45.
最後の治療を翌日に控えたその夜。
セリアはベッドに横になり、魔塔の入館証を眺めていた。
指先でそっと縁をなぞりながら、小さく笑みを浮かべる。
「明日で最後かぁ……」
ぽつりと呟く。
長い間、治ることはないと思っていた病気。
何度も熱を出し、苦しい治療を受け、それでも少し良くなるだけだった。
だからこそ、完治できる日が来るなんて、一度も想像したことがなかった。
こんな日を迎えられたのはゼインのおかげだ。
初めて会った日のことを思い出す。
本の中の魔王様が現れたようで、思わず『魔王様』と呼ぶと、真顔で『魔王じゃない』と返された。
「ふふっ」
セリアは少し笑った。
ゼインを思うと、不思議と胸の奥が少しだけ温かくなった。
けれど、その温もりはすぐに別の思いに変わる。
治療が終われば、ゼインと定期的に会える理由はなくなる。
ゼインも忙しい立場だ。
きっと、これまでのように会うことはなくなるのだろう。
「もう、会えないのかな……」
寂しさにも似た気持ちが胸を締めつけた。
執務室で紅茶を飲んだこと。
一緒に本を読んだこと。
夕日を見たこと。
少しずつ話せるようになって、ほんの少しだけ距離が縮まったような気がしていた。
「これから……どうしたらいいんだろう」
天井を見上げ、小さく息をつく。
また会いたい。
そんな言葉が浮かんでは、すぐに胸の中にしまい込んだ。
(もし、会いたいですって言ったら……)
ゼインはどんな顔をするだろう。
困らせてしまうだろうか。
それとも——。
そこまで考えて、セリアは慌てて首を振った。
「はあ……」
ため息が漏れる。
一人で考えても答えは出ない。
そう分かっているのに、次から次へとゼインのことばかり思い浮かんでしまう。
窓の外では、静かな夜が更けていく。
その夜、セリアはなかなか眠りにつくことができなかった。
◇◇◇
翌日。
セリアはいつものように魔塔を訪れていた。
受付を済ませると、聞き慣れた声が背後から聞こえる。
「セリア様」
振り返ると、イクスが笑顔で歩いてきた。
「イクス様」
「間に合ってよかったです。今日は少し忙しくて、治療には立ち会えないんです」
少し申し訳なさそうに笑うイクスに、セリアは首を振った。
「気にしないでください」
そして、小さく微笑む。
「今まで、本当にありがとうございました」
「いえいえ」
イクスは照れくさそうに頭をかいた。
「僕は少しお手伝いしただけです」
「そんなことありません」
セリアは優しく首を振る。
「イクス様がいてくださったから、安心して治療を受けられました」
その言葉に、イクスは嬉しそうに笑った。
「そう言っていただけて嬉しいです」
そして、いつもの明るい笑顔を浮かべる。
「また魔塔に遊びに来てください」
「はい」
セリアも笑顔で頷いた。
「ぜひ伺います」
「約束ですよ」
二人は笑顔で別れ、イクスは来た道を戻っていった。
セリアは治療室に向かった。
部屋に入ると、ゼインはすでに準備を終えていた。
「……来たか」
「はい」
いつものように治療が始まる。
魔力が流れ、回路が少しずつ整えられていく。
しばらくして、ゼインは静かに手を離す。
「……これで終わりだ」
セリアはゆっくりと身体を起こした。
身体が軽い。
これまで当たり前だった苦しさが、どこにもない。
本当に治ったのだと、ようやく実感した。
「ありがとうございました」
何度頭を下げても足りないくらいだった。
ゼインは静かに頷く。
「……紅茶でも飲むか」
「はい」
二人は執務室に向かった。
温かな紅茶の香りが部屋に広がる。
向かい合って座るものの、セリアはなかなか口を開くことができなかった。
伝えたいことはある。
けれど、言葉がまとまらない。
そんな様子を見ていたゼインが、小さく口を開いた。
「……どうした」
セリアは思わず顔を上げる。
「いえ、その……」
言葉に詰まる。
ゼインはしばらく黙っていたが、一度カップに視線を落とし、わずかに指先に力を込めた。
「……お前は以前、言っていただろう。魔王様を『私なら一人にしない』と」
その言葉に、セリアは目を見開いた。
勇者物語の一場面。
以前病室で話した、大好きな場面。
(……覚えていてくれたんだ)
やがて、セリアはふっと笑った。
「はい」
まっすぐゼインを見つめる。
「私は、魔王様を一人にしません」
その言葉に、ゼインの口元がわずかに緩んだ。
ほんの少しだけ笑ったように見えた。
セリアもつられて笑う。
その穏やかな空気の中、セリアはもう一度ゆっくりと口を開いた。
「だから……」
一度だけ深呼吸をする。
「私は……ゼイン様のそばにいたいです」
部屋が静まり返る。
ゼインは少しだけ目を見開き、それから照れ隠しをするように視線を逸らした。
しばらくの沈黙の後、小さく息をつく。
「……そうか。なら、これからも来ればいい」
しばらくして、ゼインはセリアに視線を戻した。
「……俺も、その方がいい」
短い返事だった。
けれど、その声はどこか柔らかかった。
セリアの胸に、温かな喜びが広がった。
大好きだった勇者物語。
本の中で憧れ続けた魔王様のような人に、セリアは出会った。不器用で、優しい人だった。
二人は顔を見合わせ、静かに笑った。
もう、魔王は一人ではない。




