花迎え 2
浪越の春は、花ではなく匂いで始まる。
雪解けの水と海藻と、魚の腹を割いたあとの生臭さ。晴れた日には、遠くの産業港から油の匂いまで混じってくる。
市役所はそれを潮風と呼び、観光協会は生命の息吹と書いた。
理恵の母は、春になると宿の窓を全部開けた。
「冬の間に死んだ空気を出すんだ」
そう言って、押入れも仏壇も、客室の便所まで開け放った。
本人が死んだ今年も、理恵は同じように窓を開けた。
母の部屋だけは、まだ閉じたままだった。
四十九日が終わったら片づけるつもりでいた。だが果歩は、勝手にそこへ寝起きしていた。
「ばあちゃん、怒るよ」
一度だけ言うと、
「死んだ人に部屋はいらないでしょ」
と返された。
正しいことを言う娘は腹が立つ。
昼過ぎ、二人の客が来た。
一人は背の高い男で、古びた革鞄を下げていた。五十前後に見えたが、額のしわのわりに髪は黒く、年齢の見当がつきにくい。
もう一人は、黒いコートを着た女だった。女は銀色の細長いケースを持っていた。
「予約した鴨田です」
男が言った。
「十三湊です」
女が続けた。
理恵は宿帳を見た。
鴨田茂樹。職業欄には大学教員。
十三湊かなえ。職業欄には奇術師。
「手品師さんですか」
理恵が訊くと、女は少し考えた。
「人前では」
「人前じゃないときは」
「詐欺師に近いです」
鴨田が咳払いをした。
「この人は、冗談を言っているつもりです」
「つもりじゃなくて冗談です」
「冗談の説明をするな」
二人は夫婦には見えなかった。恋人にも、同僚にも見えなかった。互いに相手の存在へ慣れきっているのに、同じ場所へ帰る感じがしない。
鴨田は浪越の沿岸信仰を調べに来たという。
「仏ヶ浦の花迎えについて、古い資料が残っていると聞きまして」
「花迎えなら、寺に行けばパンフレットがありますよ」
「パンフレットに載っていないものを調べるのが仕事です」
「大学の先生って大変ですね」
「現在は客員です」
客員のところに、妙な力が入った。
十三湊は玄関で靴を脱ぎながら、廊下の奥を見た。
「お子さん、います?」
「上に娘が」
「娘さんじゃなくて」
理恵は女を見た。
「小さい子」
「いません」
「そうですか」
十三湊はそれ以上言わなかった。
二人をそれぞれの部屋へ案内し、夕食の時間を伝えた。
階段を下りる途中、二階の突き当たりで、何かが走った。
裸足の子どもが、廊下を横切ったように見えた。
理恵は足を止めた。
母の部屋の襖が、少しだけ開いている。
「果歩」
返事はなかった。
部屋を覗くと、娘は布団の上で横向きに眠っていた。制服のまま、膝を腹へ引き寄せている。
枕元に、白い貝殻が一つ置かれていた。
二枚貝の片割れだった。縁に小さな穴が開き、色あせた赤い糸が通っていた。
見覚えがあった。
母が、仏ヶ浦の花迎えのたびに妊婦へ配っていた守りだった。
だが、その貝はもっと古い。
理恵が子どものころから、母の裁縫箱の底にあったものだ。
「これ、どこから出したの」
果歩は目を開けた。
「何が」
「貝」
「知らない」
「ばあちゃんの部屋、勝手に漁ったでしょ」
「漁ってないよ」
「じゃあ何でここにあるの」
果歩は貝をつまみ、顔の前で裏返した。
「ばあちゃんが置いたんじゃない」
「ふざけないで」
「母さんが怖がってどうすんの」
果歩は貝を枕元へ戻した。
「死んだ人でしょ。もう何もできないじゃん」
理恵は何も言わず、部屋を出た。
階段を下りてから、母の裁縫箱を思い出した。
仏間の押入れにしまったはずだった。
夕食の支度をする前に確かめると、箱は押入れの奥にあった。
蓋を開けた。
糸、針、古いボタン、旅館名の入ったマッチ箱。
底には、貝殻の片割れが一つだけ残っていた。




