39.
公爵家の護衛に両脇を押さえられ、フレディはなおも抵抗していた。イクスはその傍らで様子を見ている。
「離せ! セリア、僕は君と話が——」
その叫びに、セリアは自分の足で一歩前に出た。
もう誰かに支えられることなく、しっかりと立っていた。
フレディは息をのむ。
「フレディ様」
穏やかな声だった。
「私はもう、大丈夫です」
セリアは小さく微笑む。
「どうか、お元気で」
その言葉に、フレディは何も返せなかった。
護衛たちはそのままフレディを連れて歩き出す。
「待ってくれ、セリア!」
声だけが遠ざかっていく。
セリアはその背中を静かに見送り、小さく息をついた。
やがてゼインが馬車の扉を開く。
「帰るぞ」
「はい」
セリアは頷き、馬車に乗り込んだ。
馬車がゆっくりと走り始める。
車内には静かな時間が流れていた。
窓の外を眺めながら、セリアは先ほどの出来事を思い返す。
フレディがゼインに向かって言った言葉。
——化け物。
胸の奥が痛んだ。
(あんなふうに言われたのは、初めてではないのだろうか……)
オーレリアの話を思い出した。
きっとこれまでにも、恐れられ、傷つく言葉を向けられてきたのではないか。
(私のせいで……)
ぽろりと涙が頬を伝った。
ゼインはその様子に気づき、静かに視線を向ける。
最初、フレディとの一件で張り詰めていたものが切れたのだと思った。
「……気にするな」
短い言葉だった。
それでもセリアの涙は止まらない。
「私のせいで……あんなことを……」
震える声でそう呟く。
ゼインは何も聞き返さなかった。
ただ、そっとセリアの手を包む。
温かな体温が伝わってくる。
「……」
セリアは驚いたようにゼインを見つめる。
その手は何も語らない。
それでも、不思議と少しだけ胸の痛みが和らいでいく気がした。
やがて馬車は子爵家の屋敷に到着する。
ゼインは先に馬車を降り、セリアに手を差し伸べた。
セリアが降り立つのを見届けると、何か言いかけるように口を開く。
「……」
しかし、その言葉は続かなかった。
小さく息をつき、いつもの落ち着いた表情に戻る。
「次の治療は四日後だ」
「はい」
「それまで無理はするな」
それだけ告げると、ゼインは後から付いてきていた公爵家の馬車に乗り直す。
ゆっくりと遠ざかっていく馬車を見送りながら、セリアはそっと自分の手を見つめた。
先ほどまで包まれていた温もりが、まだそこに残っているような気がした。
◇◇◇
フレディを侯爵家へ引き渡すと、公爵家の護衛たちは戻っていった。
玄関には、すでに父と母が待っていた。
「フレディ!」
母は駆け寄り、その姿を見てほっと息をつく。
「怪我はありませんか?」
「母上、僕は——」
「フレディ」
父が静かに名を呼ぶ。
その声に、母も言葉を飲み込んだ。
父の表情には怒りはなかった。
ただ、深い疲れと諦めだけが浮かんでいた。
「話はすべて聞いている」
淡々とした口調で続ける。
「公爵家から報告を受けた」
「父上、違うんです。僕はただセリアを——」
「もういい」
短く遮られた。
「何度も話した。何度も機会を与えた」
父は静かに息をつく。
「だが、お前は何一つ変わらなかった」
フレディは言葉を失う。
「今後、お前が領地を出ることは許さん。外出の際には必ず監視を付ける。当分の間、部屋から出ることも許さん」
「そんな……」
「そして」
父は真っ直ぐフレディを見据えた。
「お前を次期侯爵とする考えは撤回する」
母は何か言おうと唇を開いたが、父の表情を見て声を失った。
フレディは一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「……え?」
「後継者にはマークを迎える」
「ま、待ってください!」
フレディは思わず声を荒らげる。
「僕しかいないじゃありませんか!」
父は静かに首を振った。
「お前だけではない。マークがいる」
その一言が、重く胸に落ちた。
そうだった。
従兄弟であるマークもまた、侯爵家の血を引いている。
今まで一度も考えたことがなかった。
自分が後継者であることを疑うことなど、一度も。
父は本気だったのだ。
脅しでも、叱責でもない。
本当に、自分を見限ったのだ。
足元が揺らぐような感覚に襲われる。
「部屋へ」
父が護衛に視線を向ける。
二人の護衛がフレディの両脇に立った。
フレディは抵抗することもできず、そのまま部屋まで連れて行かれる。
扉が閉まり、外から鍵の掛かる音が響いた。
静まり返った部屋の中で、フレディはただ呆然と立ち尽くす。
誰もいない部屋は、ひどく広く感じられた。
初めて、自分が立っていた場所が決して揺るがないものではなかったのだと知った。




