも力をつければいい。
(だったら、一番になればいい)
もちろん、自分の実力にも自信はあった。
努力を重ねた結果、イクスは飛び級を認められ、一つ年上の生徒たちとともに王立学園に入学した。
その中で、ひときわ目を引く生徒がいた。
ゼイン・キャンベル。
公爵家の嫡男であり、圧倒的な魔力量を持つ魔術の天才。
(あの人がゼイン様か)
入学前から何度も名前を聞いていた。
(せっかく同じクラスになれたんだ。どれほどすごいのか、この目で見てみたい)
そんな期待を胸に学園生活は始まった。
◇◇◇
最初の魔術実技の授業。
教師は生徒たちに魔力操作の課題を与えた。
生徒たちの机には、魔力を可視化するための透明な板が置かれていた。
「板の上に、魔力をできる限り細く、一定の速度で流し続けなさい。簡単そうに見えるが、非常に難しい技術だ」
生徒たちは真剣な表情で魔力を操る。
細くしようとすれば途切れ、維持しようとすれば太くなる。
「あっ」
「また切れた……」
教室のあちこちから困った声が聞こえてきた。
イクスも集中して魔力を操る。
難しい。
それでも、わずかに揺らぎながらも、一本の細い魔力を維持できた。
「アートリー君」
教師が頷く。
「よくできています。その調子ですよ」
「ありがとうございます」
イクスはほっと息をついた。
その時だった。
教室が小さくざわつく。
視線を向けると、ゼインだった。
無表情のまま指先を軽く動かした。
その瞬間、魔力が糸のように細く伸びた。
揺らぐことも、乱れることもない。
まるで最初からそこに一本の線があったかのようだった。
教師はしばらく魔力の線を見つめた後、感嘆したように息をついた。
「……見事です。これほど安定した魔力操作は、教師でも簡単には真似できません」
教室が静まり返る。
派手な魔法ではない。
大きな爆発も、眩しい光もない。
だが、魔術を学ぶ者なら誰でも分かる。
今の技術は異常だった。
(……すごいな)
イクスは思わず笑みを浮かべる。
(なるほど。上には上がいるってことか)
悔しさよりも、胸が高鳴った。
授業が終わると、すぐにゼインのもとに向かった。
「ゼイン様!」
呼びかけても返事はない。
「さっきの魔力操作、どうやったんですか?」
ゼインは一度だけイクスに視線を向けたが、何も答えず歩き続けた。
「無視ですか!」
その背中に笑いながら問いかけたが、やはり反応はなかった。
翌日も。
その次の日も。
イクスは懲りずに話しかけ続けた。
その様子を見ていた同級生が、呆れたように声をかける。
「イクス、お前よく平気だな」
「何が?」
「ゼイン様だよ。公爵家の嫡男なのに、誰も近寄らないだろ」
言われて周囲を見回す。
確かに、ゼインの近くには誰もいなかった。
話しかけようとする者もいない。
「怖くないのか?」
「怖い?」
イクスは首を傾げた。
「無口なだけじゃないか」
同級生たちは顔を見合わせる。
「……お前、本当に変わってるな」
そんなことを言われても、イクスにはよく分からなかった。
ある日の放課後。
イクスは魔術理論の本を片手にゼインを追いかけた。
「この術式なんですけど、魔力の流れを逆にした方が効率が良くないですか?」
初めて、ゼインの足が止まる。
「……違う」
短く返事が返ってきた。
イクスの目が輝く。
「返事した!」
ゼインは小さくため息をつき、本を受け取った。
「この理論では魔力が乱れる」
そう言って数か所を書き直す。
魔力がぶつかっていた二本の経路を分け、余分な術式を一つ削る。
それだけで術式は見違えるほど洗練された。
「なるほど!」
イクスは感心したように頷く。
「やっぱり面白い人だな」
ゼインは本を返すと、そのまま歩き出す。
「これからどこに行くんですか?」
「魔塔だ」
短く答えたその一言に、イクスは目を丸くした。
(魔塔……)
王国最高の魔術師たちが集う場所。
その言葉に、イクスの胸はさらに高鳴るのだった。
それ以来、魔術について尋ねれば、ゼインは短いながらも答えてくれるようになった。
イクスはそれを十分な進歩だと受け取り、授業の後には当然のようにゼインの隣を歩くようになった。
そんなある日の放課後。
「今度、魔塔主様の講義があるんですよ」
ゼインは歩みを止めることなく前を向いたまま聞いている。
「成績上位者だけ参加できるらしくて。僕も行けることになったんです」
「そうか」
短い返事。
それでも返事をしてくれたことが嬉しくて、イクスは笑みを浮かべる。
「向こうで会えるかもしれませんね」
ゼインは何も答えず、そのまま魔塔に向かって歩いて行った。
◇◇◇
数日後。
年に一度開かれる、魔塔主による特別講義の日がやってきた。
魔塔の広い実習室には、学園から選ばれた生徒たちが集まっている。
暴走した魔力を室外へ漏らさないため、実習室の周囲には結界が張られていた。
実習室の前方には、魔塔主モーガンが立っている。
その少し後ろにはゼインの姿もあった。
補佐として講義を手伝っているらしい。
ゼインが以前から魔塔主に直接指導を受けているという噂は、学園でも有名だった。
(やっぱりいた)
イクスは少し嬉しくなる。
やがて講義が始まった。
モーガンの説明を聞きながら、生徒たちは順番に魔力操作を実践していく。
高度な内容にもかかわらず、生徒たちは次々と課題をこなしていった。
その時だった。
「あっ……!」
一人の生徒の魔力が突然乱れる。
制御を失った魔力は一気に膨れ上がり、隣の生徒に向かって暴走した。
「危ない!」
イクスは反射的に手をかざす。
「防御壁!」
半透明の壁が生徒の前に展開された。
イクスが防御壁を展開したのとほぼ同時に、モーガンが暴走した生徒の肩に手を置いた。
膨れ上がっていた魔力が急速に収まっていく。だが、すでに放たれた魔力までは消えない。
次の瞬間、暴走した魔力が激突した。
激しい衝撃とともに、防御壁に大きなひびが走った。
(耐えきれない——!)
その瞬間、イクスの防御壁を覆うように、もう一枚の結界が展開された。
深い青白い光をまとった結界が、暴走した魔力を完全に受け止める。
衝撃はその場で静かに消えていった。
ゼインだった。
実習室は静まり返る。
モーガンは暴走した生徒の状態を確認し、安全を確かめると穏やかに口を開いた。
「落ち着いてください。大丈夫ですよ。大切なのは、次に同じ失敗をしないことです」
講義はその後も予定通り続き、無事に終了した。
生徒たちが帰り始める中、イクスはゼインのもとに向かった。
「ゼイン様!」
その様子を見ていたモーガンが、くすりと笑った。
「君はゼインの知り合いかい」
「学園でいつも話しかけてるんです」
「ほう」
「無視されることが多いですけど」
モーガンは声を立てて笑った。
「そうかそうか。イクス・アートリー君だったね」
「はい」
「先ほどの対応は見事でした」
イクスは驚いて目を丸くした。
「ありがとうございます」
「あの状況で真っ先に防御魔法を展開した。すぐに行動に移せる者は、多くありません」
モーガンは穏やかな口調のまま尋ねた。
「何年生ですか」
「一年生です。飛び級して入学しました」
「なるほど」
モーガンは納得したように頷き、隣のゼインに目を向けた。
「ゼイン。君以外にも、面白い生徒がいましたね」
ゼインもイクスを見た。
「……そうですね」
短い返事だった。
それだけで十分だった。
ゼインが自分を認めてくれたような気がして、イクスは思わず笑みを浮かべた。
モーガンは再びイクスに向き直った。
「興味があるなら、休日の公開講義や実習を見に来るといい」
「ぜひ学ばせてください!」
イクスは勢いよく頭を下げた。
モーガンは優しく笑った。
「ただし、学園の勉強が優先です。授業はきちんと受けなさい。魔塔は卒業してからでも遅くありません」
「はい!」
元気よく返事をすると、モーガンは今度はゼインに視線を向けた。
「ゼイン。君も魔塔に来すぎです。学園生活も大切にしなさい」
「……分かりました」
そのやり取りを見て、イクスは思わず笑ってしまう。
「ゼイン様も怒られることがあるんですね。また魔塔で会えますね」
ゼインは小さくため息をついた。
「……勝手にしろ」
ぶっきらぼうな返事だった。
それでもイクスは満面の笑みを浮かべた。
「ははっ! これからもよろしく、ゼイン様!」
その日から、イクスは学園に通いながら、休日になると魔塔に足を運ぶようになった。
それが、後に長く続く二人の関係の始まりだった。




