14.
数日後。
バーク侯爵家の食堂では、静かに朝食が進んでいた。
食器の触れ合う音だけが響く中、不意に侯爵が口を開いた。
「フレディ」
「はい、父上」
「オーレリア嬢とは順調か」
フレディは迷うことなく頷いた。
「もちろんです。少し忙しくて予定を変更することはありましたが、そのことなら、もうきちんと話しています」
侯爵は手にしていたナイフとフォークを置いた。
「変更、ではないだろう」
静かな声だった。
「お前の従者に、ここ数か月の予定を確認した。待ち合わせの時間を過ぎてから断りを入れたこともあったそうだな」
「……事情があったんです」
「セリア嬢のことか」
「はい」
侯爵はゆっくりと頷いた。
「幼馴染を気遣うこと自体は悪くない」
その言葉に、フレディは少し安心したような表情を浮かべた。
しかし、侯爵の声はすぐに厳しさを帯びる。
「だが、それで婚約者との約束を破ってよい理由にはならん」
「ですが、オーレリアは分かってくれています」
「本当にそう思っているのか」
問いかけられ、フレディは穏やかに笑った。
「少し嫉妬しているだけですよ。婚約者が幼馴染の見舞いへ通っていれば、不安になるのも仕方ありません」
「相手の気持ちを、お前が勝手に決めつけるな」
侯爵はまっすぐ息子を見た。
「オーレリア嬢は、嫉妬していると自分で言ったのか」
「いいえ。本人は違うと言っています」
「ならば、なぜ信じない」
「彼女は気丈な人ですから。本当の気持ちを素直に言えないだけです」
あまりにも迷いのない返事に、侯爵は眉を寄せた。
「オーレリア嬢の話を最後まで聞いたのか」
「もちろん聞いています」
フレディは当然のように答える。
「ですが、言葉どおりに受け取るだけでは、本当の気持ちは分かりません」
侯爵はしばらく何も言わなかった。
隣で話を聞いていた侯爵夫人が、息子に優しく微笑みかける。
「あなたは昔から優しい子ですもの。困っている人を放っておけないのは、あなたの良いところよ」
「母上……」
「病気の幼馴染を放って婚約者との外出を優先したら、それこそ薄情ではありませんか。きっとオーレリア様も、落ち着けばあなたの優しさを分かってくださるわ」
フレディは嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます、母上」
侯爵だけが、小さく息を吐いた。
「優しくすることと、相手の言葉を聞かないことは別だ」
「父上は少し難しく考えすぎですよ」
フレディは困ったように笑い、再び食事に戻った。
その様子を見ながら、侯爵の胸には拭いきれない不安が残った。
◇◇◇
朝食を終えたあと、フレディは侯爵の執務室で領地に関する書類の整理を手伝っていた。
「父上、こちらの書類ですが」
フレディは一枚の報告書を差し出した。
「合計額が合っていなかったので、計算し直しておきました」
「どこが間違っていた」
「合計欄の計算です。すべて足し直したところ、数字がずれていました」
侯爵は書類に目を落とした。
村ごとの納税額が並ぶ一覧の一番下で、確かに合計額だけが書き直されている。
「元の記録は確認したのか」
「元の記録?」
「どの村の報告に誤りがあったのか、担当者に確認したのかと聞いている」
「ですが、記載されている数字はすべて足し直しました。合計は合っています」
フレディは穏やかに笑った。
「これで問題ありません」
「問題がないかどうかは、まだ分からん」
侯爵は低い声で答えた。
「計算を間違えただけならよい。だが、元の報告に誤りがあった可能性もある。徴収額と実際に納められた額が違うのであれば、誰かが困窮しているのか、不正があるのかもしれん」
「でも、合計は合うようになりました」
「数字だけを合わせても、原因が残っていれば同じことが起こる」
侯爵は書類を机に置いた。
「担当者に確認し、元の帳簿と照らし合わせろ。勝手に数字を書き換えて終わらせてはならん」
「そこまでする必要がありますか?」
フレディは不思議そうに首を傾げた。
「小さな計算違いですよ」
「小さな違いかどうかを判断するために、確認するのだ」
侯爵の声がわずかに厳しくなる。
「一つの数字の向こうには、領民の暮らしがある。それを忘れるな」
「……分かりました」
フレディは素直に返事をしたものの、納得しているようには見えなかった。
侯爵は息子の顔を見つめながら、胸の内で呟く。
(やはり、目の前の問題を整えただけで、すべて解決したと思っている)
計算の間違いを見つけたこと自体は悪くない。
だが、なぜ間違いが起きたのか、その先に何があるのかを考えようとしない。
(だから、オーレリア嬢との婚約を望んだのだ)
侯爵が息子の婚約者としてオーレリアを選んだのは、家柄や政治的なつながりだけが理由ではなかった。
彼女は冷静で、人の話をよく聞き、目の前の出来事だけでなく、その先まで考えることのできる令嬢だった。
フレディに足りないものを、彼女なら補ってくれる。そう考えていた。
だが、息子が成長しないまま、その未熟さのすべてを彼女に背負わせてよいはずがない。
(私は、彼女に息子の未熟さを押しつけようとしていたのではないか)
優しいだけでは、侯爵は務まらない。
領民の声を聞き、原因を確かめ、時には誰かにとって厳しい決断を下すことも必要になる。
このままのフレディに、侯爵家を継がせてよいのだろうか。
侯爵の胸に、不安が静かに積もっていった。
やがて書類の整理が一段落すると、フレディが顔を上げた。
「父上」
「何だ」
「今日の午後、外出してもよろしいでしょうか」
侯爵はわずかに眉を寄せる。
「どこへ行く」
「王立魔法療養院です。セリアの見舞いに行こうと思っています」
執務室に短い沈黙が流れた。
「先ほど話したことを、もう忘れたのか」
「忘れてはいません」
フレディは穏やかに笑った。
「オーレリアには見舞いを控えてほしいと言われましたが、それは彼女が不安になっているからです。だからといって、セリアの見舞いをやめる必要はありません」
「セリア嬢本人は、来てほしいと言ったのか」
「はっきりとは言いませんでした。でも、また来ると約束しましたから」
侯爵は厳しい目で息子を見た。
「お前が一方的に告げた言葉を、約束とは呼ばない」
「セリアは遠慮しているだけです」
また同じ答えだった。
侯爵は深く息を吐く。
「まずは、午後までに先ほどの書類を確認しろ。外出については、その後に改めて話す」
「終われば、出かけてもよろしいのですね」
「許可したわけではない」
フレディは一瞬きょとんとしたものの、すぐに笑顔に戻った。
「分かりました。きちんと終わらせます」
そう言って、再び書類に向き直る。
だが、フレディの心はすでに療養院へ向かっていた。
セリアも本当は来てほしいと思っているに違いない。
(それに、また来るって約束したからね)
約束を破るわけにはいかない。
自分が一方的に告げただけだという父の言葉は、フレディの心には残らなかった。




